東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一

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富士

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「いったい、どういうつもりなのだ――勇助」
「無論、大旦那様を止めるためですよ」

 急遽用意された席は重三郎の隣だった。
 二人はひそひそと小声で話し合う。

「お前には分からぬが、わしにはわしの目的がある」
「その言葉、そっくり返させていただきます。手前にも目的がありますから」
「だがしかし、お前は芸術を解さないはずではないのか?」
「ええ、変わらず解しません。それでもかつて旦那様がおっしゃったように、奇貨居くべしが分かりますから」

 その言葉に「絵師を雇ったのか」と目を剥く重三郎。

「その言葉を信用するのなら――生半可な絵師ではないようだな」
「ええ。手前でも感動するような素晴らしい絵を受け取りました」

 どんな絵だ――そう訊く前に「それでは最後の作品です」と進行役の番頭が告げる。
 全員が注目する中、番頭が続けて絵師の名を言った。

「勝川春朗の作品です――」
「なっ――あの春朗殿のか」

 重三郎はシャーロックから話を聞いていた。
 親しくしていることも、誇張の絵の示唆をもらったことも。

「やはり、ご存じでしたか」
「……面識はないがな。お前とて、伝手がなかったはずだ」
「とある方から仲介されましてね」

 とある方とは誰か。
 そう訊ねる前に――客たちの感嘆の声が上がる。
 絵のほうを見ると、そこには立派な富士の山が描かれていた。

 富士の山は題材に選ばれることが多い。
 言ってしまえば平凡だと言えよう。壮大かつ雄大な山だからこそ、誰もが描いている。
 だから有識者が集まる場では見慣れたものと断じられる。

 しかし、春朗が描いたのは普通の富士の山ではない。
 そもそも、どっしりとした富士の山は描かれていない。
 だが富士の山は描かれていた。

 それは――湖面に映る逆さ富士だった。
 甲斐国の河口湖は冬の間だけ、富士の山の姿が映し出される。
 神秘的で美しい――けれども、春朗はそこに留まらなかった。

 まず実在の富士の山は描かれていない。あくまでも河口湖に映っているものを描いている。だから最初、番頭が間違えたのだと錯覚してしまう。そしてそれが本来の位置だと分かると――工夫が分かってしまう。

 さらに河口湖に映る富士の山は冬山ではなく、夏の山だった。
 雪が積もっておらず、青々とした姿が見事に描かれている。
 本来ならあり得ない光景だった。
 実在を描かず虚構を描く。
 春朗の遊び心を表現した、まさに二つとない傑作だった。

「おお。これは凄い。見たことないぞ、このような錦絵は」
「ええ。発想が素晴らしいですな」

 口々に出るのは称賛の声。
 高い評価に重三郎は冷や汗をかく。

「えー、それではこれより結果を発表いたします」

 番頭は三井が付けた評価を皆に告げていく。
 提出した商人はその結果に一喜一憂した。
 その中で重三郎と勇助だけは緊張の面持ちで待っていた。

「最後に東洲斎写楽と勝川春朗の作品について話します」

 番頭が切り出すと、客たちはざわめいた。
 その二人の作品こそが――今回の催し物の中でも白眉だったからだ。

「実はこれらの作品の提出者が望む賞品が、同じだと判明しまして。ゆえにどちらか優劣をもって贈呈したいと思っていましたが――」

 番頭は一度言葉を区切って、それからやや早口で続けた。

「旦那様曰く、どちらの作品も素晴らしく、甲乙つけがたいとのことでした。そこで皆様の意見を聞かせてほしいと思います」

 それを聞いた客は静まり返ったが、一転して各々意見を言い出した。

「やはり富士の山は圧倒されてしまった。それに比べて薔薇は小さすぎる」
「しかし物の大小は美しさには無関係だ。私はあの薔薇の美しさを評価する」
「虚構の構図という工夫は眼を見張るものがありましたね」

 喧々諤々と意見を言い合うが、結局は決まらない。
 見かねた三井が「ではこうしましょう」と話をまとめる。

「どちらも傑作であることは疑いようがありません。甲乙つけがたいのも事実です。ならば題材を決めてもう一作描いてもらうのはどうでしょうか?」

 優劣を決めきれなかった客は、それならばと納得した。
 後は重三郎と勇助の返答だけになった。

「どうでしょうか? 御ふた方――」
「手前は受けます」

 三井の言葉を待たずに勇助は応じた。
 旗を手に入れたいという執念を感じさせた。
 重三郎も遅れて「手前も承知いたしました」と言う。

「左様ですか。ならば期限は十日後、場所はここです。そして肝心の題材は――」

 三井は少しの間だけ悩み、それから自身が望むものを口に出した。

「――女性の絵です。いわゆる美人画ですね」

 シャーロックの誇張の絵を好む三井が選ぶのならば、こちらが有利だと重三郎は頷いた。
 勇助も不満はないようで「かしこまりました」と答える。

「私の他に四人、審査を行なう方を選定しておきます。それでは――この場は一旦、お開きということで」

 その言葉をもって、催し物の絵比べは終わった。
 しかし重三郎と勇助にとっては始まりに過ぎなかった。


◆◇◆◇


「手前はどうしても許せなかったのです。店よりも異国人を選んだ、大旦那様のことを」
「気持ちは分かる……そうは言えぬな。だからこそ、シャーロックを選んだのだ」

 二人は蔦屋の店の中、重三郎の仕事場で話していた。
 勇助は丁寧な言葉遣いだったが、反抗心を込めた眼で重三郎を睨んでいる。

「荒れていた手前に、守屋と名乗る方が教えてくれたのです。今回の絵比べと頼りになる絵師のことをね。渡りに船とはこのことですね」
「守屋……やはり、絡んでいるのか」

 冷笑を浮かべながら「守屋のことを存じていると分かっていました」と勇助は頬を掻いた。

「言葉の端々から大旦那様のこと、そしてシャーロックのことを知っているような感じを受けましたから」
「守屋の狙いを知っているのか?」
「エゲレスという国が日の本を侵略する口実を手に入れるため、ですよね?」

 重三郎は「それが分かっていながら、加担したのか」と少しだけ呆れた口調になる。

「ええ。そもそも非は幕府にある。隠しきれなかったことも罪です」
「だとしても、大勢死ぬのだぞ?」
「そっくり返させていただきます。大旦那様も守屋に旗を渡すつもりでしょう?」
「…………」

 重三郎が無言になってしまうと「旦那様も避けられないと分かっているでしょう」と勇助は待たずに続けた。

「守屋の執念はとてもじゃないが半端ではない。あの方ならばどんな手を使っても旗を手に入れる。三井様を殺めても奪うでしょう。ならば穏便なうちに手に入れて渡してしまえばいい」
「……その結果、お前は何を得るのだ?」

 勇助は商人である。自分に利益がなければ労力を使わない。何かしら見返りがあるから春朗に絵を描かせてまで絵比べに参加したのだ。

「この店と大旦那様の名ですよ」
「……なんだと? お前は、乗っ取るつもりなのか?」
「大旦那様が捨てたものを拾う。ただそれだけの話です。そのための協力を守屋は約束してくれました。エゲレスが侵略しても、手前たちを守ってくれるとも言ってくれました」

 重三郎は「それは嘘だぞ」と忠告した。

「店を継ぐ協力はするだろう。しかし侵略するとなったら守る約束などうやむやになる。手のひら返しを食らうことになるぞ」
「……日の本の商家が味方する利を、守屋が見落とすわけがありません」
「馬鹿だな、お前は……」

 少しだけがっかりした――重三郎に対し「大旦那様がそれを言いますか」と勇助は反論を試みる。

「大旦那様も手前共を見捨てるつもりでしょう。店を捨ててシャーロックを選んだということはそれを意味します」
「そうではない……と言っても聞かぬだろうな」

 重三郎は「だがそれでよいのかもしれぬ」と腕組みをした。
 その開き直った態度に「どういう意味ですか?」と怪訝な顔になる勇助。

「わしはある意味、嬉しいのかもしれぬ。お前がわしを蹴落とそうとしているのが」
「……訳が分かりません。手前は、大旦那様に反旗を翻したのです。弓を引いたのですよ?」
「それだよ。わしを超えようとする気概がたとえようもなく嬉しいのだ」

 重三郎は余裕をもって勇助に言い聞かせる。
 最後の教えを授けるように。

「わしが今まで引退しなかったのは、店を任せられる者がいなかったからだ」
「…………」
「お前なら任せても良い――心からそう思えるよ」

 勇助は顔を引きつらせた。
 急に自分のやっていることが薄汚く思えたのだ。

「て、手前の覚悟を無為にするつもりですか?」
「違うな。正々堂々と戦おうと言っているのだ」

 重三郎は挑戦的な眼を向けた。

「わしとシャーロックは決して負けぬ。覚悟と決意をもって、挑んでこい」

 勇助は改めて、重三郎がなんと大きな人物であると感服した。
 敵となった奉公人を認める度量の深さが、はたして自分にあるのか、そして他の人物にあるのか。
 姿勢を正して、勇助は「承知いたしました」と応じた。

「精一杯、全力で挑ませていただきます」
「ああ。励むがいい……負けはせぬがな」
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