天網の果て

なつあきみか

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記憶の章

其之一

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 ―― 沙那。
 静かな声に呼ばれたのと、ゆるやかに意識が浮上していく感覚に瞼が震えた。
 少し息苦しいのは呼吸を詰めていたからなのか、はっきりとした覚醒より先に小さく咳き込んだ暁日は、そこが己を抱く男の腕の中だとはすぐには気づかなかった。
「………」
 ようやく開いた視界の先には、何にも遮られていない黒紫の眸。どうやら知らぬ間にこの男に身を預けていたようで、自分は気を失っていたのかとぼんやり思った。
 あたりは静かな闇の帳に包まれており、ここがどこなのかよく分からない。
「…じん、は…」
「置いてきた。生きてる」
「……」
 ということは、ここは先ほどまでのあの商店通りとは違うのか。
 まだ身体に力の戻らない暁日は、思いどおりに手足を動かすことも、言葉を紡ぐことさえ儘ならない。
 この男が場所を、あるいは空間を、どこかへ移したのだとすれば、せめて自分の居場所ぐらいは把握しておきたいところだったが。
「おまえの知ってる場所だ」
「……?」
 とてもそんな感じはしなかった。
 仮にここが深夜の山道なら四方が暗闇でもおかしくないが、それでも頭上に星の瞬きひとつ見えないというのは尋常ではない。風の音も木々の葉擦れも、何も聞こえてこないのも。
 そのくせ無音というのともまた少し違っていた。

「……境界か」
「おまえのその有り様じゃ埒があかないからな。守黎院の神域まで跳んだ」
 神域。それはつまり、単に寺院などの神聖な場所というだけでなく、俗にいうあの世とこの世を繋ぐ境界域のことでもある。
 この尋常ならざる空気はまさに後者のそれだろう。
「……死んだ覚えはねえぞ…」
「そのはずだ。殺した覚えもない」
「……」
「守黎院までの移動の手間が省けたな」
「………」

 さっきから、男の声がひどく優しい。
 言葉のあいまに頬に触れてくる無骨な指も、額の髪を掻きあげる仕種も。
 俺はこの手を知っているかもしれない。ふいにそんなことをに思った。

「……さっき…、意識が飛ぶまえ。…何かを感じた」
「いまは?」
「…なにも。…―― 拾えなかった」
 だけどまるで叫んでいた。
 すべての負の感情がめちゃくちゃに絡まりあって、どれもが支離滅裂で、それでも誰かの名を呼んでいた。
 そうじゃない。誰かではなくて、あれは。
「………」
 あのときと同じ、喉まで出かかっているのに声にならない。思いだせない。
 目を閉じて、暁日は深く吐息した。

 ここが境界だからなのか、身体は泥のように重くて自由が利かない。
 意識も思考もまだどこか朦朧としていて、何よりも真っ先に考えなければならないことが何なのか、少しもまとまりを得ず絞りきれない状態だった。こんなことは経験にない。

「…沙那、」
 この名を呼ぶときだけは、この男の声は最初から穏やかだ。暁日ではなく、沙那としてこの身に触れる手も指も。
「………」
 もう一度やわらかく髪を撫でられて、暁日はその手にすりと頭をすり寄せた。



 唇に触れた熱は三度目の接吻だった。
 顎を押さえた手がゆるく歯列をひらかせて、その隙間から男の舌が進入してくる。舌の裏側をくすぐられ、上顎の敏感な箇所を甘ったるく愛撫された。途端に暁日の背すじがびくんと波打った。
「…っ、んぅ…」
 力の戻らない手足では自由に動くことさえ儘ならない。
 腕を持ちあげようにも指先だけが甲斐なく震えるばかりだ。
 舌先を吸われ、上下の唇を甘く交互に噛みつかれても、暁日は男の腕の中でそれらをただ受け入れるしかなかった。
 微かな光ひとつ差さないこんな暗闇の中で、自分のこともこの男のことも、何ひとつ記憶に甦ったものなどないのに。
 ただ、胸が苦しかった。閉ざした瞼の奥が熱くて、苦しくて、わけも分からず涙がにじんだ。

「沙那」
 違う。暁日だ。いまこの意識が拾っているのは暁日の感情だけのはずだ。
「……それでも呼び水にはなる」
 どこにそんな確証があるのか。現に男がこれだけ呼んでも沙那は一切こたえようとしない。
 頑なに閉ざした殻の中で、町が人がどこかに消えても結局そこから出てこなかった。
 ―― 俺に、この男の名を呼ばせなかった。

「…沙那?」
 男は何かを聞き咎めたように暁日を見やった。
「…封印の作用だろう。いまの沙那の声は器のおまえにしか聞こえない。…何か聞いたのか?」
「………」
 そんな実感はなかったが、聞いたのかもしれない、とは暁日も思った。
 渦を巻くように混乱していた。あらゆる負の感情に覆われた何か。
 いま残っているのはそんな印象めいたものばかりで、すでにはっきりとした声も言葉も何ひとつ覚えてはいなかったが。
 それでも暁日の意識が沈む直前、確かに沙那はこの男の名を呼んだはずだった。

「沙那」
 応えようのない呼びかけに瞼をあげて、暁日は間近に男を見つめた。
「呼んでみるか?」
 この男の名を。
 問いかけに暁日はゆっくりと首を振った。

「…沙那」
「どっちも返事のしようがない…。俺は沙那じゃねえし、おまえが呼ばれたいのも俺じゃないだろ」
「確かにおまえじゃないが、顔も声もよく似てる」
「――…」
 声が言葉になるまえに、唇は再び塞がれてしまった。
 ただそれだけで暁日にはもう逃げ場はなかった。

 この暗闇は奈落ではないのに、まるで深みへと落ちていくような、攫われていくようなそんな気がする。
 何ひとつ覚えていなくても、何ひとつ教えられなくても、沙那がこの男のことをどんなふうに思っていたかということだけは、もはや分からないはずもない。
 晒された白い喉もとに男のくちづけが落とされても、この熱に、この腕に、この抱擁に、これ以上抗えるはずがなかった。




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