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1章
1 プロローグ
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中世、ヨーロッパでは、キリスト教が魔女狩りという悪しき習慣を人々の間に定着させた。
十七世紀後期にもなると、教会による魔女狩りはその姿を消しつつあったが、一度人々の間に根付いてしまったこの恐ろしくも最高の娯楽は、そう簡単に消せはしなかった。捕らえた獲物をいたぶり、自ら「魔女」だと自白させ、生きたまま焼き殺す。「あいつが憎い」だから「魔女として殺してしまえ」。「自分が明日、誰かに狙われるかもしれない」だから「やられる前に誰かを密告する」この集団ヒステリーは、誰にも止められなかったのである。
夏の晴れ渡った空の下、裸足に土埃で汚れたドレスを身に着けた幼い少女が一人、人だかりをかき分けながら、広場中央に用意された火刑台へと進んだ。足元にまきの束が積まれた火刑台に繋がれているのは彼女の両親だ。二人とも駆け寄る自分の娘の姿に気付かず、自分らのでっち上げられた罪状をうなだれ黙って聞いている。やじ馬どもは「魔女を殺せ!」とか「悪魔め!」とか言いながら足元の石を拾い彼らに投げつけている。
「お父さん!お母さん!」
浴びれられる罵声の中、微かに聞こえた娘の声に二人は顔を見合わせ、飛んでくる石に顔を打たれながら娘の姿を探した。しかし、もう遅い。彼らは最後に無事だった娘の姿も見られぬまま、足元に放たれた火にみるみる包まれていった。
「熱い!ごほっ!ごほっ!ネリ……」
煙にむせながら母親が娘の名を呼ぶ。彼女は薄れゆく意識の中、聞こえてきた鳴き声に安心したようににっこりと微笑むとそのまま意識を失った。泣き叫ぶ少女は悲惨な両親の最後をみとった。その一部始終を少女の近くで見ていたのだろう。年の若い司祭が「魔女の子だ……」と、疑い離れだした人々から、放心状態の彼女を守るように手を引き教会の中へと連れていった。
あれから十年という歳月が過ぎた。ここはドイツの周囲を森に囲まれた小さな村。あの時の少女、ネリー・ローラントはその後、司祭の配慮で親戚の叔母夫婦に預けられ十五歳の可愛らしい少女に成長していた。
この日、忘れたころに再び見てしまう過去の悪夢のせいで彼女は朝から最悪だった。下着もシーツも汗でじっとり湿っている。
「はあ……」ため息と同時に涙がこぼれた。
でも泣いている暇はない。叔母と叔父は厳しい人達だ。きっと昨夜の嵐で表も散らかっているだろうし、食事の支度もしなければならない。
彼女は涙をごしごしとぬぐうと、両手で頬を二、三度叩き、いつものように窓を開け放ち、晴れ渡った青空を見上げ流れ込む朝の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「今日もいいことがありますように」
おまじないの言葉を唱え、鏡の前で母親似の薄茶色の長い髪をとかし上でまとめ、つぎはぎだらけのボロ服に着替える。
「ネリー!ネリー!」
そんないつもと変わらない朝の静寂を破ったのは、叔母の怒鳴り声だ。
しかしこんなのいつものことだった。彼女は何か嫌なことがあると、すぐ自分に当たってくる。ネリー急いでエプロンをかけると、鏡の前で笑顔を作り「よし!」と気を引き締め、部屋を出た。階段を降りようとした時、なにか
いつもと違う雰囲気にネリーは直ぐ気付いた。 階段すぐ下には寝間着姿の叔母がいて、自分ではなく何かを怯えながらに見ている。いつもならすぐ、腕組みし意地悪な目で睨んで来るくせに今日はそれすらない。こっちを見るなり怯えた表情で後ずさる。
「どうした……」言いかけ、階段の切れ目にさしかかった時だった。それを見るなり言葉を失った。誰の仕業か居間はめちゃくちゃに荒らされていた。棚と引き出しの物があちこちに散乱し、窓ガラスは割られ足の踏み場もない。
「いつか恩を仇で返すって思ってたよ……」
叔母がまるで化け物でも見るかのような目で自分を見ながら叔父の方へ駆け寄り言った。
「え? 」
ネリーには何のことかわからない。
「きっと、悪魔の力を使ったに違いない……」
叔母が十字を切りながらこっちにも聞こえる声で何かを必死に探す叔父に言った。
「どういうことですか? 」
その時、「やっぱりない!」と立ち上った叔父がこっちにずかずか詰め寄ってきた。
「この魔女め!隠しておいた金まで取りやがった!」
ヒステリーでも起こしたように顔を真っ赤にさせた叔父がネリーの胸ぐらを掴んで壁に押し付ける。
「え? お金? そんな……私じゃありません!きっと……」
「返せ」「返せ」と壁に押し付けられる度、頭をぶつけネリーは舌を噛みそうになりながらも身の潔白を訴えた。
こんなこと、少し考えれば、強盗に入られたのだと誰にでも想像がつく。昨夜は嵐だっから、多少の音が聞こえても風の音や外の物が飛ばされた音と思って気にもかけなかったのだろう。それなのに、叔父は自分が犯人だと言って疑わない。
「濡れ衣です……私は何も……」
魔女に強盗、朝から酷い言われようだ。頭や背中は何度もぶつけられたせいで痛いし、髪もほどけてしまった。
「おまえの両親も魔女だったんだ!子であるおまえが魔女だっておかしくないだろ!」
叔父の迫力につられるように、今まで怯えていた叔母も詰め寄り罵倒しだす。叔母夫婦は昔からネリーの両親のことを良く思っていなかった。だから、彼らが自分を嫌うのはしょうがないことだ。ずっと疎遠だったのに、ある日突然、嫌いな奴らの孤児を押し付けられたのだから。でも、何を言われようと帰る宛てのない自分にとって、どんな所でも置いてもらえるだけでありがたい。そう思って彼らの暴言や嫌味にも今まで耐えてきた。でも、今の叔母の言いようはあんまりだった。
「両親の悪口は言わないで! お父さんもお母さんも魔女なんかじゃない! 普通の人間よ! 大体、いつも、いつも私が何したって言うんですか!? いつもあなたたちの言われた通りしているじゃないですか!? それに! お金だって取っていないし、魔女だとか、本当、バカみたい!! 」
今の今まで耐えてきた怒りがワーッと押し寄せ、ネリーは一気にまくしたてた。しかし、これが元で彼らの怒りに更なる油が注がれた。最初は口ぽかんと開け驚いていた二人の顔がみるみる怒りで歪んでいく。叔父は彼女の腕を思い切り掴み出口へと引きずって行った。
「魔女め! 今日という今日は許さねー! 閉じ込めといて後から委員会に引き渡してやる! 」
口答えしたネリーに腹を立てた叔父は、そのまま庭の物置へと彼女を引きずって行った。腕に食い込む叔父の不潔な爪が皮膚に食い込み痛みが襲う。
「いや! 痛い! 離して! 」
叔父は小屋にネリーを投げ入れると、罵声を浴びせ、勢いよく戸を閉め、厳重に鍵をかったこの家に来た日から今日に至るまで、よく些細なことで怒鳴られてはこの小屋に閉じ込められていたので閉じ込められることは慣れていたネリーだったが今日は違う。叔父は委員会に引き渡すと言っていた。さっきまでの怒りが一気に冷め、血の気が引いていく。この時代、親戚や知人に恨みを買われ告発されるというのはそんなに珍しいことではなかった。叔父の言っていた委員会とは魔女を告発するために、村人で結成された組織のことで、告発された者はあらゆる手段を使われ魔女に仕立て上げられた。
手段とは主に拷問のことで、激痛を与え彼らに自白を強要するのだ。拷問で生き延びられても、「魔女」だと証言したものに待つのは死のみ。委員会とは告発された者にとっては非常に恐ろしい組織だった。
ここから逃げ出そうと戸に爪を立てるが、鍵をかってるうえ、上から板でも打ち付けられたらしくびくともしない。どうやら、彼らは本気らしい。命の危険を感じ、焦りから嫌な汗が吹き出す。彼女は思い出したように、普段は荷物が詰まれ隠れている窓の方を振り返った。窓の前に積まれた箱急いでを横に避ける。しかし、そこももう外から板で塞がれてしまった後だった。もう彼女はどこからも出られなくなった。
板の隙間から見える彼らはやっと厄介者から解放されたといったように、笑いながら通りの方へと向かっていった。きっと、委員会のまとめ役である領主の所へ向かったのだろう。もうだめだ……おしまいだ…絶望に目の前が真っ暗になり、口答えしたことを後悔しながらネリーは崩れるように地面に座り込んだ。
「もうおしまいだ…」
膝を抱えしくしくと泣き出したその時だった、薄暗い小屋の隅で何かがガタガタと音を立てた。ビクリと体を震わせ何事かと顔を上げる。涙を拭き、目を凝らすと積まれた木箱の隙間から、どこから入ってきたのか野良猫が一匹顔を出した。猫は彼女に気付くなり後ずさり出て行ってしまった。猫が入れる位の隙間があるらしい。彼女は立ち上がると、猫の消えた所に積まれている木箱を横にずらした。案の定、隠れていた壁には穴が空いており、それを塞いでいた板も腐れ、押したら外の方にパタンと倒れてしまった。穴は彼女くらいの小柄なで華奢な体格であれば、どうにか抜けられる位の大きさだ。彼女は外を見回し人がいないことを確認すると、そこを抜け出し、自分に部屋に行って大きめの鞄に下着やら、服やらを積め、台所からパンと野菜をあるだけ全部拝借すると、叔母が前に自分から取り上げ、引き出しにしまわれたままになっていた母の形見の刺繍の入ったハンカチを握りしめ、森の方に全速力で走った。
自分を知る人が一人もいないところに行こう。そこでまた一から始めればいい。彼女は一人、森の中を進んだ。
一日目の夜、彼女は森の中でたまたま見つけた洞窟で休むことにした。近くまで自分を探す村人たちが来ているかもしれないという恐怖から火などは熾せない。人の恐ろしさに付け加え、洞窟の中から見る夜の森は薄気味悪く、月の光で微かに照らしだされる木々のシルエットは何かの怪物の姿を連想させた。鳥の不気味な鳴き声と、危険な獣のことと、魔女狩りと……頭の中をこれらが支配し、なかなか寝付けない。
もしかしたらもう村人たちは自分を探しこの近くまで来ているかもしれない……。風でガサガサなりだす草木の音に彼女はきつく目を閉じた。
「寒……」
朝の寒さに震え、かけていた毛布の間から顔をのぞかせたネリーの目に光が差し込んでくる。あれから知らぬ間に眠ってしまったようだ。こんなにも日の光が愛おしく感じたのは何年ぶりだろう? 幼い頃、連れて行かれた両親の後を追って迷った森の中、初めて一人で夜を明かしたあの日以来だろうか……? 白い霧が立ち込める木々の間から日の光が降り注ぎ朝露に濡れた草木を輝かせる。彼女は寒さに身震いすると、なくなりかけた水筒片手に飲めそうな水が無いかと周囲を警戒しながら探し歩いた。程なくして崖を下りた所のくぼ地に澄んだ水の湧く小さな泉を見つけた。水を汲み、顔を洗ったりして身だしなみを整え終えると、彼女は持ってきた野菜をかじり空を見上げた。
「今日は村か町に出れるといいんだけど……」
木々の間から見える空の狭さに、彼女はため息を漏らした。
あれから何時間歩いただろう……日はもう真上に昇っているというのにいくら歩いても建物どころか人の気配すらない。目前に広がるのは、どこまでも続いていそうな薄気味悪い森だけだ……。彼女は不安になりながらも足早に先へと急いだ。とにかくこの森からは抜けなくては……二日も森の中で野宿だなんて、思っただけでも恐ろしかった。
途中、小屋があった。家主に道を聞こうと立ち寄ったのだが、小屋には今はもう誰も住んでいないようで中は荒れ果て床は埃で白んで見えた。ネリーはため息をつき扉を閉めると再びとぼとぼと歩き出した。もしこのまま街にも出られないなら、あの小屋で一人暮らすというのも悪くない……。そんな事を思い巡らせて歩いていた彼女だったが、木々の間を下るうちに荷馬車の通り道であろう一本道に抜けることが出来た。その道を進むにつれ、周りの木ばかりの風景が一変、彼女は見知らぬ土地の野原に出ることが出来た。
これで森の中で夜を明かさずに済む。安堵に胸を撫で下ろした瞬間、腹の虫が鳴いた。不安で今朝はろくに食べてなかったからだ。彼女は顔を赤らめ木陰に腰を下ろすと、火を熾し、袋に四つだけ残った芋を全部焼いた。今二つ食べれば、明日二つ食べれる。明日までに人がいる所に辿り着ければいいのだ。森を抜けれたことで、どうにかなるという自信がわいていた。
既に空はオレンジ色に染まり、太陽が森の木々の中に落ち始ると、辺りは一気に薄暗くなった。野原は見渡す限り家もなく木々が点々と生え空を行く鳥は家路に急ぐように飛んでいる。
「暗くなってきちゃったな……早くどこか安全に休めそう場所、探さなくちゃ……でもいいかな、今日はここで……」
消えゆく火をうとうとしながら見ていたネリーだったが、すぐ近くから聞こえた獣の遠吠えに慌てるように立ち上がると、荷物を背負いどこまでも続くような荒野を足早に小屋か人の住む家を探し歩いた。
歩くうちに前方に広がる林の陰に大きな建物を見つけた。彼女は胸を撫で下ろすと建物の方へと駆けだした。近づくにつれそれが大きな屋敷であることに気づいた。彼女は期待に胸躍らせた。あんなに大きな屋敷なら使用人として働かせてもらえるかも知れないと思ったからだ。
「そんな……」
だが、そこは誰も住んでいない廃墟だった。物事には上手くいく時と、そうでない時とがある。まさに、今の自分は後者の方だろう。いや、自分の今までの人生自体、上手くいかないことばかりだけじゃないだろうか? 一瞬の間に思い描いた夢と希望は一瞬のうちに崩れ去った。
屋敷の周りには錆びた柵がめぐらされ、広い庭は草が今自分のいる場所と同じ、膝上くらいの高さで全体に茂っている。手入れのされなくなった植木は伸び放題になっているものもあれば、枯れているものもあったりで、まさに廃墟の庭と呼ぶにふさわしい姿を呈していた。目を凝らして建物の方を見れば屋敷の窓ガラスは所々割れ落ち、壁には蔦が生い茂っている。正面の扉は板で閉じられているため、そこから中に入ることは無理そうだ。不気味な屋敷の全貌に身震いしながら、ネリーは森の中で見つけた小屋に戻った方がいいものか?と真剣に考えた。
その時、背後からまた獣の遠吠えが聞こえた。しかも、さっきより近い。もう後戻りはできない。
「今夜はここに泊まろう……」
錆びてきしむ柵をよじ登り、完全にガラスの割れ落ちた窓から屋敷の中に入った。
「こんばんはー……って、誰も居ませんよね……」
屋敷の中は少しかび臭い。彼女は持って来たランプに急いで火を灯し部屋の中を見回した。灯りに照らし出された室内は広く、所々に、多分、家具にでも被せているのであろうボロボロの白い布が、床までだらんと垂れ下がっていた。床板は湿気を帯び、今にも抜け落ちるんじゃないかと思うくらいに危なっかしくきしんでいる。
こんな所で夜を明かすのは気が進まなかったが、獣がうろつく野外で寝るよりはましと、あまり破れていない布を家具から引きはがすとそれを床に敷き、その上に膝を抱えうずくまって寝た。明日、とにかく街まで行ければ……。そんなことを思い巡らせているうちに、彼女は一日中歩き続けた疲れから、深い眠りへと落ちていった。
十七世紀後期にもなると、教会による魔女狩りはその姿を消しつつあったが、一度人々の間に根付いてしまったこの恐ろしくも最高の娯楽は、そう簡単に消せはしなかった。捕らえた獲物をいたぶり、自ら「魔女」だと自白させ、生きたまま焼き殺す。「あいつが憎い」だから「魔女として殺してしまえ」。「自分が明日、誰かに狙われるかもしれない」だから「やられる前に誰かを密告する」この集団ヒステリーは、誰にも止められなかったのである。
夏の晴れ渡った空の下、裸足に土埃で汚れたドレスを身に着けた幼い少女が一人、人だかりをかき分けながら、広場中央に用意された火刑台へと進んだ。足元にまきの束が積まれた火刑台に繋がれているのは彼女の両親だ。二人とも駆け寄る自分の娘の姿に気付かず、自分らのでっち上げられた罪状をうなだれ黙って聞いている。やじ馬どもは「魔女を殺せ!」とか「悪魔め!」とか言いながら足元の石を拾い彼らに投げつけている。
「お父さん!お母さん!」
浴びれられる罵声の中、微かに聞こえた娘の声に二人は顔を見合わせ、飛んでくる石に顔を打たれながら娘の姿を探した。しかし、もう遅い。彼らは最後に無事だった娘の姿も見られぬまま、足元に放たれた火にみるみる包まれていった。
「熱い!ごほっ!ごほっ!ネリ……」
煙にむせながら母親が娘の名を呼ぶ。彼女は薄れゆく意識の中、聞こえてきた鳴き声に安心したようににっこりと微笑むとそのまま意識を失った。泣き叫ぶ少女は悲惨な両親の最後をみとった。その一部始終を少女の近くで見ていたのだろう。年の若い司祭が「魔女の子だ……」と、疑い離れだした人々から、放心状態の彼女を守るように手を引き教会の中へと連れていった。
あれから十年という歳月が過ぎた。ここはドイツの周囲を森に囲まれた小さな村。あの時の少女、ネリー・ローラントはその後、司祭の配慮で親戚の叔母夫婦に預けられ十五歳の可愛らしい少女に成長していた。
この日、忘れたころに再び見てしまう過去の悪夢のせいで彼女は朝から最悪だった。下着もシーツも汗でじっとり湿っている。
「はあ……」ため息と同時に涙がこぼれた。
でも泣いている暇はない。叔母と叔父は厳しい人達だ。きっと昨夜の嵐で表も散らかっているだろうし、食事の支度もしなければならない。
彼女は涙をごしごしとぬぐうと、両手で頬を二、三度叩き、いつものように窓を開け放ち、晴れ渡った青空を見上げ流れ込む朝の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「今日もいいことがありますように」
おまじないの言葉を唱え、鏡の前で母親似の薄茶色の長い髪をとかし上でまとめ、つぎはぎだらけのボロ服に着替える。
「ネリー!ネリー!」
そんないつもと変わらない朝の静寂を破ったのは、叔母の怒鳴り声だ。
しかしこんなのいつものことだった。彼女は何か嫌なことがあると、すぐ自分に当たってくる。ネリー急いでエプロンをかけると、鏡の前で笑顔を作り「よし!」と気を引き締め、部屋を出た。階段を降りようとした時、なにか
いつもと違う雰囲気にネリーは直ぐ気付いた。 階段すぐ下には寝間着姿の叔母がいて、自分ではなく何かを怯えながらに見ている。いつもならすぐ、腕組みし意地悪な目で睨んで来るくせに今日はそれすらない。こっちを見るなり怯えた表情で後ずさる。
「どうした……」言いかけ、階段の切れ目にさしかかった時だった。それを見るなり言葉を失った。誰の仕業か居間はめちゃくちゃに荒らされていた。棚と引き出しの物があちこちに散乱し、窓ガラスは割られ足の踏み場もない。
「いつか恩を仇で返すって思ってたよ……」
叔母がまるで化け物でも見るかのような目で自分を見ながら叔父の方へ駆け寄り言った。
「え? 」
ネリーには何のことかわからない。
「きっと、悪魔の力を使ったに違いない……」
叔母が十字を切りながらこっちにも聞こえる声で何かを必死に探す叔父に言った。
「どういうことですか? 」
その時、「やっぱりない!」と立ち上った叔父がこっちにずかずか詰め寄ってきた。
「この魔女め!隠しておいた金まで取りやがった!」
ヒステリーでも起こしたように顔を真っ赤にさせた叔父がネリーの胸ぐらを掴んで壁に押し付ける。
「え? お金? そんな……私じゃありません!きっと……」
「返せ」「返せ」と壁に押し付けられる度、頭をぶつけネリーは舌を噛みそうになりながらも身の潔白を訴えた。
こんなこと、少し考えれば、強盗に入られたのだと誰にでも想像がつく。昨夜は嵐だっから、多少の音が聞こえても風の音や外の物が飛ばされた音と思って気にもかけなかったのだろう。それなのに、叔父は自分が犯人だと言って疑わない。
「濡れ衣です……私は何も……」
魔女に強盗、朝から酷い言われようだ。頭や背中は何度もぶつけられたせいで痛いし、髪もほどけてしまった。
「おまえの両親も魔女だったんだ!子であるおまえが魔女だっておかしくないだろ!」
叔父の迫力につられるように、今まで怯えていた叔母も詰め寄り罵倒しだす。叔母夫婦は昔からネリーの両親のことを良く思っていなかった。だから、彼らが自分を嫌うのはしょうがないことだ。ずっと疎遠だったのに、ある日突然、嫌いな奴らの孤児を押し付けられたのだから。でも、何を言われようと帰る宛てのない自分にとって、どんな所でも置いてもらえるだけでありがたい。そう思って彼らの暴言や嫌味にも今まで耐えてきた。でも、今の叔母の言いようはあんまりだった。
「両親の悪口は言わないで! お父さんもお母さんも魔女なんかじゃない! 普通の人間よ! 大体、いつも、いつも私が何したって言うんですか!? いつもあなたたちの言われた通りしているじゃないですか!? それに! お金だって取っていないし、魔女だとか、本当、バカみたい!! 」
今の今まで耐えてきた怒りがワーッと押し寄せ、ネリーは一気にまくしたてた。しかし、これが元で彼らの怒りに更なる油が注がれた。最初は口ぽかんと開け驚いていた二人の顔がみるみる怒りで歪んでいく。叔父は彼女の腕を思い切り掴み出口へと引きずって行った。
「魔女め! 今日という今日は許さねー! 閉じ込めといて後から委員会に引き渡してやる! 」
口答えしたネリーに腹を立てた叔父は、そのまま庭の物置へと彼女を引きずって行った。腕に食い込む叔父の不潔な爪が皮膚に食い込み痛みが襲う。
「いや! 痛い! 離して! 」
叔父は小屋にネリーを投げ入れると、罵声を浴びせ、勢いよく戸を閉め、厳重に鍵をかったこの家に来た日から今日に至るまで、よく些細なことで怒鳴られてはこの小屋に閉じ込められていたので閉じ込められることは慣れていたネリーだったが今日は違う。叔父は委員会に引き渡すと言っていた。さっきまでの怒りが一気に冷め、血の気が引いていく。この時代、親戚や知人に恨みを買われ告発されるというのはそんなに珍しいことではなかった。叔父の言っていた委員会とは魔女を告発するために、村人で結成された組織のことで、告発された者はあらゆる手段を使われ魔女に仕立て上げられた。
手段とは主に拷問のことで、激痛を与え彼らに自白を強要するのだ。拷問で生き延びられても、「魔女」だと証言したものに待つのは死のみ。委員会とは告発された者にとっては非常に恐ろしい組織だった。
ここから逃げ出そうと戸に爪を立てるが、鍵をかってるうえ、上から板でも打ち付けられたらしくびくともしない。どうやら、彼らは本気らしい。命の危険を感じ、焦りから嫌な汗が吹き出す。彼女は思い出したように、普段は荷物が詰まれ隠れている窓の方を振り返った。窓の前に積まれた箱急いでを横に避ける。しかし、そこももう外から板で塞がれてしまった後だった。もう彼女はどこからも出られなくなった。
板の隙間から見える彼らはやっと厄介者から解放されたといったように、笑いながら通りの方へと向かっていった。きっと、委員会のまとめ役である領主の所へ向かったのだろう。もうだめだ……おしまいだ…絶望に目の前が真っ暗になり、口答えしたことを後悔しながらネリーは崩れるように地面に座り込んだ。
「もうおしまいだ…」
膝を抱えしくしくと泣き出したその時だった、薄暗い小屋の隅で何かがガタガタと音を立てた。ビクリと体を震わせ何事かと顔を上げる。涙を拭き、目を凝らすと積まれた木箱の隙間から、どこから入ってきたのか野良猫が一匹顔を出した。猫は彼女に気付くなり後ずさり出て行ってしまった。猫が入れる位の隙間があるらしい。彼女は立ち上がると、猫の消えた所に積まれている木箱を横にずらした。案の定、隠れていた壁には穴が空いており、それを塞いでいた板も腐れ、押したら外の方にパタンと倒れてしまった。穴は彼女くらいの小柄なで華奢な体格であれば、どうにか抜けられる位の大きさだ。彼女は外を見回し人がいないことを確認すると、そこを抜け出し、自分に部屋に行って大きめの鞄に下着やら、服やらを積め、台所からパンと野菜をあるだけ全部拝借すると、叔母が前に自分から取り上げ、引き出しにしまわれたままになっていた母の形見の刺繍の入ったハンカチを握りしめ、森の方に全速力で走った。
自分を知る人が一人もいないところに行こう。そこでまた一から始めればいい。彼女は一人、森の中を進んだ。
一日目の夜、彼女は森の中でたまたま見つけた洞窟で休むことにした。近くまで自分を探す村人たちが来ているかもしれないという恐怖から火などは熾せない。人の恐ろしさに付け加え、洞窟の中から見る夜の森は薄気味悪く、月の光で微かに照らしだされる木々のシルエットは何かの怪物の姿を連想させた。鳥の不気味な鳴き声と、危険な獣のことと、魔女狩りと……頭の中をこれらが支配し、なかなか寝付けない。
もしかしたらもう村人たちは自分を探しこの近くまで来ているかもしれない……。風でガサガサなりだす草木の音に彼女はきつく目を閉じた。
「寒……」
朝の寒さに震え、かけていた毛布の間から顔をのぞかせたネリーの目に光が差し込んでくる。あれから知らぬ間に眠ってしまったようだ。こんなにも日の光が愛おしく感じたのは何年ぶりだろう? 幼い頃、連れて行かれた両親の後を追って迷った森の中、初めて一人で夜を明かしたあの日以来だろうか……? 白い霧が立ち込める木々の間から日の光が降り注ぎ朝露に濡れた草木を輝かせる。彼女は寒さに身震いすると、なくなりかけた水筒片手に飲めそうな水が無いかと周囲を警戒しながら探し歩いた。程なくして崖を下りた所のくぼ地に澄んだ水の湧く小さな泉を見つけた。水を汲み、顔を洗ったりして身だしなみを整え終えると、彼女は持ってきた野菜をかじり空を見上げた。
「今日は村か町に出れるといいんだけど……」
木々の間から見える空の狭さに、彼女はため息を漏らした。
あれから何時間歩いただろう……日はもう真上に昇っているというのにいくら歩いても建物どころか人の気配すらない。目前に広がるのは、どこまでも続いていそうな薄気味悪い森だけだ……。彼女は不安になりながらも足早に先へと急いだ。とにかくこの森からは抜けなくては……二日も森の中で野宿だなんて、思っただけでも恐ろしかった。
途中、小屋があった。家主に道を聞こうと立ち寄ったのだが、小屋には今はもう誰も住んでいないようで中は荒れ果て床は埃で白んで見えた。ネリーはため息をつき扉を閉めると再びとぼとぼと歩き出した。もしこのまま街にも出られないなら、あの小屋で一人暮らすというのも悪くない……。そんな事を思い巡らせて歩いていた彼女だったが、木々の間を下るうちに荷馬車の通り道であろう一本道に抜けることが出来た。その道を進むにつれ、周りの木ばかりの風景が一変、彼女は見知らぬ土地の野原に出ることが出来た。
これで森の中で夜を明かさずに済む。安堵に胸を撫で下ろした瞬間、腹の虫が鳴いた。不安で今朝はろくに食べてなかったからだ。彼女は顔を赤らめ木陰に腰を下ろすと、火を熾し、袋に四つだけ残った芋を全部焼いた。今二つ食べれば、明日二つ食べれる。明日までに人がいる所に辿り着ければいいのだ。森を抜けれたことで、どうにかなるという自信がわいていた。
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「暗くなってきちゃったな……早くどこか安全に休めそう場所、探さなくちゃ……でもいいかな、今日はここで……」
消えゆく火をうとうとしながら見ていたネリーだったが、すぐ近くから聞こえた獣の遠吠えに慌てるように立ち上がると、荷物を背負いどこまでも続くような荒野を足早に小屋か人の住む家を探し歩いた。
歩くうちに前方に広がる林の陰に大きな建物を見つけた。彼女は胸を撫で下ろすと建物の方へと駆けだした。近づくにつれそれが大きな屋敷であることに気づいた。彼女は期待に胸躍らせた。あんなに大きな屋敷なら使用人として働かせてもらえるかも知れないと思ったからだ。
「そんな……」
だが、そこは誰も住んでいない廃墟だった。物事には上手くいく時と、そうでない時とがある。まさに、今の自分は後者の方だろう。いや、自分の今までの人生自体、上手くいかないことばかりだけじゃないだろうか? 一瞬の間に思い描いた夢と希望は一瞬のうちに崩れ去った。
屋敷の周りには錆びた柵がめぐらされ、広い庭は草が今自分のいる場所と同じ、膝上くらいの高さで全体に茂っている。手入れのされなくなった植木は伸び放題になっているものもあれば、枯れているものもあったりで、まさに廃墟の庭と呼ぶにふさわしい姿を呈していた。目を凝らして建物の方を見れば屋敷の窓ガラスは所々割れ落ち、壁には蔦が生い茂っている。正面の扉は板で閉じられているため、そこから中に入ることは無理そうだ。不気味な屋敷の全貌に身震いしながら、ネリーは森の中で見つけた小屋に戻った方がいいものか?と真剣に考えた。
その時、背後からまた獣の遠吠えが聞こえた。しかも、さっきより近い。もう後戻りはできない。
「今夜はここに泊まろう……」
錆びてきしむ柵をよじ登り、完全にガラスの割れ落ちた窓から屋敷の中に入った。
「こんばんはー……って、誰も居ませんよね……」
屋敷の中は少しかび臭い。彼女は持って来たランプに急いで火を灯し部屋の中を見回した。灯りに照らし出された室内は広く、所々に、多分、家具にでも被せているのであろうボロボロの白い布が、床までだらんと垂れ下がっていた。床板は湿気を帯び、今にも抜け落ちるんじゃないかと思うくらいに危なっかしくきしんでいる。
こんな所で夜を明かすのは気が進まなかったが、獣がうろつく野外で寝るよりはましと、あまり破れていない布を家具から引きはがすとそれを床に敷き、その上に膝を抱えうずくまって寝た。明日、とにかく街まで行ければ……。そんなことを思い巡らせているうちに、彼女は一日中歩き続けた疲れから、深い眠りへと落ちていった。
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