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第3章
泥沼にはまる
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いきなり「話をする機会」なんて言われて戸惑う僕に構うことなく、ルークは馬車に乗り込んで来ようとする。先日の彼とは全然違う、礼儀知らずな行動だ。そこまで必死になるなんて、すごく意外な感じ……。
って感心してる場合じゃない!
さすがに近くで、しかも二人きりで話なんてしたら僕が本物の“エレノア”じゃないって気づかれるよ! マズイマズイマズイ!
僕は扉の縁にかけられたルークの指を引きはがそうとする。ルークはもちろん抵抗する。しばらくせめぎ合っていると、ふとルークの力が緩んだ。彼の目は僕の手に向けられている。
「エレノア……? 少し見ない間に、ずいぶん手が荒れたみたいだね……?」
うわああああ、しまった! 手袋をはずしたままだった!
屋敷の雑用を手伝う僕の手は、すべすべした姉上の手とは全然違うんだよ! マズイ!
怪訝そうな顔をしたルークの胸を僕は思い切り押した。その瞬間に僕の髪から光輝くものがこぼれて、体勢を崩したルークと一緒に落ちる。あれは姉上から渡された黄金の髪飾りだ。どうも上手く刺さってなかったみたい。
地面に顔を向けてルークが髪飾りを拾い上げる。
「……これは、ドネロン伯爵の……」
そうして馬車の中の僕を振り仰ぎ、叫んだ。
「ああ、エレノア! あのときボクに言ったことは本当だったんだね? まさか、既に!」
姉上。
何が「普段通りに過ごすように」ですか。
ルークとの関係に特筆すべきものがないって嘘じゃないですか。
あの髪飾りはどういうシロモノなんですか。
ドネロン伯爵と何があったんですか。
僕は、僕は、この状況で、どう行動したらいいんですか!
焦るあまり完全な無表情になった僕に向かって、ルークは髪飾りを手にしたまま訴える。
「エレノア、聞いてほしい。ボクがジェフリー卿からの婚約話を受けたのは、君がモート家の教師をしていると聞いたからなんだ」
……は?
「ボクはどうしても君に会いたかった。あの日からボクを避け続けている君と、もう一度話をする機会を得たかったんだ。だから、ボクは」
「どういうこと?」
「え? エ……レ、ノ……?」
ルークの表情が困惑へと変わる。そうだね、今の僕はぜんぜん“エレノア”の演技ができてない。おそらくすっごい顔でルークを見てるはずだ。ちゃんとしなきゃって分かってる。女装に気付かれるわけにはいかないってことも。
分かってるけど、さ!
「サラと婚約した理由は、何だって? もう一度言って」
「理由は……君がサラ嬢の教師をしているからだ。もしもボクがサラ嬢の婚約者になれば、サラ嬢の教師をしている君と会える機会が生まれると思った」
「なんだよ、それ!」
貴族の結婚なんて家同士の駆け引きだ。純粋に相手を思って決まる話なんてほとんどない。そんなことは僕だって十分に知ってる。
だけど。
だけど僕は、大好きなサラに幸せになってほしかったんだ。
ルークとならサラはきっと幸せになれると思った。家柄も人柄も悪くなさそうだし、もしかしたらサラの……初恋の人、かもしれないわけだし。
だけど、今のルークの言い分はなんだよ? 姉上と会える機会が生まれるしれないから婚約した、だって? サラとの結婚を決めたのはそんな理由? たった何回か姉上と会うためだけに、今後の長いサラの人生を利用したのか!
「ふざけるな! そんなことのためにサラを巻き込むなよ!」
「もちろん結婚したあとはサラ嬢と心通わせたいと思っている。だけど、その前にどうしても――」
「なにをしてるの!」
ルークの言葉を、女性の高い声がさえぎった。
木立の向こうから、サラがこちらへ走って来ていた。
「いつまで待っても馬車が来ないし、変だと思ったら、こんなところで!」
馬車の横に立つサラは肩で息をしながら、落胆した様子のルークと、馬車の中にいる僕とを見比べる。
そうしてきゅっと唇を噛み、ルークの手から髪飾りを取って、ひとつ大きく息を吸うと、凍えそうなほど冷たい目で“エレノア”を見た。
「……帰って」
突然の言葉を僕はうまく飲み込めない。
サラは今「帰って」って言った?
ええ? どうして?
だって今週は“エレノア”がモート家に来る週だよ。ほら、モート家だって、こうして馬車を寄こしてくれたじゃないか。だから来たのに。なんで?
意味がよく分からないまま見つめ続ける僕を、サラが睨みつける。
「エレノア様は……私に見えない場所でルーク様を誘惑するような人だったんですね」
「なっ!」
「サラ嬢、違う!」
僕とルークが同時に口を開くけど、サラの態度は軟化しない。
「最低です。そんな方だとは思いもしませんでした」
「誤解ですわ! わたくしは何も!」
「言い訳はいりません。それに、これ以上の貴族教育も不要です。今後もうちへお越しになったとき、エレノア様がまたルーク様を誘惑するかもしれませんし」
「絶対にしませんわよ!」
「契約の期間より短くなってしまったけど、報酬は約束どおりにしてもらえるよう父には話しておきます。今回のエレノア様の行動も口外はしませんからご安心ください。だって『婚約者を寝取られそうになったから、来てもらうのをやめた』なんて。私が惨めすぎますもの」
「お願い、どうか話を!」
サラが無言で手の中の物を投げた。それは僕の肩口を通りすぎ、馬車の壁に当たって、床に転がる。さっき僕が落とした金色の髪飾りだ。
唖然とする僕に向かってサラが優雅に頭を下げる。
「エレノア様、今までありがとうございました。もう二度と私の前に姿を見せないでくださいね」
「待って!」
僕は馬車から飛び降りようとする。だけどその前に馬車の扉が閉められた。サラが強い表情で御者さんに何かを言い、馬車が動いて景色が流れていく。うつむいたルークと、なぜか泣きそうなサラが消えていく。
扉は内側から開かない。僕は御者さんを呼び出すためのベル紐に飛びついて、何度も何度も下に引く。
「止まって! 止まって!」
だけどベルをいくら鳴らしても、僕がどんなに叫んでも、御者さんは反応してくれなかった。
馬車は玄関の前を通りすぎてぐるりとまわる。
先ほどの木立にルークとサラの姿はない。まるで夢だったみたいだけど、止まらない馬車が夢じゃないって示してる。
今さっき来たばかりの道を戻る僕は、あまりの展開の速さに頭が追いつかないまま、馬車の床にしゃがみこんだ。
どうして?
どうして、こんなことになったんだよ!
って感心してる場合じゃない!
さすがに近くで、しかも二人きりで話なんてしたら僕が本物の“エレノア”じゃないって気づかれるよ! マズイマズイマズイ!
僕は扉の縁にかけられたルークの指を引きはがそうとする。ルークはもちろん抵抗する。しばらくせめぎ合っていると、ふとルークの力が緩んだ。彼の目は僕の手に向けられている。
「エレノア……? 少し見ない間に、ずいぶん手が荒れたみたいだね……?」
うわああああ、しまった! 手袋をはずしたままだった!
屋敷の雑用を手伝う僕の手は、すべすべした姉上の手とは全然違うんだよ! マズイ!
怪訝そうな顔をしたルークの胸を僕は思い切り押した。その瞬間に僕の髪から光輝くものがこぼれて、体勢を崩したルークと一緒に落ちる。あれは姉上から渡された黄金の髪飾りだ。どうも上手く刺さってなかったみたい。
地面に顔を向けてルークが髪飾りを拾い上げる。
「……これは、ドネロン伯爵の……」
そうして馬車の中の僕を振り仰ぎ、叫んだ。
「ああ、エレノア! あのときボクに言ったことは本当だったんだね? まさか、既に!」
姉上。
何が「普段通りに過ごすように」ですか。
ルークとの関係に特筆すべきものがないって嘘じゃないですか。
あの髪飾りはどういうシロモノなんですか。
ドネロン伯爵と何があったんですか。
僕は、僕は、この状況で、どう行動したらいいんですか!
焦るあまり完全な無表情になった僕に向かって、ルークは髪飾りを手にしたまま訴える。
「エレノア、聞いてほしい。ボクがジェフリー卿からの婚約話を受けたのは、君がモート家の教師をしていると聞いたからなんだ」
……は?
「ボクはどうしても君に会いたかった。あの日からボクを避け続けている君と、もう一度話をする機会を得たかったんだ。だから、ボクは」
「どういうこと?」
「え? エ……レ、ノ……?」
ルークの表情が困惑へと変わる。そうだね、今の僕はぜんぜん“エレノア”の演技ができてない。おそらくすっごい顔でルークを見てるはずだ。ちゃんとしなきゃって分かってる。女装に気付かれるわけにはいかないってことも。
分かってるけど、さ!
「サラと婚約した理由は、何だって? もう一度言って」
「理由は……君がサラ嬢の教師をしているからだ。もしもボクがサラ嬢の婚約者になれば、サラ嬢の教師をしている君と会える機会が生まれると思った」
「なんだよ、それ!」
貴族の結婚なんて家同士の駆け引きだ。純粋に相手を思って決まる話なんてほとんどない。そんなことは僕だって十分に知ってる。
だけど。
だけど僕は、大好きなサラに幸せになってほしかったんだ。
ルークとならサラはきっと幸せになれると思った。家柄も人柄も悪くなさそうだし、もしかしたらサラの……初恋の人、かもしれないわけだし。
だけど、今のルークの言い分はなんだよ? 姉上と会える機会が生まれるしれないから婚約した、だって? サラとの結婚を決めたのはそんな理由? たった何回か姉上と会うためだけに、今後の長いサラの人生を利用したのか!
「ふざけるな! そんなことのためにサラを巻き込むなよ!」
「もちろん結婚したあとはサラ嬢と心通わせたいと思っている。だけど、その前にどうしても――」
「なにをしてるの!」
ルークの言葉を、女性の高い声がさえぎった。
木立の向こうから、サラがこちらへ走って来ていた。
「いつまで待っても馬車が来ないし、変だと思ったら、こんなところで!」
馬車の横に立つサラは肩で息をしながら、落胆した様子のルークと、馬車の中にいる僕とを見比べる。
そうしてきゅっと唇を噛み、ルークの手から髪飾りを取って、ひとつ大きく息を吸うと、凍えそうなほど冷たい目で“エレノア”を見た。
「……帰って」
突然の言葉を僕はうまく飲み込めない。
サラは今「帰って」って言った?
ええ? どうして?
だって今週は“エレノア”がモート家に来る週だよ。ほら、モート家だって、こうして馬車を寄こしてくれたじゃないか。だから来たのに。なんで?
意味がよく分からないまま見つめ続ける僕を、サラが睨みつける。
「エレノア様は……私に見えない場所でルーク様を誘惑するような人だったんですね」
「なっ!」
「サラ嬢、違う!」
僕とルークが同時に口を開くけど、サラの態度は軟化しない。
「最低です。そんな方だとは思いもしませんでした」
「誤解ですわ! わたくしは何も!」
「言い訳はいりません。それに、これ以上の貴族教育も不要です。今後もうちへお越しになったとき、エレノア様がまたルーク様を誘惑するかもしれませんし」
「絶対にしませんわよ!」
「契約の期間より短くなってしまったけど、報酬は約束どおりにしてもらえるよう父には話しておきます。今回のエレノア様の行動も口外はしませんからご安心ください。だって『婚約者を寝取られそうになったから、来てもらうのをやめた』なんて。私が惨めすぎますもの」
「お願い、どうか話を!」
サラが無言で手の中の物を投げた。それは僕の肩口を通りすぎ、馬車の壁に当たって、床に転がる。さっき僕が落とした金色の髪飾りだ。
唖然とする僕に向かってサラが優雅に頭を下げる。
「エレノア様、今までありがとうございました。もう二度と私の前に姿を見せないでくださいね」
「待って!」
僕は馬車から飛び降りようとする。だけどその前に馬車の扉が閉められた。サラが強い表情で御者さんに何かを言い、馬車が動いて景色が流れていく。うつむいたルークと、なぜか泣きそうなサラが消えていく。
扉は内側から開かない。僕は御者さんを呼び出すためのベル紐に飛びついて、何度も何度も下に引く。
「止まって! 止まって!」
だけどベルをいくら鳴らしても、僕がどんなに叫んでも、御者さんは反応してくれなかった。
馬車は玄関の前を通りすぎてぐるりとまわる。
先ほどの木立にルークとサラの姿はない。まるで夢だったみたいだけど、止まらない馬車が夢じゃないって示してる。
今さっき来たばかりの道を戻る僕は、あまりの展開の速さに頭が追いつかないまま、馬車の床にしゃがみこんだ。
どうして?
どうして、こんなことになったんだよ!
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