天網の果て

なつあきみか

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鬼神の章

其ノ七

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 記憶を閉ざしたいのか呼び起こしたいのか、それさえもう分からなかった。 
「沙那」 
「…呼ぶな。覚えてねえんだよ」  
 ただ無意識の何かが共鳴していた。名を呼ぼうとしていた。それを必死に堪えていた。痛みを帯びるほど苦しげに。 
 それらすべてに引きずられてしまいそうだ。
 男の腕が背中から抱きしめてきた。 
「そのまま引きずられていろ。そうすれば沈んだ町も人間どもも全部もとに戻る。…出てこい沙那」 
「………」 
 俯いた瞼に吐息が触れた。
 背後から顎を掬いあげられ、肩越しに顔を寄せてきた男の腕のなか、昨日より熱を感じさせる接吻に喉の奥が震えた。 


 暁日を呼ぶ声がすぐ近くで止まった。子供の頃からよく知っている気配だった。 
「…あき? そこにいるのか…?」 
 いる。だけど駄目だ。こっちに近づくな。いまの俺じゃおまえを助けてやれない。 
 暁日は身もがくことも叶わずに声に出来ない声を発した。
 届くはずもないそれは、けれどかれの吐息を攫う男には声よりもはっきりと聞こえたようだった。 
 接吻をほどき、男は路地の手前に立つ人間を見やった。
 宵の暗がりでも鬼神の眼に不都合などない。一瞥だけして、すぐまた暁日へ視線を戻した。 
「…もし真核の内側にも封印があるとしたら、あまり手荒いことは出来ない。…もう一日だけ待ってもいいが」 
 暁日は小さく首を振った。無理だ。 
「無理じゃないさ。明日は俺の名を呼べ」 
 ほどかれた男の腕が、とんと背を押して暁日を一歩踏み出させた。 

 すぐそこには仁がいた。
 暗がりの不穏な空気を仁も感じてはいるようだったが、人並みの知覚しか持たない彼では鬼神の姿はおそらく見えない。
 見えるとしたらそれは、この男が人間のふりをしている、ということだ。 
 先ほどの力など鬼神の力のうちではない、ということだ。 

「あき…!」 
 狭い路地の壁をつたうように出てきた暁日は、すぐさま手を差しのべてきた仁の腕にすがりついた。身体に、脚に力が入らなくて、立っているのもやっとだった。 
「…なんでおまえ、こんなとこに…」 
「そりゃこっちの科白だ! おまえが通夜の席を中座するなんて変だろが! それに昨日ここを通ってから、おまえ何かおかしかったし…」 
 暁日が飛びだして行ったあと、心配になった仁は行方を探していたらしい。
 この路地にたどり着いたのも、昨日のあれから暁日のようすがおかしかったからだと。 
「……仲介屋は、葛城の屋敷あたりは無事か…?」 
「ああ、たぶん無事だ。こことは逆の方角だし…。けど、なんでおまえ…、」 
 仁の視線が躊躇いがちに路地の奥へと注がれた。 
 夕刻を走ってきたのだから、目はもう薄闇に慣れているはずだ。

 あの男はまだそこにいる。こちらを見ている。 
 隠さない気配もそのままに、男が見ているのは沙那で、読んでいるのは暁日の思考で、そしてこれは念話といわれるものだろうが、男は暁日にひとつの言葉を投げかけてきた。 
 ―― 守黎院に行け。 
 守黎院とは、うぶすなを奉る守護寺にして、荘園の葛城が預かる御領寺院の筆頭だ。 
 だがいまは何よりも、暁日が七つまでを過ごした場所のことだった。 
 ―― ただし三度目はないと思え。俺は気の長いほうじゃない。
「………」
 沈む記憶の淵に手を伸ばし、自ら閉ざした何かを、あるいはこの男のことを、あくまでも己の意思で呼び覚ませと男はいうのだ。 
 無理な要求ばかり押しつけて、そのくせ無理やり引きずり出すのは避けたいという。
 沙那を思いやってのことかもしれないが、いまはそれすらもこの男の身勝手さに思えた。 




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