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普通とは何か。
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普通。
普通な夕食、普通な会話、普通な授業、普通な声、普通な人間、普通な日常。
「普通」は我々の身の回りに溢れている。そしてまた、反証的論理としての「普通」も溢れている。
例えば、「アイツは普通じゃない」とか
「普段よりも劣った成績」などである。
いずれにしろ、我々は「普通」という価値観をもとにして、判断を下すことが多い。しかし、我々は「普通とは何か」を
問われた時に答えられない。説明不可能な概念を恒常的に多用しているのはなんだか気持ち悪いものだ。どんな事象にも本質はあるはずである。もちろん、それは「普通」という価値観についても。
「普通」とは何か。
恐ろしく難しい命題である。
辞書的な定義に沿うと、「ある事象についての最大多数を表現した概念」くらいになるのだろう。つまり、多数派こそ、「普通」であるという理論だ。例えば、ショートケーキにイチゴがのっていなかったとしよう。ショートケーキはイチゴが乗るものというのが、いつものことだから、これは「普通」ではないことになる。(この場合の最大多数は「ショートケーキにイチゴがのっていること」である。)
なるほど。では、こんな仮定をしよう。
ある地域では「ショートケーキはスポンジだけの食べ物」というのが風習としてあり、子供の時からそれにしか親しんでこなかった人たちにとっては「普通」はどうなるのだろう?
それはきっと、イチゴのないショートケーキは「普通」ということになってしまうはずである。
さて、ここで奇妙な相違が生まれる。
ある人にとってはショートケーキにはイチゴが乗っていることがこの世の「普通」であって、ある人にとってはショートケーキには何も乗っていないことが「普通」である、という二重の「普通」が成立しうるということだ。
すなわち、ある事象に対しての最大多数見解は、複数存在する可能性があるということだ。最大なのに、いくつかある。これはなかなかに変な話である。
では、この相違はどこから、くるのか。
それは各人の経験である。
「普通」は経験の結晶であり、経験によってしか成立しない。
経験論の話をすると、私はいつも自分の昔話を思い出す。そう、僕は小学生のときに母にこんなことを言った。
私「スマホがほしい。」
母「なぜ。」
私「みんなが持ってるから」
母「みんなって誰」
私「~も、,,..も、^_^も、持ってる。」
母「それが"みんな"なの?」
私「みんな、普通持ってるんだって」
母「全国統計、世界統計はどうなってると思う?君の狭い世界ではそうかもしれないけれども、一般的事実として、それを捉えるのは間違っている。」
私「…」
母「みんなが普通かどうかはわからないんだよ。」
小学生のときの僕は、「スマホを持っている小学生」という人たちを自分の周囲で多く「経験」していた。だから、それこそが多数であり、「普通」であると判断していた。しかし、母に言わせれば、大局的に見たときに「スマホを持っている小学生は少ない」と「経験」し、それが「普通」である、と思っていたのだろう。
だから、「経験」によっていくらでも我々の「普通」は変わる。事実というのは一つかもしれないが、「普通」というのは事実ではなく、事実に対する自分の立場の表明である。
「事実が経験上、多くあったか否か」
その表明が「普通」という概念なのである。
また、このことはある事実と経験を比較している、という捉え方もできよう。
【だが、ここまで論じても、まだ、不快感の残る人がいる。
「あの人は普通じゃない」という時、そこに比較対象は果たしてあるのだろうか?という疑念である。
たしかに、「じゃあ具体的に、どこが普通じゃないの?」と聞かれて、完全に網羅して答えることはなかなか難しい。
これは簡単な話で、要素が多すぎるのである。ショートケーキの例えはイチゴの有無という単一側面に左右されたが、人間の「普通」はそんな希薄な要素だけでは判断し得ないのは明白である。】
「普通」は経験が司る。
このことは「普通」が共通意識ではないことを指し示している。
誰しもが同じ経験をすることは不可能である。増してや、経験の積み重ねのもとに「普通」があるのだから、生まれてこの方全く一緒の経験しかしたことがないということがない限り、「普通」が一致することはない。ましてや、同じ経験をしたとしても、その人その人によってその経験の深みは違ってくる。
だから、実は「普通」というのは個人的な信仰か、思い込みに過ぎないのだ。
実はみんな、「普通」だし、「普通じゃない」のだ。
「普通」が一致することは不可能である。それはどんなに民族的に、思想的に、経験的に、近しい人でも、「普通」という概念の完全な一致は成り立つわけではない。
殊に人間などの要素の多い事象についてはこれが顕著なのである。
だから、我々は「あの人は普通じゃない」などと、ほとんど全ての人に言ってしまうのだろう。
普通な夕食、普通な会話、普通な授業、普通な声、普通な人間、普通な日常。
「普通」は我々の身の回りに溢れている。そしてまた、反証的論理としての「普通」も溢れている。
例えば、「アイツは普通じゃない」とか
「普段よりも劣った成績」などである。
いずれにしろ、我々は「普通」という価値観をもとにして、判断を下すことが多い。しかし、我々は「普通とは何か」を
問われた時に答えられない。説明不可能な概念を恒常的に多用しているのはなんだか気持ち悪いものだ。どんな事象にも本質はあるはずである。もちろん、それは「普通」という価値観についても。
「普通」とは何か。
恐ろしく難しい命題である。
辞書的な定義に沿うと、「ある事象についての最大多数を表現した概念」くらいになるのだろう。つまり、多数派こそ、「普通」であるという理論だ。例えば、ショートケーキにイチゴがのっていなかったとしよう。ショートケーキはイチゴが乗るものというのが、いつものことだから、これは「普通」ではないことになる。(この場合の最大多数は「ショートケーキにイチゴがのっていること」である。)
なるほど。では、こんな仮定をしよう。
ある地域では「ショートケーキはスポンジだけの食べ物」というのが風習としてあり、子供の時からそれにしか親しんでこなかった人たちにとっては「普通」はどうなるのだろう?
それはきっと、イチゴのないショートケーキは「普通」ということになってしまうはずである。
さて、ここで奇妙な相違が生まれる。
ある人にとってはショートケーキにはイチゴが乗っていることがこの世の「普通」であって、ある人にとってはショートケーキには何も乗っていないことが「普通」である、という二重の「普通」が成立しうるということだ。
すなわち、ある事象に対しての最大多数見解は、複数存在する可能性があるということだ。最大なのに、いくつかある。これはなかなかに変な話である。
では、この相違はどこから、くるのか。
それは各人の経験である。
「普通」は経験の結晶であり、経験によってしか成立しない。
経験論の話をすると、私はいつも自分の昔話を思い出す。そう、僕は小学生のときに母にこんなことを言った。
私「スマホがほしい。」
母「なぜ。」
私「みんなが持ってるから」
母「みんなって誰」
私「~も、,,..も、^_^も、持ってる。」
母「それが"みんな"なの?」
私「みんな、普通持ってるんだって」
母「全国統計、世界統計はどうなってると思う?君の狭い世界ではそうかもしれないけれども、一般的事実として、それを捉えるのは間違っている。」
私「…」
母「みんなが普通かどうかはわからないんだよ。」
小学生のときの僕は、「スマホを持っている小学生」という人たちを自分の周囲で多く「経験」していた。だから、それこそが多数であり、「普通」であると判断していた。しかし、母に言わせれば、大局的に見たときに「スマホを持っている小学生は少ない」と「経験」し、それが「普通」である、と思っていたのだろう。
だから、「経験」によっていくらでも我々の「普通」は変わる。事実というのは一つかもしれないが、「普通」というのは事実ではなく、事実に対する自分の立場の表明である。
「事実が経験上、多くあったか否か」
その表明が「普通」という概念なのである。
また、このことはある事実と経験を比較している、という捉え方もできよう。
【だが、ここまで論じても、まだ、不快感の残る人がいる。
「あの人は普通じゃない」という時、そこに比較対象は果たしてあるのだろうか?という疑念である。
たしかに、「じゃあ具体的に、どこが普通じゃないの?」と聞かれて、完全に網羅して答えることはなかなか難しい。
これは簡単な話で、要素が多すぎるのである。ショートケーキの例えはイチゴの有無という単一側面に左右されたが、人間の「普通」はそんな希薄な要素だけでは判断し得ないのは明白である。】
「普通」は経験が司る。
このことは「普通」が共通意識ではないことを指し示している。
誰しもが同じ経験をすることは不可能である。増してや、経験の積み重ねのもとに「普通」があるのだから、生まれてこの方全く一緒の経験しかしたことがないということがない限り、「普通」が一致することはない。ましてや、同じ経験をしたとしても、その人その人によってその経験の深みは違ってくる。
だから、実は「普通」というのは個人的な信仰か、思い込みに過ぎないのだ。
実はみんな、「普通」だし、「普通じゃない」のだ。
「普通」が一致することは不可能である。それはどんなに民族的に、思想的に、経験的に、近しい人でも、「普通」という概念の完全な一致は成り立つわけではない。
殊に人間などの要素の多い事象についてはこれが顕著なのである。
だから、我々は「あの人は普通じゃない」などと、ほとんど全ての人に言ってしまうのだろう。
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