聖女の加護

LUKA

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「うっし、賭けは俺の勝ちだな!へへん、約束通り、次の街で、なんかおごってもらうからな~!」
 勝ち誇った笑顔のケットが、姉のエルフに向かって機嫌よく言った。「あっ、ずっけぇの!姉ちゃん、知らんぷりしようたって、そうは問屋が卸さねぇからな!」
 「んもう、うるさいわね!分かったって言ってるでしょう!?」
 賭けに負けた悔し紛れのエフィが、苛立たしそうに吠えた。
 鼻歌を揚々と口ずさみ始めるケットの予想通り、ひどかった嵐はものの一晩で収まり、からりと晴れた青空の下、ピカピカ眩しい朝日に照らされた私たち一行は、一宿一飯の世話になった旅籠屋へ別れを告げ、次の目的地であるカナンの街を経由する、最終マンモルトル山(のふもとの村)行きの乗合馬車へ、再び乗り込んだ。
 車輪の跡をくっきりと残しながら、ややぬかるんだ(というのも、甚く神経質な嵐は、人々が寝静まった夜中過ぎに、精力的で活発な活動を終えた)街道を行く際、水たまりに反射した陽の煌めきが、キラキラと視界に映り込み、一難去った空気は、日の始まりの清々しさと、新しさに満ちていた。袖や裾をはためかせ、髪とたてがみを撫でるぐらいに吹く風は、穏やかで気持ちの良い南風で、今日という一日が、昨日の悪天候と打って変わって、実に快い冒険日和となることを、爽やかに予言していた。
 なるほど、ケットとエフィのエルフ姉弟は、ちょうど目の上のたん瘤のような昨夜の嵐が、実際いつ止むかについて、賭けていたらしく(すると、昨日火にあたりながら、地図を見ていた私の横で、喋っていたのはこれだったのか!)、したがって、よこしまな暴風雨が、あともう一日は続くと読んだ、エフィのあては見事に外れ、せいぜい一日が固いと推測した弟の、運の流れ、それから向きまでもが、折良くも彼に味方したようだった。
 木の串に刺した淡水魚を、ふりかけた岩塩で、炙って焼いた囲炉裏を囲んだ、昨晩の盛り上がりとは対照的に、しゅんと大人しくなったエフィは、次に立ち寄るカナンの街で、一体何を買わされるのだろうかと、むっつりと黙りこくって、好ましくない考えや深刻な想像を、あれやこれやと、巡らしているように見えた。よってだから、そんな彼女を気の毒に思いつつも、事実微笑ましかった私は、しなやかな栗色の編み上げブーツに包まれた脚を、上機嫌に片膝へ乗せた上、深緑色のチュニックを着た片肘を、馬車の何もはめられていない窓枠へ置きつつ、小走りに移り変わる景色を眺める、ルンルンの勝負師・ケットがカナンの街で、あまり高くないものをねだりますようにと、憂う彼女のために、密かに祈った。
 カナンの街――。神秘的な霊山とも謳われる北の高峰、マンモルトル山に一番近い都市は、数ある冒険者を頑なに寄せ付けない、峻厳で寒冷な、バランウートル山脈のおひざ元でもあり、高嶺の花とも称される街は、景観美が全く名高い。現実それというのも、冷涼な高原帯に広がる街は、その土地独自の美しい花と植物に覆われ、人気の行楽地としても名を馳せていた。にぎやかに栄えた都市は、極寒の険しい頂を目指す、命知らずの冒険者や、様々な事情から、凍てつく山を越えなければならない人々の装備のために、各種動物の毛皮で裏打ちした手袋、耳当て、頭巾、ブーツ、立ち襟のウエストコート、外套、あるいは防寒と保温に優れた、羊毛で太く編んだ靴下、襟巻、肌着などを多岐にわたって売り、妖しく危ない魔物(滅多に見かけない雪男が、やはり一番に挙げられる)や、貪欲で狡猾な野獣の巣窟でもあった山々で、ことさら欠かせない武器や防具、それからスキー板やかんじきも、一通り取り揃えていた。また、香辛料のたっぷりと効いた食べ物と飲み物で、身体の内側からしもやけを防ぐ傍ら、携帯用の火打石や油等、向こうで凍りついてしまわないよう、十分な燃料で、温かさと安心を旅人に供給する街は、多大な思いやりと同時に、それから生まれる利益に余念がなかった。
 乾きつつある道を、のそのそと歩く近隣の村人(手ぶらで行く者や、脇にかごやざる、袋、農具類を抱えた者もあった)、はたまた、とりどりの収穫物を載せた荷車を、遅々と曳いていく農夫たちは、側で軽やかに走る乗合馬車にときたま抜かされ、凹んだ穴ぼこ(そこに湛えた水は、空の抜けるような青さや、そびえたつ木の梢を映していた)は、急に落ち込んだ車輪と共に、車体を不安定に揺らし、馬の蹄に踏まれ、蹴られた石ころたちは、ころころとあっちこっちに散らばった。  
 今ではもう上がった大雨は、様々な痕跡を、地上における匂いとして、残していった。それはまず、この場に充満している、馬車の湿気った木の匂い、それと、埃被った幌の、独特な臭気であり、かび臭いような、それでいて、どちらかというと、落ち着くような、どこか懐かしい匂いがしたそれはおそらく、人間の体臭と馬の動物臭さが、程よく混じっているからだろう。露に濡れた緑の芳香は、無意識の偶発的なそよ風によって運ばれ、それは、生い茂った雑草や下生えの、草いきれも等しい、むっと蒸れた青臭さを運ぶそよ風もあれば、どうにも表しがたい、樹々の芳しい、清涼とした香りを孕んだそよ風もあった。降りしきった雨を潤沢に吸い込み、しっとりと柔らかい土砂の、何とも言えない原始的で、自然そのものの、何一つとして飾らない、素朴な野趣に富んだ香りは、天から燦々と降り注ぐ太陽の光熱によって蒸発し、むんむんと立ち上がっていた。
 真っ直ぐ平坦に伸びつつも、途中曲がり角や、緩やかに起伏した雨上がりの一本道を、小走りから並足を、行きつ戻りつする乗合馬車で、とろとろ進む道すがら、そうした嵐の名残を、胸いっぱいに吸い込んだ私は、乗り物特有の心地よい揺れに、右左と振り子のように揺れ、ふかふかの防寒具は言うまでもなく、次に停まるだろうカナンの街へ寄った暁には、武器か防具、またはその両方を手に入れようと、心に思い描いていた。しかし、とはいえども、そんな未知で危険な冒険には付き物だった、装備について助言してくれた人物に関しては、私の苦い心に、極力思い起こさないようにしていたものの、やはり旅慣れた彼女の忠告は正しかったし、それにいつまたなんどき、トロールのような手ごわい魔物に襲われるとも限らなかった。結局、へき地に置かれたマンモルトル山のふもとに座す、のどかな村で隠棲中だろう、まだ見ぬ勇者へ会いに行くまでだとしても、悪い魔人の恐ろしい手から、可哀そうなネルをもう一度助けてもらうためには、この私――この摩訶不思議な世界を、ゲームとして遊んだことのあった、前世についての記憶以外、丸腰で無防備だった――が、最終的には、自作の拙い漫画を読んでもらう志と、道半ばで息絶え、くたばってしまっては、それこそ元も子もなかった。ああ、ああ、真実確かに、ここ・・はファンタジーゲームの世界だったけれども、やり直しがきかない現実リアルに今生きている私にとって、ゲームオーバーは文字通り、ゲームオーバー・・・・・・・なのだった!!おお、「急いては事を仕損じる」――。ことわざや、その意味もよく分かっているはずなのに、どうして私はまだ、街道をちんたら走っていて、カナンの街はおろか、遥かなるマンモルトル山のふもとに到着していないのだろうか?何故私は、頼みの綱である勇者ジンに会えていない上、かけがえのない親友であり、尊い聖女を救いだす訴えを、未だ口にしていないのだろうか!
 このように、焦った私が、人知れず悶々としているうちに、御者のおじさんは、どういう訳だか街道を逸れ、馬たちを雑木林の中へと進めた。事実、懐に隠した小瓶で、ちびちびやっていた彼だったが、気分は素面の時と違わず、一寸も酔っていなかったから、どうやら近道の体で、落ちた葉っぱのせいで、それと見分けにくい、森の小路へ入ったらしい。林立する、緑豊かな木々がお日様をさえぎり、静かな空間は、風に擦れる葉音、ゴロゴロ鳴る車輪、闊歩する馬の蹄、羽ばたく鳥のさえずりで満たされた。気をもんでいた私は、結構なことだと思った。おお、ネル!哀れな聖女!お願いだから生きていてほしい!どうか、みじめな囚われの中でも、助かる希望を捨てずに、待っていてほしい!あともう少しで、奮起した勇者ジンが、純潔無垢なあなたを攫った、全く邪悪な魔人を打ちのめし、再びあなたを救いに行くから!そして、ついに解き放たれたあなたは、かの絶大なる、格段に素晴らしい加護の力を、勇ましく偉大なる英雄へ授け、世界は永年の平和に保たれる――。悩むことなど何もない、温かいゆりかごの聖域サンクチュアリで、守られた私たちは屈託なく笑い、無邪気に楽しみ、だらだらと漫画を読み、辛い人生の痛みや嘆きとは、一切の距離を置いて、心安らかなうちに老いて、実に健やかな一生を全うする――。ああ、ネル!そのようにひどく甘美で、正に夢のような、心地いい楽園が保証されるならば、とても引っ込み思案で、消極的なオタクの私といえども、キラキラと輝かしいそれを、大胆に求めざるを得ない!だからこそ、麗しい幸福以外の何物でもない生活が大いに可能な、ファンタジーゲームの聖人へ、憎々しいモンスターのような、どうしようもなかった前世に、ほとほと傷つき、膝をがっくりと落とした、みじめな無力そのものだった私は、生まれ変わったのではなかったろうか!?ああそうだ、きっとそうに決まっている!だって今世の運命は、私にとって協力的で、友好的な味方、それから、そもそも二度目の人生は、完全な順風満帆に違いないのだから、調和のとれた筋書きを、わざわざ乱す愚か者さえいなければ、絶対に私は、世界一幸せな女になれるのだ!!これはキツかった前世からの逃避なんかじゃない。報われなかった時の記憶を、たまたま思い出すことができただけで、不幸だった前世を覚えていなくても、必ず私は友達を助けるために行動した。(・・・多分・・・)
 順調に走っていた馬たちの足並みが次第にのろくなり、とうとうピタリと止まってしまった。雑木林はまだ抜けていなかった。こんなところで、ふと馬車が停車したので、不可思議な乗客たちは、お喋りの口を次々につぐみ、何事かと互いの顔を見合わせた。エフィとケットの二人も、窓の外を覗き込んだり、御者台の方へ、黄金色の頭を動かしたりした。
 停まる直前まで、彼のほとんどを占めていた運転手のほろ酔いは、厚ぼったい目蓋の下から見えた、目の前の異様な光景によって、急速に醒めていった。不意を衝かれた男は、驚いた目を白黒させ、それこそ何回も瞬いたが、林の木立と一緒に、視界に映り込んだ姿は紛れもなかった。まん丸の泥団子たちが、道をさえぎるように、御者の目線の先で突っ立っていた。十は下らないだろうか、灌木と同じくらい背丈の低い集団は、腕を組み、何かを口に含み、無遠慮な視線を、それぞれ乗合馬車へ注いでいた。したがって、唖然と呆ける彼はまず、邪魔な他の動物たちにするように、しっしっと追い払う身振り手振り、はたまた荒げた怒声で、これらの奇妙な生き物を退かせようと考えたが、真実群れは、馬車に用があるみたいだった。
 「ちょっと、一体どうしたって言うのよ!」
 いよいよ、業を煮やした一人の女性客が、苛立たしい台詞を口にしたが、代わりに男は、珍奇な泥団子の一団に向かって、怪訝そうに言った。「何の用だ?」
 「ハイジャックさ」赤色の泥団子は平然と答えた。
 「ハ・・・?」
 と、単語を知らない御者は繰り返したが、実際言葉の意味は、次の瞬間に説明された。赤、緑、青、橙、黄、茶――、色とりどりの泥団子たちは、いきなりわあっと声を上げたかと思うと、目前の乗合馬車へ突き進み、大胆な乗っ取りを試み始めた。慌てふためく馬へよじ登り、すっかり動転した男から手綱と鞭を奪い、どやどやと車両へ乗り込み――、
 「!?」
 「うわあっ!」
 「きゃああっ!」
 唐突に、私を含め、目を一斉に剥いた人々は、現れたモンスターを見ると、口々に狼狽の声を上げた。
 「ぐあっ!」
 無理やり御者台から引きずり下ろされた挙句、地面へ落とされた運転手が、衝撃に呻くと、乗っ取りの成功した魔物は、ニタニタ笑いで彼を見下ろし、機嫌良く挨拶した。「アデュー」
 と同時に、鞭をぴしゃりと食らった馬たちが、歩みをさっさと始め、無情の急ぎ足は主人を置いて、またしても私たち乗客を運んでいった。



明くる朝、すっきりと目覚め、疲れのすっかり取れたネルは、いい夢を見た気がした。それは誰かの幸福な思い出らしく、今となってはもう、定かでなかった彼女は、夢でそれを追体験したみたいだった。大きなアーチ状の窓の外で、爽やかな西風が草木をそよがし、鳴禽類の美しいさえずりと共に、清々しく吹いていた。間違いなく快晴を確約していたこんな日は、流れゆく風を心地よく感じないではいられなかった。だがしかしながら、うららかな陽気と打って変わり、大変な一日が再び始まろうとしていた。
 光に溢れた昼下がり、気が付くとネルは、見知らぬ部屋の中にいた。というのも、結構な前に、相も変わらず高圧的なピケから、嫌がらせか否か、アヒルの処理(家畜小屋の軒下でいるところを捕まえ、暴れる彼または彼女の首を絞めて殺し、まだ温かい躰から羽をむしる)を押し付けられた彼女は堪らず、ゴブリンたちの食堂兼厨房を逃げ出し(怒ったピケは、後でジャガイモ百個の皮むきを、彼女にさせることを誓った)、うろうろと古城を彷徨った末、埃っぽいこの部屋へ迷い込んだのだった。実質、奥行きのある空間は広々としており、高く遠い天井は、何本もの薄暗い垂木で支えられ、両側のごつごつと粗い石壁にはめ込まれた、長方形の窓を通して、明るい陽射しが斜めに注ぎ込んでいたが、縦に長い窓のほとんどは、内側に開く観音開きの木戸で閉ざされ、しんと静まり返った室内は、物々しい雰囲気が漂っていた。ここは城の物置部屋だろうか、さっぱり見当のつかなかったネルは、何だか見慣れぬ品物ばかりがたくさん置かれた中へ、不確かな足をおずおずと踏み入れた。
 鈍く光り輝く金銀の甲冑(金属の籠手を纏った手に、長細い槍を掴んだものもあれば、派手で華美な装飾が施されたものもあった)と、目を見張るほど精巧に彫られた石像(一部が欠けているものも少なくなかった)が、貴重な宝を納める櫃や長持ち(初めから蓋のない箱には、ところどころ剥げた金メッキに覆われた、青銅製の見事な女性の頭部、脚付きの銀杯、陶磁の滑らかな壺、緑青の目立つ、フラスコとへらの湯あみ道具一式、複雑な紋章や、モチーフの動物または神々が浮き彫りにされた、年代物の石灰石あるいは青銅、文字の刻まれた石碑、黒光りしたピューター製の水差し、ぶどう酒びん、小鍋、平ぺったい黄金の仮面が、ごっちゃに入っていた)と一緒に、雑然と立ち並んでいる背後で、立派な剣(上は宝石をちりばめた豪華なものから、下は簡素な武器まであった)、多種多様な形状と模様の盾、色鮮やかな旗、格調高い巨大な絵画(数々の技法と劇的な趣向を凝らし、威厳溢れる堂々とした佇まい)が、正面の壁面にずらりと飾られていた。
 古めかしい城の宝物庫として機能していた、この驚異と芸術の部屋は、一目見て、それと分かってもよさそうなものなのに、何が代えがたい財宝で、何が骨董趣味のガラクタか、今一つその価値がよく分からなかったネルは、ただひたすら、ただならぬ空気に満ち満ちた、物静かな部屋の奇怪さに怖気づいていた。中が空っぽとはいえども、全然ものを言わないで立っている鎧武者は、不気味以外の何物でもないし、上背の高い立像は、険しい顔立ちで、動揺する彼女を睨むように見下ろしていたし、おぞましい魔物の胸像は、目と目が自然と合って、思わず恐怖の息をのんだ。蓋のずれた宝箱からは、垣間見えた人骨が、ピカピカ輝く王冠、腕輪、帯、贅沢な敷物に混じっていて、そこから立ち去るネルの逃げ足を速めた。
 奥まった中央はどん詰まり、袋小路らしい円天井を持った部屋だった。ユニコーンの角、イッカクの鋭く長い牙が、張り巡らされた肖像画と共に、壁に展示され、角笛、細かな珍品類――貝殻、鉱石、化石、香辛料、土砂(水気のない、ぱさぱさと乾いた乾燥地帯で採った、きめの細かいサラサラの砂、あるいは浜で集めた、サンゴの死骸や、粉々に砕けた貝殻の混じった、ざらざらした砂)の、多種多彩なコレクション、金銀銅の硬貨(よく見ると、人の横顔がくっきりと浮き上がっている)――、牡鹿をかたどった燭台、砂・水・日時計、香炉が台の上で、おびただしく陳列されていた。魔訶不思議な場所は、本当に魑魅魍魎としていて、呆気にとられたネルは、感嘆と非難の間を行ったり来たりした。ひょんなことから、ある女を描いた一枚の肖像画が、ふとネルの翡翠色の双眸に留まり、何とはなしに気になった彼女は、じっと大きな絵画を見上げた。見覚えのあった、あるいは彼女自身も身に付けたことがあった、たっぷりと膨らんだ灰色のドレスを着た女は、鮮やかなラズベリーレッドに波打つ髪を伸ばし、肘掛け椅子に座っていた。若くも年老いてもいなかった婦人は、うっすらとした微笑みを、そのきゅっとくぼんだ唇に湛え、実になじみ深い灰色の眼差しを、斜め向こうへ注いでいた。つまり、その冷ややかな切れ長の瞳が、とある男の涼し気なものと非常によく似ており、聖女の注目を不意に惹いたのだった。だからこそ、写実に忠実な絵に見入る、ネルの青緑色の目が離せないのも、匂い立つ美人の、鋭い妖艶な目つきだった。おやまあ、彼女・・の面影が濃い――。まつ毛で縁取られた目元はもとい、筋が真っ直ぐに通った鼻、やや尖った耳、弓なりの細い眉と、二つの青りんごで占められた目玉が、きょろきょろとキャンバスの上を動いた。その時、一体全体何の導きか、無意識のネルは後ろを振り向くと、あちらの石壁に掛けられ、くすんだ額縁の中に収まった、少し視線を上げた男性の肖像を、彼女は見た。黒装束で立ち尽くす彼は片手を腰に当て、顔の周りにふさふさと蓄えた真っ黒な髭(緩く笑んだ口元を隠してしまっている)が、色っぽい男気に花を添えていた。長身、がっしりした体格、撫でつけた黒い髪が、日に焼け、しわの刻まれた額を惜しげもなく晒し、深く落ちくぼんだ眼窩の中で、黒っぽい双眼が茶目っ気に煌めいていた。小ぶりな鉤鼻と平行な太い眉は、そこはかとなくにじみ出る持ち主の図太さ、頼もしさ、抜け目のなさを見出すきっかけとなった。どうしたことだろう、壮年の男はと同じ魅力を備えている――。女の銀色の瞳と男の黒い毛髪。もし、彼女を母に、彼を父に持った者がいたとしたら?困惑するネルの碧玉があたふたと揺れ動き、よって予期せず見つけた答えは、壁の隅にあった。三歳くらいの女の子(画家は写実が信条だったのだろう、すまし顔とは程遠かった)を描いたものの斜め下あたり、楕円の枠に囲われ、二本足で立った男の子の小さな肖像画――。精緻に写し取られた全身のてっぺんに、黒い頭が乗っかり、生意気そうな顔立ち(顎先を僅かに上向け、頭を後ろへ微かにそらしていた)は幼くも、冷静を帯びた灰色の眼差しは、ちっとも変わっていなかった。傍らに置かれた机へ手を預け、半ばだるそうに、真っ直ぐにこちらを見ている少年。十歳くらいのアッシュがそこにいた。一目見たとたん、ネルは胸が躍り、喜ぶ心がその下で舞い上がることを知った。図らずとも、値打ちある品々を散々目にしておきながら、嬉しい聖女はやっと宝物に出会えた気分だった。こんなところでまた会えるなんて――。刹那、ハッと我に返った彼女は、たった今自分が何を思ったかについて考えた。そんな、自分は彼に会いたかったようだ。ああ、それはおかしな話だ。けれども、しかし、どうして自分は嬉しくて堪らないのだろう?アッシュの幼い姿を目にしただけで、訳も分からない自分は幸せで、満ち足りた――。ネルは手を伸ばすと、掛け金から絵を外した。彼女を奪い去った盗人を咎めることができなくなってしまったとはいえども、いつでも見られるよう、手元に置いておきたかった聖女は、この可愛らしい男の子を、宝物庫から持ち出した。
 夜、緋色の寝台に寝そべったネルは、漏れ込む月明りを照明に、手にした幼いアッシュの肖像画を、何度となく見つめた。じっと飽かずに眺めるさまは、恋しさにとことん満ち、まるで夢でも逢うつもりらしく映った。よってだから、突如として、一人の男を恋い慕う、求愛者としての自分に気が付いた聖女は、その想いや気持ちを無理くり頭の片隅へ押しやり、そんなことを考えている場合ではないだろうと、自分で自分を窘めた。そう、未だよく分からない自分について、彼女は考えなければならない。聖人族のネルとして目覚めた自分が、この世界もしくは、この時代の住人でないならば、一体自分は、いつ頃のどこからやってきて、何のために移り住んだのだろう。本当の名前は?どうやって暮らしていた?何故誘拐された?勇者ジンと魔人のアッシュ、どちらが真に信頼すべき仲間なのだろう?おお、あたかも無から有を生み出すように、ネルは懸命に考えた。だがしかし、決まって記憶として残された図像以外に、名称の思い出せない彼女の脳裏に浮かばず、結局聖女は、楕円の中で佇むアッシュ少年を一瞥してから、目を瞑り、そのまま眠りに落ちた。
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