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(……疲れた)

 絶望するほどではない。まだやり直せる。差し当たって生活に困らないくらいの貯金はあるし、失業保険だってもらえるだろう。もっと最悪な状況に陥った人ならたくさんいる。
 分かっている。分かっていて、疲れてしまった。もう、何もかもが怖い。
 とりあえずまだ明るいけれど、さっさと家に帰って寝よう。人に会いたい気分ではない。

「あ」

 小さい男の子が、ころころと転がったボールを追いかけて、車道に飛び出す。近くの公園で遊んでいて、転がってしまったのだろう。

「危ない!」
 
 考えるよりも先に、男の子を歩道へ突き飛ばす。
 だれかの声に顔を上げると、すぐそばにはトラックが迫っていた。

(ぶつかる……!)

 逃げなくては。そう思うのに、体が固まって、動かない。足がその場に縫い留められたようだ。
 これまでに感じたことのない衝撃を、体に受ける。痛い、と感じている余裕もなかった。途端、意識が消失した。





「あー。久しぶりに嫌な夢見た」

 ベッドから起き上がったジャスミンは、サイドテーブルに置いてある水差しからコップに注いだ。一気に飲み干して、手のひらで額に浮かんでいた汗をぬぐう。
 先ほどの夢は、前世のジャスミンが死んだときの回想だった。もちろん葬式の場面など知っているはずもないし、あれより先の記憶がない以上、断定できないのだが。トラックがぶつかって無事な人間などいるとは思えない。自分の死ぬ場面を思い出して、いい気分になる人はいないだろう。
 ひとまず気分を変えるために窓を開けて、空気を入れ替えていると、

「ジャスミンさま、おはようございます。お早いですね。お支度いたします」

 ノックののち、キャロルが入ってきて深々と頭を下げる。

「おはよう。今日もよろしくね、キャロル」
「今日はどのドレスにいたしましょうか。若草色のドレスはいかがでしょう? 先週ウォーレスさまにいただいた」

 国王とウォーレスは、特に誕生日や記念日でなくとも、競い合うようにジャスミンに贈り物をしてくれる。あまりに度がすぎるようだと王妃とジャスミンで、苦言を呈することにしているが。
 スカートの部分に薄いレースが幾重も重ねてあるうえに、ビーズで刺繍がほどこしてある、豪華なデザインだった。普段着るにしてはいささかもったいない気がするが、そういえばまだ袖を通していないし、着てみたかった。

「ええ。それでいいわ」
「では、合わせるものはご一緒にいただいた、黄色の靴にいたしましょう」

 ジャスミンの同意を得て、キャロルが続き間になっている衣裳部屋に、ドレスを取りに行った。ほどなくして、一式手に取って戻ってくる。
 姿見の前でドレスを着せつけてくれながら、

「そういえば、ジャスミンさまの近衛騎士の件ですが」
「ええ」

 ヴァ―リアス王国の王族には、成人の祝いとして近衛騎士がつけられることが習わしになっている。
 城の中で四六時中一緒というわけではないが、外出するときなど常に警護してくれるのだ。今までも騎士なしで出歩くことはなかったが、これからはそれが専任の騎士になるということだ。
 
「候補ですが、リドウェルを予定しているそうです。若いですが、ゆくゆくは騎士団長候補と言われているほどの実力者ですし」
「リドウェル……」

 提示された候補者に、ジャスミンは固まった。城で働いてくれているから名前と顔は一応把握しているというだけで、特に関わりはない。だから、何かされたということはない。そもそも王女であるジャスミンに使用人が何か害をなすなど、ありえないのだが。
 でも、ジャスミンはなぜか苦手だった。

「他の者にいたしましょうか? リドウェルには内示しておりませんから、ジャスミンさまが却下されたというのは本人には伝わりませんし」

 その気持ちを今まで誰にも漏らしたことはないし、今も表情に出したつもりはなかったが、幼い頃から仕えてくれているキャロルには、分かってしまったらしい。ジャスミンはしゅんとしょげてしまった。

「……そんなつもりではなかったのだけれど、顔に出ていたわね。リドウェルにも悪いと思っているのよ。特に何かされたわけでもないのに」
「仕方がありません。苦手な人くらいいるでしょう。ですが、なぜリドウェルが苦手なのですか? 見目もいいですし、悪い噂も聞かないのに」

 不思議そうにキャロルが首を傾げる。顔もいいし、性格もいい。任務にも忠実で、仕事もできる。逆に悪いところを上げようとする方が難しい好青年なのだから、それは疑問に思っても仕方のないことだろう。

「それがよく分からないの。別に男性が苦手というわけでもないし」
「不思議ですね。ジャスミンさま、他の使用人とは親しくされているのに。ともかくわたしは口外いたしませんし、あまり気になされませんように。のちほど他の候補者をあげますね」

 髪を結い終えて、キャロルはくしをドレッサーに置いた。

「いかがでしょう」

 意見を聞かれるまでもなく、長年仕えてくれているキャロルは、ジャスミンの好みを分かっている。髪型から靴まで文句のつけどころもないほど完璧で、今日は外出の予定はないが、城にこもっているのはもったいないほどだ。

「いいわ。ありがとう」

 ジャスミンがうなづくと、キャロルはほっとした顔をした。

「ありがとうございます」

 ジャスミンがやり直しをお願いしたことは数えるほどしかないが、それでも緊張するものらしい。

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