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おだんご頭と新しい刑
努力
しおりを挟む5月の大型連休最後の日の夜。
自分の体を奪った女が「かわらないこと」を約束をしているとも知らずに。『美晴』は、美晴の部屋にある学習机に突っ伏して、静かに眠っていた。少女の長い黒髪が、机一帯に広がっている。
「……ん、うぅん」
(あれ……。おれ、寝ちゃってたのか……)
鬱陶しいぐらいに伸びた前髪を払い、そのついでにまだ眠気が残る目をこすった。しかし、何度こすっても視界は少しぼやけたままで、はっきりとしない。
(あっ、そうだ……。メガネ、どこに置いたっけ)
メガネがないと何も見えない、というわけではない。小さな文字や遠くの文字を読むのに必要になる程度だ。それでも、今まで裸眼で不自由なく生活を送ってきた風太にとっては、なかなか面倒な存在だった。
(たしか電気スタンドの横に……あ、あった。なくさないようにしないと)
透明なメガネケースを手に取り、レンズを軽く拭いてから、中に入っていたメガネをかけた。すると、目の前の景色はクリアになり、ベッドのそばにあるデジタル時計の数字まで、鮮明に見えるようになった。
(もう夜の7時か。そろそろ美晴のお母さんが帰ってくる時間だな)
……メガネの位置が、少しズレているような気がする。『美晴』は、学習机の上にある白い卓上鏡を開け、見やすい位置に置いた。
鏡の中には、メガネの位置を整えながらこちらを見ている少女がいる。風太はメガネから手を離し、その少女の顔をじっと見た。
(起きたら元の体に戻ってる……なんて。期待するのもおかしいのかな)
長いまつげと、少し垂れた目。前髪を上げるとおデコに現れる凄惨な傷。ほんのりと赤い頬に、潤いのある唇。どれも、本来の自分のものではない。
メガネをかけると表情があまり分からず、知的と言うよりは冷徹な印象になった。そしてメガネを外すと、垂れ目や赤い頬が分かりやすくなり、大人しくて優しそうな印象に変わった。しかし、結局はどちらも美晴の顔であって、風太の顔ではない。
「あ、あー……。あー……」
声を出してみる。
当然それも、本来の風太の明るくはっきりとした声ではなく、ソプラノで少し暗い、美晴のささやくような小さな声だ。体のつくりがそもそも変化しているのだから、声帯だけ元に戻っているということはまずあり得ないのだが、もしかしたらという希望も捨てきれなかった。
風太は自分が出した声を聞いて、また落胆した。
(あいつと入れ替わってから、もう一週間が過ぎたのか。なんだか色々あった気がするけど、体は未だに美晴のまま変わらないな。あとどれくらいこの生活が続くんだろう……)
イスの背もたれに体を預け、両腕の力もだらりと抜いて、部屋の白い天井をぼんやりと見上げた。
(このままぼんやりしてたら、すぐに二週間、一ヶ月、半年、一年……。一年か……。来年の今頃には、おれも中学生になってるんだよな……。なんだか、遠い未来の話だとばかり思ってたけど)
瞳をすっと閉じて、中学生になった自分を想像してみることにした。
* * *
月野内小学校の大半の生徒は、日野外中学校へと進学する。風太の高校生の兄もそこに通っていたし、風太もそこに通うことになるのはほぼ間違いない。以前に何度か、日野外中学校の校舎の近くを訪れたこともあるので、場所もすでに知っている。
(たしか、桜並木を通り抜けて……)
日野外中学校へと続く桜並木の道を、ある男子中学生と女子中学生が、二人でならんで歩いている。
「見て、風太くんっ! 似合ってる?」
「うーん、雪乃はまだ『制服に着られてる』って感じがするなぁ」
学ランを着た男子中学生は風太。紺色のセーラー服を着た女子中学生は雪乃だ。身長が少し伸びたぐらいで、髪型や顔は今とほとんど変わらない。
「えーっ!? そんなことないもん! もっとちゃんと見てよっ」
「何回見ても同じだって。でも、中学二年生になるころには、お前もしっかりとした……」
「わぁー! 桜がすっごく綺麗だよ風太くんっ!」
「やっぱり、雪乃はいつまで経っても雪乃だな」
「ん? 何か言った?」
「なんでもないよ」
「いーや、風太くんの『なんでもないよ』は、絶対何かある時だよ!」
「本当になんでもないって」 「そうなの? じゃあ、なんでもないね!」
いつもの何気ない会話。小学生の時と何も変わらない。
二瀬風太は、きっとこれからも春日井雪乃と同じ道を歩いて行くのだろう。と、そう思った時、雪乃が突然おかしなことを言い出した。
「ところでさぁ、さっきからわたしたち、誰かに見られてる気がするんだけど……」
「おいおい、怖いこと言うなよ」
「いや、でも……ほら、あの子」
雪乃は指をさした。雪乃の指先は、はっきりとこちらを向いている。
(えっ……? 今雪乃の隣にいるのが、おれじゃないのか……!?)
嫌な予感がする。
「あの子、誰? 風太くんの知り合い?」
「あいつは確か……おれたちと同じ中学一年生の、戸木田美晴だな。雪乃、覚えてないのか?」
「美晴? 誰だっけ?」
(ウソだろ……!? な、なんだよ、これっ……!)
『美晴』は視線を下に降ろして、自分の体を見た。
服装は、男子中学生が着る学ランではなく、雪乃が着ているものと同じ女子中学生のセーラー服。髪は肩よりもさらに長く伸び、胸にある二つの膨らみがスカーフを押し上げている。
「なんだか様子が変だよ。あの子」
「小学校の時から変なやつだったよ、美晴は。あんな感じだから、いつもいじめられてたしな」
(違うっ! おれは美晴じゃないっ!)
「ふーん。あんまり関わっちゃダメな人なんだね。風太くん」
「ああ。行こうぜ雪乃」
(待てよっ! 待ってくれ雪乃! おれが本物の風太なんだよっ!)
雪乃と風太を追う。しかし、脚を前に動かしても、上手く進むことができない。
いつも以上に視界はぼやけ、だんだん見えなくなっていく。遠くの方では、雪乃と風太が楽しそうに話をしながら笑っていた。
(嫌だっ! 美晴なんかに……女子中学生なんかに、なりたくないっ! 誰か……助けてくれ……)
頭を抱えて首を左右に振っても、長い黒髪が乱れるだけで、何も変わらない。錯乱状態に囚われるなか、誰かが様子を伺うかのように、『美晴』の肩を優しくポンと叩いた。
「大丈夫? 美晴ちゃん」
そこにいたのは、蘇夜花だった。
* * *
「うわあーーーーっ!!!!!!」
恐ろしい想像は消え、『美晴』は現実世界に戻ってきた。熱帯夜のように全身にすさまじい量の汗をかき、身体がビクッと震えた拍子に、膝を思い切り机の下にぶつけてしまった。
「はあっっ……! はあっ……! 痛いっ……! ハァ……ハァ……」
吐息は相変わらず美晴だったが、今いる場所は桜並木ではなく学習机だ。一応、さっきの悪夢からは帰ってくることができたのだ。
『美晴』は口から溢れ出そうになる唾液をゴクリと飲み込み、また大きく息を吸った。
「はぁ、はぁっ……! くそっ……!」
イスから立ち上がり、クローゼットの中から無地の白いタオルを取り出すと、それを持って再び同じイスに着席した。
そのタオルで、汗の量が酷い額や首元のあたりをゴシゴシと力強く拭いながら、落ち着きを取り戻す。額の傷には汗が染みたが、今はそんなこと気にならない。
「ならないぞ……! 女子中学生になんて……! 雪乃や健也たちと……一緒に……、おれは男子中学生として……中学校に通うんだ……!」
使い終わったタオルを、ぐしゃぐしゃと丸めて部屋の隅に放り投げ、お尻を持ち上げてイスにしっかりと座り直した。
(大丈夫だ、手掛かりはある。『ノート』について調べれば、きっと何か分かるはずだ)
徐々に、風太の表情に余裕が戻ってきた。
(それに、美晴の方だって、おれの……二瀬風太としての生活が、そう簡単にこなせるわけがない。おれにはおれの苦労だってあるんだ。あいつの方こそ、今頃は元に戻りたくて家でメソメソ泣いているかもしれないぞ)
やはり、希望の言葉を自分に言い聞かせると、心が落ち着く。
(そして……これを見る限り、おれはまだ完全に美晴になったわけじゃない)
『美晴』は、今日一日かけて取り組んでいた学校の宿題の中から、一枚の算数プリントを取り出した。全問埋められ、名前欄には「戸木田美晴」と書かれているものの、鉛筆で書かれたその文字は、太くて濃い。柔らかく繊細な美晴の筆跡ではなく、風太の筆跡だ。
(これは、おれの字だ……! 努力すれば、『風太』を取り返すことはできるんだ……! 希望はあるんだ!)
その算数プリントの裏面には、先ほどまで「二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太 二瀬風太」と、鉛筆で書かれていた。現在は消しゴムで全て消されているが、最初の方は柔らかく繊細な「二瀬風太」が、後半になるにつれて、徐々に太くて濃い「二瀬風太」になっていった様子が、うっすらとうかがえる。
「ふぅ……」
感情の昂ぶりはすっかり収まり、汗は完全に止まった。
残りの宿題である漢字ドリルを、『風太』の文字でさらさらと終わらせ、明日学校で提出する全ての宿題を、美晴の赤いランドセルの中にしまった。
(よし、終わった……! 美晴の方も、ちゃんとおれの宿題を終わらせてくれてるのかな。それも気になるけど、次にあいつに会ったら、まず『ノート』のことを聞かないと……。あと他に聞きたいことは……)
藤丸が言っていた「図書室で会える男の子」のことも、少しだけ気になっていた。
少し気になっていた。
ほんの少し。
少し。
(美晴の好きな男子……。どんなやつなんだろう……)
(別に、どんなやつでもいいけどさ。どこの誰でも、おれには関係ないし)
(美晴も、どうせならそいつと入れ替わればよかったのに。なんでおれなんだよ。本当に、何考えてるんだよあいつ……)
(あぁもうっ! なんでこんなに気になるんだよムカつくなぁ!! 『図書室で会える男の子』なんだから、やっぱり学校の図書室にいるんだろうな……。見にいくだけなら、いいよな。別に……)
風太は、明日からの目的を『ノート』と『図書室で会える男の子』の二つに絞り、モヤモヤとした気持ちをぶつけるように、ベッドにドスンと横になった。
(明日から学校かぁ……。まぁ、二日行ったらまた休みだし、気は楽だな。美晴とも、この二日間のどこかで話す機会があるだろうし……)
少女は、前向きな気持ちを持って、大型連休最後の一日を終えた。
* *
翌日。天気はどんよりと曇り。
休み明けといえど、小学生たちはまだまだ元気いっぱい。通学路では、連休中の楽しかった思い出を友達と交換し、会話に花を咲かせている。そんな中、『美晴』は今日もまた独りで登校し、誰からも声をかけられることなく6年2組の教室の美晴の席まで辿りついた。
(ふぅ……。なんだか、ランドセルが重く感じるな。今日は荷物も多いし、美晴の弱っちい体だしで、思い当たる原因はたくさんあるけど)
小さくため息をつき、持ってきたものを整理するために、机の引き出しの中を右手で軽くさぐった。
(あれ? 机の中に、何か入ってるぞ……?)
教科書やノートを、学校に置いて帰った記憶は無い。不思議に思いながら、ゴワゴワするそれを右手で掴み、机の中から引き抜いた。
「えっ……? これって……」
それは、まだ使用される前の女児用紙おむつだった。
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