鏡像の迷宮

西條悠人

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美咲、時が来た

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「今日は、美咲がもう6時間も返信してくれない」

東瀛国静岡県立高校、高一1組の教室で、小林美咲は自分の空っぽの机の引き出しを何度目かで眺めていた――そこには本来、彼の携帯電話が入っているはずだった。苛立ちが蔓のように心臓を締め付ける。

「小林くん、放課後一緒に図書館行かない?」

クラスメートの声が横から聞こえてきた。

美咲はハッとして、慌てて笑顔を浮かべた。「あ、ごめん、今日は……大事な用事があって、すぐ帰らなきゃ」

彼は鞄を掴み、ほとんど教室を飛び出した。西条悠人先生はもう一日も彼からの連絡がないはずだ。きっと心配でたまらないだろう。相手の不安や不満を想像するだけで、美咲の心は沈んでいった。

(小林美咲は家に駆けつけ、部屋に飛び込んで引き出しから携帯を取り出す。画面のロックが解除された瞬間、99+の未読メッセージの通知に息を呑んだ)

やばい、やばい。悠人先生はきっと待ちくたびれただろう。私がわざと無視したと思ってるかも? どうしてこんな初歩的なミスを! 学校に携帯を忘れるなんて! 悠人先生が本気で怒ってなければいいけど……

そう、私の言う悠人先生とは、あの雲国はおろか国際的に名高い作家――西条悠人先生のことだ。彼は我国の文豪、西条龍之介の親兄弟だが、私の心には悠人先生しか収まらない。35歳でこれほどの業績を上げた彼は、私のような16歳の高校生にとって、遥か彼方、言葉にできない輝きだ。

ピン――!

彼がためらいながらビデオ通話をかけようとした次の瞬間、通話がつながった。画面の向こうに、西条悠人の不安に満ちた顔が現れた。

「悠人先生……」

「美咲!」 悠人の声には、安堵の急ぎ足が混じっていた。「6時間だぞ! どうしたんだよ?」

「ごめんなさい、悠人先生! 今日は携帯を学校に忘れてきて、本当に申し訳ありません!」 美咲は慌てて説明し、指先で無意識に服の裾を握りしめた。

画面の向こうの悠人は少し沈黙した後、低く「…うん」とだけ答えた。

そして、彼の口調が異様に真剣になった。「美咲!」

「は、はい!」 美咲は反射的に背筋を伸ばした。

「俺…決めたよ…」 悠人の声には、決死の覚悟のような震えが込められていた。

(美咲の心臓が一拍飛んだ。彼はこの決断の重みを瞬時に理解し、息を呑んだ)

「それ…悠人先生はどう思ってるんですか?」 彼は慎重に尋ね、声はほとんど聞こえないほど小さかった。

「俺…二日後に東瀛で会議がある。…お前に会いたい」

美咲は全身の血が頭に上るのを感じ、力いっぱい頷いた。興奮で声がかすれ、嗚咽が混じった。

「うん! いいよ!」

通話が終わったまだ温かい携帯を握り、小林美咲は数秒間その場に突っ立っていた。巨大な喜びが海嘯のように彼を襲い、指先さえ抑えきれない震えを起こした。

悠人先生……来てくれる。本当に会えるんだ!

興奮の後、現実が冷たい雨のように降り注いだ。彼は自分の六畳ほどの小さな寝室を見回した。壁の細かな亀裂は、心の底の貧しさを無視できないほどに映った。会う時、何を着る? 悠人先生にこんな惨めな姿を見せたくない。

彼は深呼吸をし、狭いクローゼットを開けた。中には洗いざらしで色褪せた古着が数枚。慎重に一番ましな黒の羽織袴を取り出すが、袖口のわずかな擦り切れと、何度もアイロンをかけた布地の光沢が、その安物さを無言で語っていた。

「これでしか……」 美咲は独り言のように呟き、指先で不存在の皺を丁寧に伸ばした。「せめて、清潔できちんとしてるように。悠人先生に……がっかりされたくない」

そんな風に礼服をよりシャープに見せる方法を考え込んでいる時、部屋のドアが静かに開いた。

車椅子に座った母親が、ゆっくりと部屋に入ってきた。長年の病と苦労で顔は憔悴していたが、目は異常なほど優しく澄んでいた。彼女は美咲が真剣に抱える礼服を見たし、息子の興奮と不安が入り混じった複雑な表情も見た。

「美咲」 母親の声は穏やかで、少し探るような調子だった。「学校で何か大事な行事があるの? こんなに正式な服を着て」

美咲の心臓が激しく跳ねた。彼は振り返り、母親に向き合い、緊張で服の布を強く握った。このことは家族に一度も話していなかった。今、大きな勇気が必要だった。

「お母さん……」 彼は深呼吸をし、緊張で声が乾いていた。「学校のことじゃないんです。雲国から東瀛に来る会議の先生がいて……その人に、会ってほしいって」

「先生?」 母親の目に一瞬の戸惑いがよぎったが、それでも根気強く息子の説明を待った。

「西条悠人先生です! あの……国際的に有名な作家さん」 名前を口にする時、美咲の頰が少し熱くなり、声に抑えきれない崇敬が混じった。「僕たち……ずっと手紙をやり取りしてるんです。彼は本当にすごい人で、僕にたくさんのアドバイスをくれて。この機会に、失礼のないようにしなきゃ」

彼は言葉を詰まらせ、深夜の長い会話で芽生えた、崇拝を超えた感情を慎重に隠した。

母親は静かに聞いていた。世の冷たさを看破したようなその目が、息子の輝く顔と緊張で固くなった肩を注視した。美咲が誰かにこれほど熱く敬畏の念を抱く姿は、初めてだった。小さな部屋に沈黙が広がり、数秒後、彼女は極めて優しく、確固たる微笑みを浮かべた。

「ああ、そういうことか」 母親の声は小さかったが、岩のような安定した力強さがあった。「美咲、お母さんは君の言う悠人先生が具体的にどんな人かわからないけど……」

彼女は少し間を置き、美咲が握りしめた礼服に視線を落とし、一語一語、はっきりと語った。

「でも、お母さんは君の考えを支持するよ。会いたい人に会いに行きなさい。君の心を一番表す服を着て、堂々とね。一人の価値は、どんな服を着てるかじゃなくて、どんな心を持ってるかで決まるんだから」

この言葉は、温かな陽光のように、美咲の心のすべての陰りや劣等感を一瞬で払拭した。彼の目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになった。彼が得たのは、ただ一人の人に会う許可ではなく、最愛の母から、彼のすべてに対する肯定だった。

この時の美咲と母親は、知る由もなかった。この母の愛と信頼から生まれた、ささやかな決定が、蝶の羽ばたきのように、やがてこの社会の底辺にいる家族を運命の枷から解き放ち、かつてただ仰ぎ見るしかなかったきらびやかな上流社会へと、一歩ずつ導くことになる。そして、この正しい決定の始まりは、単に一人の母親が、息子の純粋な心に対する、無条件の信頼だった。
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