東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一

文字の大きさ
26 / 31

薔薇

しおりを挟む
 三井八郎右衛門高祐が催す絵比べには有識者が集まった。芸術の心得のある者、三井と同じ芸術品に眼がない者、そして三井が認めて招待された者――総勢二十八人の客が参加した。老中の松平定信が失脚していてもなお、奢侈な催しは控えるようにと通達があったので、それだけしか呼べなかった。

 しかし三井は十分だと判断した。ここで傑作が生まれれば招待した客が噂して、評判を高めることになる。それを所有している三井もますます有名となり商売が上手くいくだろうと踏んでいた。価値はあるが売れない賞品と引き換えに、傑作を手に入れられるほうが三井にとって重要だが、商家の繁盛も必要だった。

「これは蔦屋さん。今日はよく来てくださりました」
「三井様。今日がご招待いただき、誠にありがとうございます」

 その客の中には重三郎もいた。作品を提出する側ではあるが、彼もまた芸術を解する男だ。傑作が生まれるかもしれないという場を逃したくない。三井の招待を受けたときは戦々恐々とした気持ちになったが、当日になると楽しみになってきたのは否めない。

 招待された場所は三井の江戸での屋敷だった。
 家としてではなく、芸術品を蒐集するために使っている。そのため家具の代わりに広々とした空間が備わっていた。その中に各々の席が用意されている。

 三井に挨拶を終えた後、重三郎は宛がわれた席に座った。
 そして出された茶と菓子を食べつつ、はたして写楽の作品はこの場にいる客にどのような反応させるのかと想像する。重三郎としては自信がある。おそらく場の空気を支配するほどの傑作であると分かっていた。

 だから今か今かと催し物の始まりを待っていた。
 そわそわしていると、隣の客が「いかがなさりましたか?」と訊ねる。

「いえ。手前が世話をしている絵師の作品がどう評価されるか、気になりましてね」
「ほう。あなたは蔦屋殿とお見受けしますが……その絵師とは?」

 重三郎は「東洲斎写楽です」とさらりと言う。
 客は「ああ、あの……」と微妙な顔をした。シャーロックの絵が不人気なのは周知の事実である。

「分かりませぬな。東洲斎写楽の絵は独創的ではありますが、その、江戸の住民の理解を得られては……」
「そうですな。認めるものは少ないです。しかし――」

 重三郎は一転して明るくて晴れやかな笑顔で答えた。

「――今回の催し物で評価が変わると、手前は睨んでおります」
「い、いやあ。凄い自信ですな……」

 客が言い淀むのも無理はない。
 写楽の絵の本質や価値が分かるのは、有識者でも一握りだけである。
 それでも重三郎は確信している。
 シャーロックは不世出の絵師なのだと――


◆◇◆◇


「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。今回の絵比べは皆さまの肥えた眼を満足させるに相応しい傑作が揃っていると自負しております。是非楽しんでいただけたら幸いです」

 三井の挨拶により、絵比べが始まった。
 順番に出される絵は芸術を解する者にとって目の保養となるものばかりだった。
 それらに感想を口々に言いながら客は楽しんでいた。

 人物画や風景画、変わったところで妖怪の絵なども出てきた。
 版画で刷られる作品ではなく、全てが肉筆で二つとないものばかりである。
 重三郎もまた大いに楽しんでいた。

 描かれた絵を実際に見ると、迫力が伝わるものだ。
 作者の熱意が直接眼に焼き付くように感じられる。
 魂を込められたものほど、それが顕著に表れる。
 だからこそ、芸術は人の心を掴んで離さない。
 ゆえに無くなることは決してないのだ。

「次に東洲斎写楽さまの作品です」

 進行役の三井の番頭が紹介すると、場の緊張が緩まった。
 しらけるとまでは言わないが、注目が集まらなくなった。
 何故ならシャーロックの絵は不人気だからだ。
 初めから今に至るまで、傑作が揃っていて見る者も神経を張っていた。
 ここが箸休めと言わんばかりに客の興味が下がってしまったのだ。

 そんな客たちの反応を見て、重三郎はにやりと笑った。
 これから出るシャーロックの絵を見たら度肝を抜かれるだろう。
 それを見るのが楽しみだと考えていた。

 ふと三井のほうを見る重三郎。
 彼もまた、傑作が出続けての感動に疲れているようだ。
 これならば――確実に旗は手に入る。

 運ばれてきたシャーロックの作品は――白い布を被せてあった。
 巻物ではなく、一枚の絵を板に貼らせたものなので、皆を驚かせるために重三郎がそう指示したのだ。それが縦に長い長方形の形になっている。

 ここで客が先ほどとは違うと気づく。
 三井も不思議そうな顔で布と重三郎を交互に見る。
 重三郎は笑みを深くした。

「それでは、どうかご鑑賞ください」

 進行役の番頭が決まっていた台詞を言う――ばっと布が取り外された。

 そこには一輪の薔薇が描かれていた。
 それも蔓と葉が付いている、野生の薔薇だった。
 中心よりやや上部に花が描かれ、いばらの付いた蔓が右斜め上より薔薇を支えるように生えている。薔薇の下には葉が二枚描かれている。つまり、花と葉を吊るす構図で描かれていた。

 一見して普通の薔薇にしか見えない――だが客たちは違うものを見ていた。
 何故なら、背景が薄い赤だったからだ。
 赤い紙に赤い薔薇を描く。それでいて中心に描かれた薔薇に注目が集まるほど――強烈な印象を与えている。普通の絵師ならば背景は白だろう。あるいは薔薇の赤を強調させる黒を選ぶかもしれない。しかしシャーロックは違っていた。常人ならば選ばない、赤を背景に薔薇を見事に描いたのだ。

 その薔薇自体も花のみずみずしさ、生命力があふれている。蔓と葉もまたそうだった。背景が赤だからこそ、それらの緑が映えていた。それが狙いだとするのなら大胆な発想だった。主役の花ではなく、脇役の蔓や葉を強調するやり方なのだろうか。
 だがそれでも花の美しさと魅力は変わらない。
 かぐわしい匂いまで伝わってくるような、怪しげな雰囲気すら感じさせる。
 魔性と表現すれば適当だろう。

 その場にいる客は皆、何も言えず固まってしまった。
 布を取った番頭でさえ、そうだった。
 三井など固唾を飲むことすら忘れている。
 ふいに重三郎がこほんと咳払いをした。
 三井を始め、数人が放心していたことに気づく。
 正気に戻った彼らは眼の前の傑作をどう称賛していいのか分からない。声を出そうにも上手く喋ることができなさそうだった。

 だから――三井は両手を叩いて鳴らした。
 神に祈るときの柏手を何度も打つ。
 それが少しずつ客たちに広がり――万雷の拍手となった。
 ああ。東洲斎写楽が認められた。
 旗の陰謀を忘れて、重三郎は満足そうに頷く。
 涙が止まらなかった――


◆◇◆◇


 結局、シャーロックの作品を超える傑作はなかなか現れなかった。
 重三郎にしてみれば当然の結果だが、三井にしてみれば大誤算である。
 確かに写楽の絵は凄い。実際に見てみれば凄みを感じるだろう。

 けれども、噂になるかどうかは微妙なところだった。
 三井自身は写楽を高く評価しているが、江戸の町人の評価は低い。
 噂は広まりづらくなるだろう。

 しかし三井はこの結果を悪いものと捉えているが、同時に写楽の傑作を手に入れたことは蒐集家として名誉なことだと思っていた。
 あれほどの作品はなかなか現れないだろう。そう考えて納得していた。

「すみません。三井様はいらっしゃるでしょうか」

 催し物が終わるかどうかの時期に遠慮がちに声をかけたのは――蔦屋の番頭、勇助だった。
 重三郎が驚く中、三井は「おや。蔦屋で見かけましたね」と思い出す。

「蔦屋の勇助と申します。このたびの催し物に参加させていただけませんでしょうか?」
「だが、もう終わりにしようかと思っていたのです。またの機会に――」
「少しの間で良いのです。気に入らなければ評価は要りません」

 勇助は頭を下げた。
 三井は重三郎を見て「いかがなさいますか」と言う。

「手前には、決めることはできません。三井様のご判断に委ねます」
「ふむ……ま、見てみましょう。皆様方、今しばらくお待ちください」

 勇助は無表情のまま「ありがとうございます」と礼を言う。
 そして進行役の番頭に巻物を手渡した――
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。 失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。 その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。 裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。 市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。 癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』 ――新感覚時代ミステリー開幕!

水滸綺伝

一條茈
歴史・時代
時は北宋、愚帝のもとに奸臣がはびこる中、侵略の足音が遠くに聞こえる乱世。 義に篤く、忠を重んじながらも正道から外れて生きざるを得ない百八人の好漢たちが、天に替わって正しい道を行うため梁山泊に集う。 おおいに笑い、肉を食らい、酒を飲み、義の道を行く彼らに待つ結末とは―― 滝沢馬琴が愛し、歌川国芳が描き、横山光輝や北方謙三が魅せられ、ジャイアントロボも、幻想水滸伝も、すべてはここから始まった! 108人の個性豊かな好漢、108の熱き人生、熱き想いが、滅びゆく北宋の世を彩る痛快エンターテイメント小説『水滸伝』を、施耐庵の編集に忠実に沿いながらもあらたな解釈をまじえ読みやすく。 ※原作の表現を尊重し、一部差別的表現や人肉食・流血等残酷な描写をそのまま含んでおります。御注意ください。 ※以前別名義でイベントでの販売等をしていた同タイトル作品の改訂・再投稿です。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

処理中です...