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人間は死にたい生き物である。
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随分前の話だが、私が個人的に開設している質問箱にこんな質問が舞い込んできた。
「始まりがあれば終わりはある。僕たちが生きているということは始まりがあって必ず終わりがあるから。その事実は変えられません。僕は終わりのことを考えたら怖いです。確実に無にならないこの生というものにずっとしがみついていたいです。貴方はこれについてどう思いますか?」
これは非常に巨大で漠然とした難しい問題である。しかしながら,生きとし生けるものの必然的な思考でもある。
現世からの解脱は間違いなく訪れるものだし、回避することはできないだろう。
「確実に無にならないこの生」
今、現世で生きている諸君らというのは絶対に身体という自我を持ち、そして、自己の実存を確認することができる。これによって、自己不全的な虚無が訪れることはない、と言える。(そういう意味での言葉なのだろうとここでは解釈する。)
しかしながら、「終わり」はやってくる。すなわち、自我の崩壊。死には種類があるが、いずれにしても自己を抹殺し現世での存在を無にする。
人間はこの虚無を恐れる。
仏教はこの虚無に対して無常観を説き、
はたまた原始宗教や儒教は輪廻転生を論じ、人類史の長きに渡ってこの不安に打ち勝とうと努力がなされた。
しかし、本質的な死への恐怖を人間は拭うことができていないのである。
では、本質的な死への恐怖とはなんであろうか。
ここでひとまず、死というものについて考察されたい。死には二つの要素がある。精神の死と身体の死である。人間の実在の消滅はこの二つの死の合致の下に現象化する。
(だが、実際は身体の死が精神の死よりも明らかに絶対的であって、両者の合致以前に実存が無くなる場合の方が多いと考えられる。それは理解しつつも今回は社会的で、理性を持った生物としての人間の死を説いているわけで、このような事は考慮の外に出すこととする。)
つまり、人間はこの両方の要素の死によって初めて、人としての存在を喪失するのである。
そして、殊にこの精神の死が、我々の死への恐怖を司っている。
精神の死、ということの概念化に際して、人間にはある特性が見られると思う。それは人間に、「死にたいという欲望」が実は生を受けた時からあることだ。
人間は本来、死にたい生き物なのである。死を渇望している。それ以上の快楽はないかのように、死を至上のものとして乞うている。
人間はこの死亡欲をかき消すために生きている。
「人間は死にたいという欲望を抹消するべく生きている。」
おそらく、諸君らの多くは「生きているから死にたくない。」という継続的な生への渇望を考えると思うが、これは実は全く間違いである。
死にたいという精神的な衝動が我々の頭脳にある限り、生きるということはこれを除去するための無限の旅である。
だから、我々は美食を求め、美女美男を求め、はかない恋を望む。はたまた最上のバカンスを望み、やりがいのある仕事をしようと思う。それもこれも死にたいという欲望以上の何かを見つけるために。
死亡欲に打ち勝つ事物を見つけられなかったら、もうゲームオーバー。どんな人間であれ、精神的な死が訪れる。そして、その精神的な死は、精神を蝕むつくした後、身体の死をいざなうのである。
これが、人間の社会的な死に方である。
(イメージすると分かりやすいのが「過労死」であろう。やりがいのある崇高であった仕事が、突如豹変し、自分にとっての苦痛でしかなくなる。自身の日常はもちろん、仕事のみ。仕事のみのこの状況で、死亡欲が刻々と仕事への義務遂行欲を侵食していく。そして、ついには死亡欲が仕事を覆い尽くし、自殺願望へと、その欲は昇華していく。かくして「過労死」は起こるのである。)
こう考えると、おのずと、死の本質的な恐怖というものが見えてくる。
第一に、人間には死後、今ある「死にたいという欲望を掻き消している何か」がそこにもまだあるのか、という不安がある。
分かりやすく言えば、死後に何も保証がない、ということへの恐れである。
死ぬという、最終欲を満たした先に一体何があるのか。欲のない人間は植物である。そのような状態を思うと、当然不安になるだろうし、恐るだろう。
そしてさらに、死亡欲が自己を支配しないだろうか、という恐れがある。
今では、カクカクシカジカでなんとか死亡欲に打ち勝っているものの、今後、その手のものが無くなってしまったら、という不安である。これは死亡欲の表面化を恐れていることであるが、我々は死亡欲を常にかき消されているので、極限状態にならなければ、死亡欲の在有は感知しえない。
そこで、我々は常に、死というものを恐れているのである。死という無の状態を恐れているのである。
死にたいという欲望があるかどうか、自分にはあるかどうかわからないが、現世でのこの悦楽を鑑みると、死ぬのは惜しい。だから、死ぬのは怖い。という理論である。
我々は、我々の感知できないところで、死にたいという欲望を誰しもが持っているし、現に生きるという行為はそれをかき消すために他ならない。そして、そのサイクルが無くなることを恐れているということが、死への恐怖の本質に他ならないのである。
だから、必ず訪れる、死という無を恐れることは、やむを得ないことであり、
婉曲的に言えば、死を恐れることこそが、最も生命的な行為なのである。
「始まりがあれば終わりはある。僕たちが生きているということは始まりがあって必ず終わりがあるから。その事実は変えられません。僕は終わりのことを考えたら怖いです。確実に無にならないこの生というものにずっとしがみついていたいです。貴方はこれについてどう思いますか?」
これは非常に巨大で漠然とした難しい問題である。しかしながら,生きとし生けるものの必然的な思考でもある。
現世からの解脱は間違いなく訪れるものだし、回避することはできないだろう。
「確実に無にならないこの生」
今、現世で生きている諸君らというのは絶対に身体という自我を持ち、そして、自己の実存を確認することができる。これによって、自己不全的な虚無が訪れることはない、と言える。(そういう意味での言葉なのだろうとここでは解釈する。)
しかしながら、「終わり」はやってくる。すなわち、自我の崩壊。死には種類があるが、いずれにしても自己を抹殺し現世での存在を無にする。
人間はこの虚無を恐れる。
仏教はこの虚無に対して無常観を説き、
はたまた原始宗教や儒教は輪廻転生を論じ、人類史の長きに渡ってこの不安に打ち勝とうと努力がなされた。
しかし、本質的な死への恐怖を人間は拭うことができていないのである。
では、本質的な死への恐怖とはなんであろうか。
ここでひとまず、死というものについて考察されたい。死には二つの要素がある。精神の死と身体の死である。人間の実在の消滅はこの二つの死の合致の下に現象化する。
(だが、実際は身体の死が精神の死よりも明らかに絶対的であって、両者の合致以前に実存が無くなる場合の方が多いと考えられる。それは理解しつつも今回は社会的で、理性を持った生物としての人間の死を説いているわけで、このような事は考慮の外に出すこととする。)
つまり、人間はこの両方の要素の死によって初めて、人としての存在を喪失するのである。
そして、殊にこの精神の死が、我々の死への恐怖を司っている。
精神の死、ということの概念化に際して、人間にはある特性が見られると思う。それは人間に、「死にたいという欲望」が実は生を受けた時からあることだ。
人間は本来、死にたい生き物なのである。死を渇望している。それ以上の快楽はないかのように、死を至上のものとして乞うている。
人間はこの死亡欲をかき消すために生きている。
「人間は死にたいという欲望を抹消するべく生きている。」
おそらく、諸君らの多くは「生きているから死にたくない。」という継続的な生への渇望を考えると思うが、これは実は全く間違いである。
死にたいという精神的な衝動が我々の頭脳にある限り、生きるということはこれを除去するための無限の旅である。
だから、我々は美食を求め、美女美男を求め、はかない恋を望む。はたまた最上のバカンスを望み、やりがいのある仕事をしようと思う。それもこれも死にたいという欲望以上の何かを見つけるために。
死亡欲に打ち勝つ事物を見つけられなかったら、もうゲームオーバー。どんな人間であれ、精神的な死が訪れる。そして、その精神的な死は、精神を蝕むつくした後、身体の死をいざなうのである。
これが、人間の社会的な死に方である。
(イメージすると分かりやすいのが「過労死」であろう。やりがいのある崇高であった仕事が、突如豹変し、自分にとっての苦痛でしかなくなる。自身の日常はもちろん、仕事のみ。仕事のみのこの状況で、死亡欲が刻々と仕事への義務遂行欲を侵食していく。そして、ついには死亡欲が仕事を覆い尽くし、自殺願望へと、その欲は昇華していく。かくして「過労死」は起こるのである。)
こう考えると、おのずと、死の本質的な恐怖というものが見えてくる。
第一に、人間には死後、今ある「死にたいという欲望を掻き消している何か」がそこにもまだあるのか、という不安がある。
分かりやすく言えば、死後に何も保証がない、ということへの恐れである。
死ぬという、最終欲を満たした先に一体何があるのか。欲のない人間は植物である。そのような状態を思うと、当然不安になるだろうし、恐るだろう。
そしてさらに、死亡欲が自己を支配しないだろうか、という恐れがある。
今では、カクカクシカジカでなんとか死亡欲に打ち勝っているものの、今後、その手のものが無くなってしまったら、という不安である。これは死亡欲の表面化を恐れていることであるが、我々は死亡欲を常にかき消されているので、極限状態にならなければ、死亡欲の在有は感知しえない。
そこで、我々は常に、死というものを恐れているのである。死という無の状態を恐れているのである。
死にたいという欲望があるかどうか、自分にはあるかどうかわからないが、現世でのこの悦楽を鑑みると、死ぬのは惜しい。だから、死ぬのは怖い。という理論である。
我々は、我々の感知できないところで、死にたいという欲望を誰しもが持っているし、現に生きるという行為はそれをかき消すために他ならない。そして、そのサイクルが無くなることを恐れているということが、死への恐怖の本質に他ならないのである。
だから、必ず訪れる、死という無を恐れることは、やむを得ないことであり、
婉曲的に言えば、死を恐れることこそが、最も生命的な行為なのである。
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