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1巻
1-2
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ノアは言いながら、ヴィオレットが広げていたものを見回す。
「すぐ片づけるから、こっちに通してもらってかまわないけど」
エミリエンヌとは気心が知れた仲なので、散らかっている部屋を見られたところで問題はないし、彼女もそれをうるさく言う性格ではない。
「かしこまりました。……あー、それからお連れの方がいらっしゃるのですが、その方もお通ししてよろしいでしょうか?」
普段、はっきりした物言いをするノアにしては歯切れが悪い。
「誰か分からないけど、もういらっしゃっているなら、お帰りいただくわけにはいかないでしょう。お通しして」
エミリエンヌがヴィオレットの会いたくない相手を伴ってくるとは思えないから、問題ないだろう。
ヴィオレットが了承すると、間もなくしてノアがエミリエンヌを連れてきた。
「ヴィー、久しぶりー」
笑顔のエミリエンヌのうしろに、「お連れの方」が立っている。
「よ、よう。久しぶり、だな」
エミリエンヌと一緒に現れたのは……幼馴染のドミニクだった。
「なんでドミニク?」
突然現れたドミニクに、ヴィオレットは困惑の色を隠せない。
正直、ヴィオレットは彼に二度と会いたくなかった。本人を前にして口には出さないが。
「ヴィーに話があるみたいでね。いきなり連れてきてごめん。先に言うと、ヴィーが嫌がると思って。なんか粗相したら、即首根っこひっつかんで屋敷から追い出すから!」
エミリエンヌにそこまで言われて、もう来てしまっている相手を追い返すことはできない。
「う、うん。とりあえず、二人とも座って」
ヴィオレットは二人に座るよう促した。
ドミニクの隣にエミリエンヌ、テーブルを挟んで向かい側のソファーにヴィオレットが座る。ノアは、お茶とお茶菓子のクッキーをテーブルに置いて一礼すると退室した。
男性が苦手なヴィオレットは、よく知った幼馴染であっても顔を直視することができない。
一方のドミニクも緊張しているのか、やたら唇を舐めている。きょろきょろと部屋を見回したり何度もお茶を飲んだりと、なぜか落ち着かない様子だった。
久しぶりにドミニクに会い、ヴィオレットは知らず知らずのうちに昔のことを思い出してしまった。
彼女は幼い頃、ドミニクをはじめとした貴族子息たちに、髪と目の色が皆と違うのはおかしいとからかわれていた。
会うたびに髪の毛を引っ張られるので、睨みつけて、「嫌い! やめて!」とはっきり拒絶したこともある。ところが、余計にひどくからかわれるようになったので、そのうち外出を控えるようになったのだ。
成長すると、昔ヴィオレットをいじめていた子息たちは、なぜか彼女を歌劇や食事に誘いはじめた。これも新たなからかいの手口なのだろう、と警戒したヴィオレットは、決して誘いには乗らなかったけれど。
「ちょっと、あんたお茶飲みに来たわけ? 早くしゃべりなさいよ」
エミリエンヌは長い栗色の髪を結いあげ、流行の髪形にしている。ピンク色のドレスを身に着けていて見た目こそ可愛らしいが、性格は結構男っぽいところがある。
今もドミニクの腰のあたりに、がんがん肘鉄を入れていた。
乱暴に促され、ドミニクはようやく重い口を開く。
「ヴィオレット、結婚するんだってな。『疾風の黒豹』と」
「……そうだけど」
それがどうしたのか。ドミニクには関係ないはずだ。ヴィオレットは思わず眉をひそめた。
「なんでわざわざ『疾風の黒豹』なんかと結婚するんだよ。……オ、オレと結婚すれば実家も近くだったのに」
「縁談を申し込まれたから。っていうか、なんでドミニクと私が結婚するの?」
心底不思議に思って、ヴィオレットは大きな目をパチパチさせる。
「なんで……って」
拳をぎゅうっと握り締めて、ドミニクはしばらく逡巡する。そして、意を決したように顔をあげた。
「昔っからお前のことが好きだからだよ! ずっと気を引こうとしてただろうが。鈍いんだよ、お前!」
ヴィオレットは怒鳴られて、一瞬びくっと肩を震わせる。そして、怪訝な顔をした。
「……気を、引く? 私、髪を引っ張られたりからかわれたりした覚えしかないんだけど。あんなことされたら、嫌いにはなっても、絶対に好きにはならないよ」
ヴィオレットの言葉を聞いて、エミリエンヌはクッキーを頬張りながら言う。
「『好きなら意地悪するのやめな』って言ったのに、やめないからよ。あんたらのせいで、この子は男嫌いになったんだからね。とりあえず謝れ」
「うっ……そこまで嫌がってると思ってなくて……。ただ、お前の髪と目の色がすごく綺麗で、近くで見たかったんだ。からかったら、お前が涙目になって反応してくれるのが可愛かったし……。でも、外に出なくなったのはそのせい、なんだよな。謝ってすむと思ってねーけど、ごめん」
しどろもどろに言葉を紡ぎ、ドミニクが深々と頭を下げる。
幼いヴィオレットはドミニクたちに大変傷つけられた。その記憶は今も心に深い傷跡を残している。これからも多分癒えることはないだろう。だが、ヴィオレットは優しく言った。
「いいよ、もう。頭をあげて。正直、今すぐ許すのは無理だけど、わけを話してくれたからいい。それに、私が外に出なくなったのは、ドミニクたちだけのせいじゃないもの」
「ありがとう、ヴィオレット……。あの、これ、結婚祝いっつーか、お詫びっつーか。半年前、うちの店に入荷したのを買ったんだ。お前に似合いそうだったから、ずっと渡したかった。もらってくれたら嬉しい」
顔をあげたドミニクは、綺麗に包装されたプレゼントをテーブルにのせた。
彼は両親である、ノアイユ伯爵夫妻が営む宝石店で働いている。プレゼントの包装紙は、その店のものだった。
「開けてもいい?」
「もちろん」
ヴィオレットの細い指がするっとリボンをほどき、包みを開いていく。現れたのは、アメジストと金で作られた、小さな蝶のネックレスだった。
「これを初めて見たとき、ヴィオレットの瞳の色にそっくりだと思った。ヴィオレットにすっげー似合うだろうなって。ヴィオレットはシンプルで可愛いものが似合うよな! エミリエンヌはごてごてしたものしか似合わねえけど!」
「……は? あんた私に喧嘩売ってる?」
いきなり貶められたエミリエンヌは、じろりとドミニクに睨みを利かせた。
ヴィオレットはケースに収められたネックレスに視線を落とす。
「……可愛い」
思わず頬を緩ませると、なぜかドミニクは握り締めた拳を、ガンガン膝に打ちつけはじめた。
エミリエンヌがその様子を「うわー……引くわー……」と生暖かい目で見ている。
「だ、大丈夫? お医者さん呼ぶ?」
状況が分からず狼狽するヴィオレットに、エミリエンヌがぱたぱたと片手を顔の前で振った。
「病気じゃないから。……あー、頭はおかしいけど、大丈夫」
ドミニクは無言でエミリエンヌを睨みつけていたが、とりあえず具合は悪くなさそうだ。
「でも、こんなのもらえない。これ、アメジストでしょう?」
高価なものなのが容易に想像できたので、ヴィオレットは小さく首を横に振って断る。
「お前に買ったんだから、もらってくれ。頼む、ヴィオレット」
ドミニクは食い下がったが、そんなわけにはいかない。
「もらってあげてよ、ヴィー。こいつ荒稼ぎしてるんだから、値段なんて気にしなくていいよ。いらなければ売り払って、ヴィーのおこづかいにすればいいわ」
「……分かった」
荒っぽい言い方ではあったが、これがエミリエンヌの優しさだ。そんな彼女の後押しもあって、ヴィオレットは受けとることにした。
「ありがとう、ドミニク。大事にする」
ネックレスを胸元に当て、ヴィオレットは微笑んだ。
するとドミニクは、ぼーっとした顔で見つめてきて、しばらくしてはっと我に返った。
「あの、さ。今さらなんだけど、もしオレが、縁談を申し込んだら……受けてくれたか?」
「うーん」
ヴィオレットは形のいい唇に人さし指をそっとあてて、しばらく考え込んだ。
「ちゃんとした手順で申し込んでくれれば、からかってるわけじゃないって分かるし、受けたと思う。……私は、私に好意を持ってくれているなら誰でも嬉しかった。ドミニクでも、フィリップ公爵でも」
「……そうか。ありがとう。絶対、絶対幸せになれよ! っていうか、幸せになれなかったら帰ってこい。オレが嫁にもらってやる」
「あ、ありがとう」
「もらってやる、じゃなくて嫁に来ていただきたい、でしょうが。それに嫁ぐ前からそんなこと言うって、どうなの」
クッキーをほぼ一人で平らげたエミリエンヌは、頬を緩ませたドミニクに呆れ顔で突っ込んだ。
閑話 有能執事の独り言
(とうとうアーノルド様を結婚させることに成功した)
結婚式の準備をして、自分の部屋に戻ったコンラッドは、これまでのことを思い返してニヤニヤしてしまった。
アーノルドが嫌そうな顔で結婚を了承したときには、思わず心の中で大きくガッツポーズをしたものだ。
彼が結婚相手に求める条件として「控えめ」や「小柄」をあげてくるのは予想の範囲内。積極的な女性に辟易していたようだし、背の低い女性が可愛らしく思えるのは理解できる。
マルス王国の女性は皆積極的だから、外国から花嫁を探してくることになりそうだ、と思っていた。
ところが、「エルフ」と言い出したときには『寝ぼけてるんですか?』と嫌味の一つでも言いたくなった。
アーノルドは、そんな女性はどこにもいないと高を括っていたのだろう。
しかし、コンラッドはアーノルドを何がなんでも結婚させなくては、という思いを抱いていた。
すると、思いのほか早く、隣の大陸にある国の令嬢で条件にあてはまる女性が見つかったのだ。
かくしてコンラッドは、アーノルドが簡単に縁談を白紙に戻せないよう、本人の知らないうちに結婚の準備を進めることに。
まずは前公爵夫妻に結婚が決まったことと、式の日取りを映話で知らせた。
大旦那たちは二十代のうちの結婚というものをあまり重要視していないようで、「ふーん」となんとも軽い返事だった。
だが、息子の結婚は嬉しいようで、式に合わせて屋敷に戻るという。
コンラッドが相談せずに結婚相手を決めたことを謝罪すると、『コンラッドが選んだ女性なのだから問題ないだろう』と言ってもらった。一介の使用人を信用しすぎなのではないかと心配な反面、嬉しいのも確かだ。
次は、アーノルドの兄であるテオドールに連絡をとった。
テオドールは学者をしていて、世界中を飛び回っている。今もマルス王国から遠い国にいるようだ。
そんな彼にアーノルドの結婚相手が決まった旨を伝えると、コンラッドは質問責めにあった。
『結婚相手は美人? えっ、エルフぅー? おいおい、アルはそんな趣味なの? っていうか、コンラッド、そんな女性よく見つけたな。エルフは長寿って聞くけど、年は二百歳とかじゃないよね? って、ちょ、十八歳? アルは二十八だろ? 十歳も違うじゃん! ……へー先祖返りのエルフなんだぁー。会うの楽しみだわ。で、式はいつなの? ……ええー? 一か月後? ダメだよ、オレ、今アトランビスワニの出産観察してっから。オレがアトランビスワニを手なずけるのにどんだけ苦労したと思ってんのー。もし出産するところを見られたら、世界初なんだよ! アトランビスワニはさー――』
……延々とワニの話が続きそうなので、強引に映話を終了した。テオドールから幾度か映話の接続を求める通信が入るが、ひたすら拒否する。
コンラッドとテオドールの仲は決して悪いわけではないが、彼はアーノルドと正反対で多弁なので、話していて疲れる。
(というか、どんなワニだか知らないが、仲のいい弟とワニ、どちらが大事なんだ)
そんなこともあったけれど、アーノルドの結婚準備は順調だ。
コンラッドはこの結婚を祝うため、手に入れたばかりのワインを開けることにした。チーズとオリーブをつまみに、祝杯をあげる。
今日は特に美味く感じられ、いつのまにか瓶の中身は半分になってしまった。
アーノルドの結婚が決まり、のどに刺さっていた魚の骨がとれたようにすがすがしい。
同じ貴族とはいえ、縁談を申し込んだヴィオレットは小国の伯爵令嬢。権力の差や国同士の関係を考えると、断ることはできないだろうと踏んでいた。
予想通りマッキンリー伯爵は結婚を快諾したが、一つだけ条件をつけてきた。
『エルフの先祖返りである娘を求めてくれるのは大変ありがたいが、彼女をエルフではなく人間として扱ってほしい』というものだ。
人間の両親から生まれたのだから、彼らが娘を人間として育てることは、ごく当たり前のことだろう。彼らの手を離れたあとも、そのように過ごしてほしいと願うことも。
これについては、アーノルドも快く了承した。
オルレーヌ国は小国であるがゆえ、非常に閉鎖的かつ排他的だ。エルフの外見を持つヴィオレットは、大変住みにくかっただろうと想像できる。
その点、マルス王国は大国であるため人が集まりやすく、外国人も多い。ヴィオレットもさほど浮かないだろうから、過ごしやすいに違いない。
心配なのは、彼女とアーノルドとの相性だ。コンラッドも、ヴィオレット本人と会ったことはないので、実際にアーノルドが彼女を気に入るかどうかは分からないのだ。
また、アーノルドが女性と親しげにしているのを見たことがほとんどないため、彼が花嫁に対してどのように接するのかも、あまり想像できなかった。
堅物のアーノルドは、ヴィオレットの好みではないかもしれない。
――いや、まあ、アーノルドも見た目は高レベルだし、なるようになるだろう。
(場は整えたから、あとはなんとかしてください。アーノルド様)
コンラッドは、心の中でそう呟いた。
2 ……可愛い。
いよいよ結婚式が翌日に迫り、ヴィオレットがフィリップ公爵家にやってくることになった。マッキンリー伯爵夫妻は、仕事の都合でヴィオレットより遅れて来るという。
アーノルドは、今日から一週間休暇をとっているにもかかわらず、なぜか騎士団の詰め所にいた。
王宮騎士団は、騎士団と魔法騎士団の二つに分けられる。
騎士団は剣などの武器を使って戦い、魔法騎士団は魔法を使って戦う。そのため、魔法騎士団は貴族で構成されており、逆に騎士団には平民が多く所属していた。
どちらの騎士団も第一分隊と第二分隊から編成されており、それぞれに分隊長がいる。騎士団の第一分隊と第二分隊を統括するのが、騎士団長であるアーノルドの役目だ。
近年は近隣諸国との関係が落ち着いており大規模な戦争がないので、城や街を警備し、国の治安を守るのが主な仕事になっている。
また、人に悪さをする魔物を討伐しに行くこともあった。
アーノルドは、普段通り部下に訓練をつけてから軽く遠乗りに行ったあと、馬房に戻した馬に水を与えているところだ。
その馬は、騎士団長になったときに国王陛下から与えられた、毛並みの美しい黒馬だ。
「……撫でてやろうか?」
同意するように馬が首を縦に振ったので、アーノルドはブラシを手にとる。そのとき、アーノルドの背後から風が吹き抜け、ブラシを彼の手から払い落とした。
風魔法だ。
小さなブラシだけを狙うには、かなりの技術がいる。犯人が分かったアーノルドは、うしろを振り返った。
「今日、お前の嫁が来るんじゃなかった? 休暇とってたよな」
悪友のルーカスがへらへらとしまりのない笑みを浮かべ、片手をあげて近寄ってきた。
ルーカスはアーノルドの同期で、魔法騎士団第二分隊長を務めている。外見はチャラチャラしているが、次期魔法騎士団長と目される実力者だ。
アーノルドは地面に落ちたブラシを拾いあげながらルーカスの問いに答える。
「……来るのは昼前だ。コンラッドには急用があると言って出てきた」
諦めの悪いアーノルドに、ルーカスは呆れた顔をした。
「そろそろ昼前だぞ。もう結婚からは逃げらんねえんだから、いい加減覚悟を決めろ。まー、オレはまだまだ遊ぶけどー」
ルーカスは騎士団きってのプレイボーイだ。彼は、王宮の年若いメイドの多くと一夜を共にしたことがあるらしい。
しかし、手をつけた女性の誰ともいざこざを起こしたことはなく、むしろ彼女たちはルーカスと関係を持ったことを自慢するほどだ。
なんでも、ルーカスと一夜をともにした女性は、より魅力的になるらしい。その後結婚が決まった、彼氏ができた、というメイドが多く現れ、王宮内では一種の伝説のようになっている。
そんな彼は、ひとたび街へ出れば、アーノルドと一緒であろうが、美人に声をかけないと気がすまないらしい。
上手く話がつくと、アーノルドと別れて、そのまま女性の肩を抱いて出かけていく。
そのようなことがたびたびあるにもかかわらず、ルーカスと一緒に出かけてやるアーノルドは、自分でも寛容だと思っている。
そのときルーカスがふと、馬房の入口の人影に気づいて声をあげた。
「あ、コンラッド」
アーノルドもつられてそちらを見ると、険しい顔をしたコンラッドが、副団長のフリッツとともにこちらに向かってくるところだった。フリッツがコンラッドを案内してきたらしい。
無言で逃げようとしたアーノルドの腕を、察したルーカスが掴む。
「……離せっ!」
「コンラッドを困らせちゃダメだろ」
もみ合っているうちに、コンラッドが目の前にやってきた。
「アーノルド様、すぐ屋敷に戻りますよ。忙しいんですから、駄々をこねないでください」
コンラッドには、力ずくでアーノルドを引っぱっていくことはできない。そう思っていたら、ルーカスが余計な提案をする。
「オレがこのまま馬車まで連れてってやろーか? コンラッドじゃ力負けするだろ」
「それは助かります、ルーカス様」
「ルーカス! お前、裏切ったな……!」
「この件に関しては、もともとお前の味方じゃねーし」
アーノルドはぎりぎりと歯ぎしりをしたが、ルーカスはまったく意に介していない。
彼はアーノルドの腕を掴んだまま、黙って様子を見ていたフリッツに声をかける。
「あとは自分に任せてください。というか、副団長自ら案内しなくても、下級騎士に任せればよかったんじゃないですか?」
「お急ぎのご様子だったからな。それに私が行くのが一番早かった。……まさか団長ともあろう方が、結婚から逃げ回っていたとは存じませんでしたが。では、失礼します」
慇懃無礼に言って、フリッツはその場を立ち去った。
ルーカスはしばらく彼のうしろ姿を見つめる。
「アーノルド。お前、優しいのはいいけどさー、副団長の態度はあれでいいのかよ。上司に対してどうかと思うぞ」
「……仕事ぶりは問題ないから、別にいい」
「まぁお前が納得してるならいいけど。さっ、きりきり歩け!」
「……ルーカス、恨むぞ」
「本当に時間がないんですから! アーノルド様!」
コンラッドとルーカスに引きずられるようにして、アーノルドは馬車に押し込まれた。
へらへらしたルーカスの笑顔に見送られながら座席に腰を下ろした途端、馬車が出発する。
御者は、普段よりスピードを出したらしく、あっという間に屋敷に到着したのだった。
✿ ❀ ✿
「アーノルド様!」
到着したあと、コンラッドはアーノルドに「着替えてくるように」と言って部屋に押し込めたのだが、彼はその後一向に出てくる気配がない。しびれをきらしたコンラッドは、ノックもせずにドアを勢いよく開いた。だがそこに、アーノルドの姿はない。
コンラッドが部屋の中を見回すと、ベッドの上掛けが膨らんでおり、そこから金色の髪がのぞいている。上掛けをめくろうとするが、アーノルドは腐っても騎士団長だ。力では一介の執事長ごときに勝ち目はない。
「……お腹痛い」
布団の中から弱々しい声が聞こえてくる。そんな主人に呆れ返り、コンラッドは声を荒らげた。
「子供みたいな嘘をつくんじゃありません! マクドール先生をお呼びして、腹痛に効く苦い薬湯を作っていただきましょうか」
マクドールは、長年フィリップ公爵家が抱えている医師だ。幼い頃に飲んだ薬湯の味を思い出したのか、アーノルドは慌てて前言を撤回する。
「お腹は治ったけど、急に眠たくなった」
「やっぱりマクドール先生をお呼びして、薬湯をいただきましょう。ばっちり目が覚めます」
「……嫌だ」
「もう、アーノルドったら」
いつのまにかやってきた前公爵夫人が『可愛いわね』とでも言いたげに、息子の髪の毛を眺める。
前公爵夫妻は、昨日旅行先から帰宅していた。
夫人は外国から嫁いできたため、金髪碧眼に白い肌を持っている。
「お嫁さんをお待たせしたら悪いわね。私は彼女が到着したらすぐ行けるよう、一階で待っているわ」
息子の相手は任せたとばかりに、夫人はさっさと部屋を出ていった。
コンラッドはため息をついて、声を張りあげる。
「この期に及んで、往生際が悪いですよ! 騎士団長ともあろう人が、男らしくないですねぇ。部下たちが知ったらどう思うでしょうか」
「……」
騎士団長としてのプライドを刺激され、アーノルドはのろのろとベッドから這い出た。だが、そのあとの動きもひどく緩慢だったので、着替えは一向に進まない。
「私が着せてさしあげましょうか? あーもう、ほら。馬車が着きました。もうすぐヴィオレット様が降りてこられますよ」
一応花嫁のことは気になるのか、アーノルドはコンラッドの隣に立ち、窓から馬車を見守る。
先にメイドが馬車を降り、続いて御者の手をとって小柄な女性がゆっくりと降りてきた。
あれがヴィオレットだろう。幅広の帽子を目深にかぶっていて、彼女の少しうしろを歩くメイドより頭一つ分ほど小さい。ドレスからすんなりと伸びた腕は華奢だ。
ヴィオレットは待っていた夫妻の前に進み出て、優雅に淑女の礼をとる。
それは完成されたダンスのように美しかった。
アーノルドがいつのまにか、窓に張りつくようにして見ている。そのことに、本人は気づいていない。
顔はまだほとんど見えないが、その優雅な仕草や可愛らしく小柄な体形に、アーノルドは強く惹きつけられたらしい。
「……可愛い。コンラッド、ここは天国だったか? あそこにいるのは天使? 妖精? すごく小柄だけど、本当に成人しているのか? ……あんなに可愛らしいのに、オレなんかとの結婚を承諾するはずがない。もっといい条件の嫁ぎ先がいくらでもあったはずだ。オレから国の機密を聞き出そうとする密偵なのでは?」
「すぐ片づけるから、こっちに通してもらってかまわないけど」
エミリエンヌとは気心が知れた仲なので、散らかっている部屋を見られたところで問題はないし、彼女もそれをうるさく言う性格ではない。
「かしこまりました。……あー、それからお連れの方がいらっしゃるのですが、その方もお通ししてよろしいでしょうか?」
普段、はっきりした物言いをするノアにしては歯切れが悪い。
「誰か分からないけど、もういらっしゃっているなら、お帰りいただくわけにはいかないでしょう。お通しして」
エミリエンヌがヴィオレットの会いたくない相手を伴ってくるとは思えないから、問題ないだろう。
ヴィオレットが了承すると、間もなくしてノアがエミリエンヌを連れてきた。
「ヴィー、久しぶりー」
笑顔のエミリエンヌのうしろに、「お連れの方」が立っている。
「よ、よう。久しぶり、だな」
エミリエンヌと一緒に現れたのは……幼馴染のドミニクだった。
「なんでドミニク?」
突然現れたドミニクに、ヴィオレットは困惑の色を隠せない。
正直、ヴィオレットは彼に二度と会いたくなかった。本人を前にして口には出さないが。
「ヴィーに話があるみたいでね。いきなり連れてきてごめん。先に言うと、ヴィーが嫌がると思って。なんか粗相したら、即首根っこひっつかんで屋敷から追い出すから!」
エミリエンヌにそこまで言われて、もう来てしまっている相手を追い返すことはできない。
「う、うん。とりあえず、二人とも座って」
ヴィオレットは二人に座るよう促した。
ドミニクの隣にエミリエンヌ、テーブルを挟んで向かい側のソファーにヴィオレットが座る。ノアは、お茶とお茶菓子のクッキーをテーブルに置いて一礼すると退室した。
男性が苦手なヴィオレットは、よく知った幼馴染であっても顔を直視することができない。
一方のドミニクも緊張しているのか、やたら唇を舐めている。きょろきょろと部屋を見回したり何度もお茶を飲んだりと、なぜか落ち着かない様子だった。
久しぶりにドミニクに会い、ヴィオレットは知らず知らずのうちに昔のことを思い出してしまった。
彼女は幼い頃、ドミニクをはじめとした貴族子息たちに、髪と目の色が皆と違うのはおかしいとからかわれていた。
会うたびに髪の毛を引っ張られるので、睨みつけて、「嫌い! やめて!」とはっきり拒絶したこともある。ところが、余計にひどくからかわれるようになったので、そのうち外出を控えるようになったのだ。
成長すると、昔ヴィオレットをいじめていた子息たちは、なぜか彼女を歌劇や食事に誘いはじめた。これも新たなからかいの手口なのだろう、と警戒したヴィオレットは、決して誘いには乗らなかったけれど。
「ちょっと、あんたお茶飲みに来たわけ? 早くしゃべりなさいよ」
エミリエンヌは長い栗色の髪を結いあげ、流行の髪形にしている。ピンク色のドレスを身に着けていて見た目こそ可愛らしいが、性格は結構男っぽいところがある。
今もドミニクの腰のあたりに、がんがん肘鉄を入れていた。
乱暴に促され、ドミニクはようやく重い口を開く。
「ヴィオレット、結婚するんだってな。『疾風の黒豹』と」
「……そうだけど」
それがどうしたのか。ドミニクには関係ないはずだ。ヴィオレットは思わず眉をひそめた。
「なんでわざわざ『疾風の黒豹』なんかと結婚するんだよ。……オ、オレと結婚すれば実家も近くだったのに」
「縁談を申し込まれたから。っていうか、なんでドミニクと私が結婚するの?」
心底不思議に思って、ヴィオレットは大きな目をパチパチさせる。
「なんで……って」
拳をぎゅうっと握り締めて、ドミニクはしばらく逡巡する。そして、意を決したように顔をあげた。
「昔っからお前のことが好きだからだよ! ずっと気を引こうとしてただろうが。鈍いんだよ、お前!」
ヴィオレットは怒鳴られて、一瞬びくっと肩を震わせる。そして、怪訝な顔をした。
「……気を、引く? 私、髪を引っ張られたりからかわれたりした覚えしかないんだけど。あんなことされたら、嫌いにはなっても、絶対に好きにはならないよ」
ヴィオレットの言葉を聞いて、エミリエンヌはクッキーを頬張りながら言う。
「『好きなら意地悪するのやめな』って言ったのに、やめないからよ。あんたらのせいで、この子は男嫌いになったんだからね。とりあえず謝れ」
「うっ……そこまで嫌がってると思ってなくて……。ただ、お前の髪と目の色がすごく綺麗で、近くで見たかったんだ。からかったら、お前が涙目になって反応してくれるのが可愛かったし……。でも、外に出なくなったのはそのせい、なんだよな。謝ってすむと思ってねーけど、ごめん」
しどろもどろに言葉を紡ぎ、ドミニクが深々と頭を下げる。
幼いヴィオレットはドミニクたちに大変傷つけられた。その記憶は今も心に深い傷跡を残している。これからも多分癒えることはないだろう。だが、ヴィオレットは優しく言った。
「いいよ、もう。頭をあげて。正直、今すぐ許すのは無理だけど、わけを話してくれたからいい。それに、私が外に出なくなったのは、ドミニクたちだけのせいじゃないもの」
「ありがとう、ヴィオレット……。あの、これ、結婚祝いっつーか、お詫びっつーか。半年前、うちの店に入荷したのを買ったんだ。お前に似合いそうだったから、ずっと渡したかった。もらってくれたら嬉しい」
顔をあげたドミニクは、綺麗に包装されたプレゼントをテーブルにのせた。
彼は両親である、ノアイユ伯爵夫妻が営む宝石店で働いている。プレゼントの包装紙は、その店のものだった。
「開けてもいい?」
「もちろん」
ヴィオレットの細い指がするっとリボンをほどき、包みを開いていく。現れたのは、アメジストと金で作られた、小さな蝶のネックレスだった。
「これを初めて見たとき、ヴィオレットの瞳の色にそっくりだと思った。ヴィオレットにすっげー似合うだろうなって。ヴィオレットはシンプルで可愛いものが似合うよな! エミリエンヌはごてごてしたものしか似合わねえけど!」
「……は? あんた私に喧嘩売ってる?」
いきなり貶められたエミリエンヌは、じろりとドミニクに睨みを利かせた。
ヴィオレットはケースに収められたネックレスに視線を落とす。
「……可愛い」
思わず頬を緩ませると、なぜかドミニクは握り締めた拳を、ガンガン膝に打ちつけはじめた。
エミリエンヌがその様子を「うわー……引くわー……」と生暖かい目で見ている。
「だ、大丈夫? お医者さん呼ぶ?」
状況が分からず狼狽するヴィオレットに、エミリエンヌがぱたぱたと片手を顔の前で振った。
「病気じゃないから。……あー、頭はおかしいけど、大丈夫」
ドミニクは無言でエミリエンヌを睨みつけていたが、とりあえず具合は悪くなさそうだ。
「でも、こんなのもらえない。これ、アメジストでしょう?」
高価なものなのが容易に想像できたので、ヴィオレットは小さく首を横に振って断る。
「お前に買ったんだから、もらってくれ。頼む、ヴィオレット」
ドミニクは食い下がったが、そんなわけにはいかない。
「もらってあげてよ、ヴィー。こいつ荒稼ぎしてるんだから、値段なんて気にしなくていいよ。いらなければ売り払って、ヴィーのおこづかいにすればいいわ」
「……分かった」
荒っぽい言い方ではあったが、これがエミリエンヌの優しさだ。そんな彼女の後押しもあって、ヴィオレットは受けとることにした。
「ありがとう、ドミニク。大事にする」
ネックレスを胸元に当て、ヴィオレットは微笑んだ。
するとドミニクは、ぼーっとした顔で見つめてきて、しばらくしてはっと我に返った。
「あの、さ。今さらなんだけど、もしオレが、縁談を申し込んだら……受けてくれたか?」
「うーん」
ヴィオレットは形のいい唇に人さし指をそっとあてて、しばらく考え込んだ。
「ちゃんとした手順で申し込んでくれれば、からかってるわけじゃないって分かるし、受けたと思う。……私は、私に好意を持ってくれているなら誰でも嬉しかった。ドミニクでも、フィリップ公爵でも」
「……そうか。ありがとう。絶対、絶対幸せになれよ! っていうか、幸せになれなかったら帰ってこい。オレが嫁にもらってやる」
「あ、ありがとう」
「もらってやる、じゃなくて嫁に来ていただきたい、でしょうが。それに嫁ぐ前からそんなこと言うって、どうなの」
クッキーをほぼ一人で平らげたエミリエンヌは、頬を緩ませたドミニクに呆れ顔で突っ込んだ。
閑話 有能執事の独り言
(とうとうアーノルド様を結婚させることに成功した)
結婚式の準備をして、自分の部屋に戻ったコンラッドは、これまでのことを思い返してニヤニヤしてしまった。
アーノルドが嫌そうな顔で結婚を了承したときには、思わず心の中で大きくガッツポーズをしたものだ。
彼が結婚相手に求める条件として「控えめ」や「小柄」をあげてくるのは予想の範囲内。積極的な女性に辟易していたようだし、背の低い女性が可愛らしく思えるのは理解できる。
マルス王国の女性は皆積極的だから、外国から花嫁を探してくることになりそうだ、と思っていた。
ところが、「エルフ」と言い出したときには『寝ぼけてるんですか?』と嫌味の一つでも言いたくなった。
アーノルドは、そんな女性はどこにもいないと高を括っていたのだろう。
しかし、コンラッドはアーノルドを何がなんでも結婚させなくては、という思いを抱いていた。
すると、思いのほか早く、隣の大陸にある国の令嬢で条件にあてはまる女性が見つかったのだ。
かくしてコンラッドは、アーノルドが簡単に縁談を白紙に戻せないよう、本人の知らないうちに結婚の準備を進めることに。
まずは前公爵夫妻に結婚が決まったことと、式の日取りを映話で知らせた。
大旦那たちは二十代のうちの結婚というものをあまり重要視していないようで、「ふーん」となんとも軽い返事だった。
だが、息子の結婚は嬉しいようで、式に合わせて屋敷に戻るという。
コンラッドが相談せずに結婚相手を決めたことを謝罪すると、『コンラッドが選んだ女性なのだから問題ないだろう』と言ってもらった。一介の使用人を信用しすぎなのではないかと心配な反面、嬉しいのも確かだ。
次は、アーノルドの兄であるテオドールに連絡をとった。
テオドールは学者をしていて、世界中を飛び回っている。今もマルス王国から遠い国にいるようだ。
そんな彼にアーノルドの結婚相手が決まった旨を伝えると、コンラッドは質問責めにあった。
『結婚相手は美人? えっ、エルフぅー? おいおい、アルはそんな趣味なの? っていうか、コンラッド、そんな女性よく見つけたな。エルフは長寿って聞くけど、年は二百歳とかじゃないよね? って、ちょ、十八歳? アルは二十八だろ? 十歳も違うじゃん! ……へー先祖返りのエルフなんだぁー。会うの楽しみだわ。で、式はいつなの? ……ええー? 一か月後? ダメだよ、オレ、今アトランビスワニの出産観察してっから。オレがアトランビスワニを手なずけるのにどんだけ苦労したと思ってんのー。もし出産するところを見られたら、世界初なんだよ! アトランビスワニはさー――』
……延々とワニの話が続きそうなので、強引に映話を終了した。テオドールから幾度か映話の接続を求める通信が入るが、ひたすら拒否する。
コンラッドとテオドールの仲は決して悪いわけではないが、彼はアーノルドと正反対で多弁なので、話していて疲れる。
(というか、どんなワニだか知らないが、仲のいい弟とワニ、どちらが大事なんだ)
そんなこともあったけれど、アーノルドの結婚準備は順調だ。
コンラッドはこの結婚を祝うため、手に入れたばかりのワインを開けることにした。チーズとオリーブをつまみに、祝杯をあげる。
今日は特に美味く感じられ、いつのまにか瓶の中身は半分になってしまった。
アーノルドの結婚が決まり、のどに刺さっていた魚の骨がとれたようにすがすがしい。
同じ貴族とはいえ、縁談を申し込んだヴィオレットは小国の伯爵令嬢。権力の差や国同士の関係を考えると、断ることはできないだろうと踏んでいた。
予想通りマッキンリー伯爵は結婚を快諾したが、一つだけ条件をつけてきた。
『エルフの先祖返りである娘を求めてくれるのは大変ありがたいが、彼女をエルフではなく人間として扱ってほしい』というものだ。
人間の両親から生まれたのだから、彼らが娘を人間として育てることは、ごく当たり前のことだろう。彼らの手を離れたあとも、そのように過ごしてほしいと願うことも。
これについては、アーノルドも快く了承した。
オルレーヌ国は小国であるがゆえ、非常に閉鎖的かつ排他的だ。エルフの外見を持つヴィオレットは、大変住みにくかっただろうと想像できる。
その点、マルス王国は大国であるため人が集まりやすく、外国人も多い。ヴィオレットもさほど浮かないだろうから、過ごしやすいに違いない。
心配なのは、彼女とアーノルドとの相性だ。コンラッドも、ヴィオレット本人と会ったことはないので、実際にアーノルドが彼女を気に入るかどうかは分からないのだ。
また、アーノルドが女性と親しげにしているのを見たことがほとんどないため、彼が花嫁に対してどのように接するのかも、あまり想像できなかった。
堅物のアーノルドは、ヴィオレットの好みではないかもしれない。
――いや、まあ、アーノルドも見た目は高レベルだし、なるようになるだろう。
(場は整えたから、あとはなんとかしてください。アーノルド様)
コンラッドは、心の中でそう呟いた。
2 ……可愛い。
いよいよ結婚式が翌日に迫り、ヴィオレットがフィリップ公爵家にやってくることになった。マッキンリー伯爵夫妻は、仕事の都合でヴィオレットより遅れて来るという。
アーノルドは、今日から一週間休暇をとっているにもかかわらず、なぜか騎士団の詰め所にいた。
王宮騎士団は、騎士団と魔法騎士団の二つに分けられる。
騎士団は剣などの武器を使って戦い、魔法騎士団は魔法を使って戦う。そのため、魔法騎士団は貴族で構成されており、逆に騎士団には平民が多く所属していた。
どちらの騎士団も第一分隊と第二分隊から編成されており、それぞれに分隊長がいる。騎士団の第一分隊と第二分隊を統括するのが、騎士団長であるアーノルドの役目だ。
近年は近隣諸国との関係が落ち着いており大規模な戦争がないので、城や街を警備し、国の治安を守るのが主な仕事になっている。
また、人に悪さをする魔物を討伐しに行くこともあった。
アーノルドは、普段通り部下に訓練をつけてから軽く遠乗りに行ったあと、馬房に戻した馬に水を与えているところだ。
その馬は、騎士団長になったときに国王陛下から与えられた、毛並みの美しい黒馬だ。
「……撫でてやろうか?」
同意するように馬が首を縦に振ったので、アーノルドはブラシを手にとる。そのとき、アーノルドの背後から風が吹き抜け、ブラシを彼の手から払い落とした。
風魔法だ。
小さなブラシだけを狙うには、かなりの技術がいる。犯人が分かったアーノルドは、うしろを振り返った。
「今日、お前の嫁が来るんじゃなかった? 休暇とってたよな」
悪友のルーカスがへらへらとしまりのない笑みを浮かべ、片手をあげて近寄ってきた。
ルーカスはアーノルドの同期で、魔法騎士団第二分隊長を務めている。外見はチャラチャラしているが、次期魔法騎士団長と目される実力者だ。
アーノルドは地面に落ちたブラシを拾いあげながらルーカスの問いに答える。
「……来るのは昼前だ。コンラッドには急用があると言って出てきた」
諦めの悪いアーノルドに、ルーカスは呆れた顔をした。
「そろそろ昼前だぞ。もう結婚からは逃げらんねえんだから、いい加減覚悟を決めろ。まー、オレはまだまだ遊ぶけどー」
ルーカスは騎士団きってのプレイボーイだ。彼は、王宮の年若いメイドの多くと一夜を共にしたことがあるらしい。
しかし、手をつけた女性の誰ともいざこざを起こしたことはなく、むしろ彼女たちはルーカスと関係を持ったことを自慢するほどだ。
なんでも、ルーカスと一夜をともにした女性は、より魅力的になるらしい。その後結婚が決まった、彼氏ができた、というメイドが多く現れ、王宮内では一種の伝説のようになっている。
そんな彼は、ひとたび街へ出れば、アーノルドと一緒であろうが、美人に声をかけないと気がすまないらしい。
上手く話がつくと、アーノルドと別れて、そのまま女性の肩を抱いて出かけていく。
そのようなことがたびたびあるにもかかわらず、ルーカスと一緒に出かけてやるアーノルドは、自分でも寛容だと思っている。
そのときルーカスがふと、馬房の入口の人影に気づいて声をあげた。
「あ、コンラッド」
アーノルドもつられてそちらを見ると、険しい顔をしたコンラッドが、副団長のフリッツとともにこちらに向かってくるところだった。フリッツがコンラッドを案内してきたらしい。
無言で逃げようとしたアーノルドの腕を、察したルーカスが掴む。
「……離せっ!」
「コンラッドを困らせちゃダメだろ」
もみ合っているうちに、コンラッドが目の前にやってきた。
「アーノルド様、すぐ屋敷に戻りますよ。忙しいんですから、駄々をこねないでください」
コンラッドには、力ずくでアーノルドを引っぱっていくことはできない。そう思っていたら、ルーカスが余計な提案をする。
「オレがこのまま馬車まで連れてってやろーか? コンラッドじゃ力負けするだろ」
「それは助かります、ルーカス様」
「ルーカス! お前、裏切ったな……!」
「この件に関しては、もともとお前の味方じゃねーし」
アーノルドはぎりぎりと歯ぎしりをしたが、ルーカスはまったく意に介していない。
彼はアーノルドの腕を掴んだまま、黙って様子を見ていたフリッツに声をかける。
「あとは自分に任せてください。というか、副団長自ら案内しなくても、下級騎士に任せればよかったんじゃないですか?」
「お急ぎのご様子だったからな。それに私が行くのが一番早かった。……まさか団長ともあろう方が、結婚から逃げ回っていたとは存じませんでしたが。では、失礼します」
慇懃無礼に言って、フリッツはその場を立ち去った。
ルーカスはしばらく彼のうしろ姿を見つめる。
「アーノルド。お前、優しいのはいいけどさー、副団長の態度はあれでいいのかよ。上司に対してどうかと思うぞ」
「……仕事ぶりは問題ないから、別にいい」
「まぁお前が納得してるならいいけど。さっ、きりきり歩け!」
「……ルーカス、恨むぞ」
「本当に時間がないんですから! アーノルド様!」
コンラッドとルーカスに引きずられるようにして、アーノルドは馬車に押し込まれた。
へらへらしたルーカスの笑顔に見送られながら座席に腰を下ろした途端、馬車が出発する。
御者は、普段よりスピードを出したらしく、あっという間に屋敷に到着したのだった。
✿ ❀ ✿
「アーノルド様!」
到着したあと、コンラッドはアーノルドに「着替えてくるように」と言って部屋に押し込めたのだが、彼はその後一向に出てくる気配がない。しびれをきらしたコンラッドは、ノックもせずにドアを勢いよく開いた。だがそこに、アーノルドの姿はない。
コンラッドが部屋の中を見回すと、ベッドの上掛けが膨らんでおり、そこから金色の髪がのぞいている。上掛けをめくろうとするが、アーノルドは腐っても騎士団長だ。力では一介の執事長ごときに勝ち目はない。
「……お腹痛い」
布団の中から弱々しい声が聞こえてくる。そんな主人に呆れ返り、コンラッドは声を荒らげた。
「子供みたいな嘘をつくんじゃありません! マクドール先生をお呼びして、腹痛に効く苦い薬湯を作っていただきましょうか」
マクドールは、長年フィリップ公爵家が抱えている医師だ。幼い頃に飲んだ薬湯の味を思い出したのか、アーノルドは慌てて前言を撤回する。
「お腹は治ったけど、急に眠たくなった」
「やっぱりマクドール先生をお呼びして、薬湯をいただきましょう。ばっちり目が覚めます」
「……嫌だ」
「もう、アーノルドったら」
いつのまにかやってきた前公爵夫人が『可愛いわね』とでも言いたげに、息子の髪の毛を眺める。
前公爵夫妻は、昨日旅行先から帰宅していた。
夫人は外国から嫁いできたため、金髪碧眼に白い肌を持っている。
「お嫁さんをお待たせしたら悪いわね。私は彼女が到着したらすぐ行けるよう、一階で待っているわ」
息子の相手は任せたとばかりに、夫人はさっさと部屋を出ていった。
コンラッドはため息をついて、声を張りあげる。
「この期に及んで、往生際が悪いですよ! 騎士団長ともあろう人が、男らしくないですねぇ。部下たちが知ったらどう思うでしょうか」
「……」
騎士団長としてのプライドを刺激され、アーノルドはのろのろとベッドから這い出た。だが、そのあとの動きもひどく緩慢だったので、着替えは一向に進まない。
「私が着せてさしあげましょうか? あーもう、ほら。馬車が着きました。もうすぐヴィオレット様が降りてこられますよ」
一応花嫁のことは気になるのか、アーノルドはコンラッドの隣に立ち、窓から馬車を見守る。
先にメイドが馬車を降り、続いて御者の手をとって小柄な女性がゆっくりと降りてきた。
あれがヴィオレットだろう。幅広の帽子を目深にかぶっていて、彼女の少しうしろを歩くメイドより頭一つ分ほど小さい。ドレスからすんなりと伸びた腕は華奢だ。
ヴィオレットは待っていた夫妻の前に進み出て、優雅に淑女の礼をとる。
それは完成されたダンスのように美しかった。
アーノルドがいつのまにか、窓に張りつくようにして見ている。そのことに、本人は気づいていない。
顔はまだほとんど見えないが、その優雅な仕草や可愛らしく小柄な体形に、アーノルドは強く惹きつけられたらしい。
「……可愛い。コンラッド、ここは天国だったか? あそこにいるのは天使? 妖精? すごく小柄だけど、本当に成人しているのか? ……あんなに可愛らしいのに、オレなんかとの結婚を承諾するはずがない。もっといい条件の嫁ぎ先がいくらでもあったはずだ。オレから国の機密を聞き出そうとする密偵なのでは?」
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