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ゆる~くてだっる~くて、つっ……まらない惰性のしょーもねークソみてぇなセックスを続けるのか~?
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頸動脈の正確な位置を、教えられる。酸素欠乏の限界の時間を、教えられる。しかしその限界の時間は、正しい限界の時間ではなく、二人の裁量で自在に伸び縮みする。行為の毎に酸素を欠乏させることを壮一は薫に希求する。あれから数回の行為のための逢瀬の後、壮一は「今週末に他大学と興行試合があるから見に来ないか。」と薫を誘った。7月になっていた。1か月も関係が続いたのは薫にとって初めてのことだった。
最初の見学以降、壮一がプロレス研究会の話を出すことは無かったし、薫が進んで門を叩くことも無かった。薫は興行を観に行くことを、断ることもできた。身体の関係で完結してもいいのだ。
とはいえ、壮一が強引な勧誘をしてこないことに怪しさを覚えていたが、自分が抱いた肉体が飛翔する姿をもう一度くらい見ても良いかと思ってしまっていた。なるほど、自分の一番良い姿を見せる為に敢えて今までこの男は沈黙を守っていたのだなと薫は直感した。喰えない男だ。
だから、壮一の誘いに乗ることは、彼の思惑にまんまと身を委ねることになるのだが、ここで拒絶して今すぐ関係性をバッタリと断ち切られることにも、悔しいことに微かな恐れを感じていた。壮一であれば「じゃあもう会わない。」とはっきり言うことは無いだろうが、別のやり方で薫から離れるか、興味を失ったふりをするか、そういう穢いやり方をする気がした。逡巡の末、薫は試合を見に行くことを約束した。
壮一は、やましげな顔で頷く薫を見ながら、ああ良かったと思った。それからいつも、行為の前でも後でも、彼に言いたい言葉が心の中にわだかまり、次会った時にはキチンと真面目にいろいろと話そう、行為以外のことも、知り合いたい、と思うのに、会うと直ぐに肉体関係を結ぶことや新しい性の方法を試すことを優先してしまう。言葉になりかけていたもの全てが、歪んだ性行為の中へと、津波が一度引いて強く岸に波を打つように、性の激しさに還元され霧散無消してしまう。溜めていた分の言葉が、肉の結びつきを強くする。
薫の、締め技に対する物覚えは早かった。格闘を習ってたとはいえ、指で軽くいい具合に頸動脈を抑えて、窒息させ、なおかつ気持ちよくさせるところまで、彼は簡単に習得した。今まで誰もついてこなかった領域にまで彼なら昇ってこれるに違いないと壮一は感じていた。自分の目に間違いはない。壮一は彼を育てたいと思った。自分の理想とする者に彼を育てたい。
週末の興行を見に来た薫を、闘いながらも、視線は併せずとも上からずっと眺めていた。そこだけが輝いて見えた。ヒール役の他校の学生を薫と思うと興奮した。
「SMに興味は無いか?」
興行の後、次に会った時、壮一は「プロレス研究会に入る気は無いか?いつものだけじゃなく、リングの上でもお前と闘ってみたい。だから、お前はヒールをやれよ。」と言うつもりが、呼び出しに答えて隣に座ってきた薫を前にして、欲望を口に出していて自分で笑ってしまった。
2人は珍しくホテルでもなく、壮一の住む学生寮でもなく、薫の下宿先のアパートでもなく、大学内のベンチに並んで腰かけていた。薫が黙っている間、壮一は鞄に潜ませていたロープをするすると蛇のようにとりだして、手元で弄びながら、どうしてこう、彼の前で剥き出しの欲望を出してしまい、うまく普通の会話ができないのだろうと歯がゆさを覚えた。
だからこそ、俺は彼を選んだのか?
薫は馬鹿にしたような目つきで壮一を横目で見た。
「開口一番何を言いだすかと思えば。せっかくこの前の試合の感想を用意して来たのに、そんなのには興味ないみたいだな。で、SMに興味があるかだと?ははは、あるわけねぇだろ……っ、そんな変態くせぇこと、全然興味ないね!!俺は!したいなら、革ハーネスでも付けて腰でもふって、年上の男でも捕まえればァ?」
壮一は、一体どの口が言ってるんだろう、興味津々の癖によォ……とムキになって否定する薫のことを内心せせら笑いながら続けた。
「無い?……あ、そ。本当に、今のままでいいのか?幸せか?」
薫は壮一がロープを弄ぶ手を眺めていた。それで、どうにかして欲しいのか?お前は俺を操ろうとするのか?
「今のままでいい……」
薫は早口にそう言った。口の中が異様に乾き始めていた。
薫の中で一つのブレーキが働いてた。アダルトコンテンツでは比較的暴力性の強い物を好む。SMも変態臭いと否定しながらいくらか観ていた。過激であればあるほど抜け、入っていける。しかし、その度、いつかまたある一線を越えて、自分で自分のことをコントロールできない領域にいってしまうことを畏れていた。
柔道を始めたのは、精神力の向上、肉体的にも強くありたかったからだが、成長が進むにつれ、主に第二次成長期にかけて、純粋な強さを求める闘いの中に、やましい怪しい欲望が薫の中に顔を見せ始めた。これはいいと思った相手と手を合わせ、戦いが難戦するほど、純粋な勝負以外の不純な欲望がもちあがり、気持ちのいい、清々しい殺意が芽生えた。気持ちのいい殺意。……したい。めちゃくちゃに。
欲望は誰にもバレてはいないし、バレてはいけない。時折薫は試合後に足早に皆の目につかないようにトイレに向かう癖がついていた。試合の事、その後の暴力の支配する空想世界の中で、手淫にふけり、手の中に出していた。その度トイレの壁に思い切り頭を打ち付けたい衝動に駆られた。あり得ない、こんなことあってはいけない!と思った。この自分が。元々読書は勉学に関する本以外興味が無かったが、性衝動や倒錯、犯罪に関する様々な文献を読み漁った。合意の無い相手に危害を加える可能性のあるサディズムは精神科の治療対象になると知った。そして確立された治療法がないことも理解した。科学的去勢、投薬による性欲減退、それくらいしかない。
高2の秋、柔道地方決勝で、ついに薫の衝動は一線を越えたのだった。ライバル校、何度か勝ち負けし顔も性格も良く知った相手との手合わせだった。彼と戦えることを愉しみにしていたのと同時に、前日にしっかりと抜いておいた。多少の気休めになる。組合を繰り返す内、彼の癖、彼の急所がさらけ出される瞬間が、ゆっくりとして、動画と言うより、まるでスナップ写真のように、ゆっくりと捉えられるようになっていた。彼の動きが手に取るようにわかる、ゾーンに入り始め、欲望がチラチラと顔を出す。途中から手加減をしていた。
「お前、何で本気で来ないんだ……手を抜いてるだろ……」
組合の途中彼に耳打ちされた。薫は、冷ややかな目で彼を見たまま黙っていた。
すべて、俺とお前の為なのだ。
「馬鹿にするなよ……死ぬ気で来い」
薫の黙っていることに、余計に馬鹿にされたと思ったのか、彼は激昂して、さらに素早い動きで挑みかかってきた。薫は素直に彼の雄姿に感動した。しかし、感動するほどに、まだゆっくりに見える。死ぬ気で来いと言うことは、自分も死んでもいいわけだ、ああ、だからもう手加減しなくても、良い、良いんだ……、と、理性より先に欲望がさっさとそう決めてしまっていた。
担架が、救急車のサイレンが、人だかりが、大声が、悲鳴が、全ては夢のようだった。彼は死ぬことは無かったが、激しい挫傷のため、腕の神経に若干の麻痺が残り、薫との闘いが実質彼の引退試合となった。誰もが、顧問もOBも後輩も家族も友人も薫を叱らず慰め、審判や運営に責を負わせた。
そういうこともあると、武道にはつきものであり、事故であると。当の彼さえも、薫を一切責めなかった。武闘をやる以上受け身をとれなかった自分に非があり、覚悟の上であったこと、謝罪などいらないと力なく笑い、ありがとうとさえ、言ってのけた。彼の家族まで彼と同じく、まるでふやけていた。全ては、余計に薫を窮地に追いやった。怒鳴りつけられる、面会拒絶、彼の家族や仲間からの報復による暴力を望んでいたのに。
誰でも良いから、この俺を責めてくれないか。事故ではないんだ、わざと、故意で、意志をもって、俺はやったんだ!叫び出したい、もう、誰かに言ってやろうかと思ったが、言えるわけが無く、言ったところで、彼を傷つけないための嘘を言っているととられるに違いない。薫は、学校でも部活でも、行儀よく、周囲からの信頼が厚く、腕っぷしの強さもあり、体育会系や不良からも一目置かれ、誰からの評価も良かったのである。せめて普段からわざとでも不良生徒としてふるまっておけばよかったとさえ思う。
はやく死ななければと思った。このまま生きていてもまた誰かを傷つけ、自分だけが罪業を背負っていくならまだいい、もし耐え切れず今回のような犯罪を犯し始めたら?それはもう自分だけの問題にとどまらない。試合を終えるとすぐに、ちょうど受験シーズンに突入した。薫は死の衝動を、自分に鞭打つように勉学に注ぎ込んだ。元々トップクラスの成績だったがどこの大学でも楽々受かるレベルにまでなっても勉強を続けていた。そうしていないと、また誰か手にかけるか、自分を手にかける。
「故意だろ?」
遠くの方から声がして、薫は追想の中から現実に戻ってきた。見慣れた瞳が直ぐ近くで薫を覗き込んでいた。
「なに?」
「お前の学生時代の柔道の試合の記録を全て見た。」
「……。そう、で?なにが故意、わざとだって?」
「事故で処理されてるが、故意だろ、”あの試合”……。決勝……お前、反則も糞も無く、とにかく、相手を半身不随にしても、殺しても良い、いや、殺したいという気でヤったろ。あれはそういう動きだからな……。……って言ってるんだよ。理解したか?薫君。」
壮一の声がまた遠くなっていって現実感が無くなっていった。世界が静まり返って、彼と自分だけになったような感覚に陥る。壮一の眼が目の前でゆっくり細まっていき、またいつもの妖しげな炎のような揺らぎを瞳の内側から放出し始めた。
「今の俺ならあの体勢からでも受身がとれた。とれる。そう、俺に対してだったらお前は、何も畏れることは無いんだよ。それから、相手方のことは知らないが、きっとお前のことを周囲の大人は揃いも揃ってお前をかばったんじゃないか。事故だってな。気にするなってな。まったく、鈍感で、なんて馬鹿な奴らなんだろうね大人って……。この世界で俺だけが認めてやる。あれは事故じゃない、お前が望み、したくて、やったことなんだと。お前が、自分の意思で、自分の欲望に正直になって、生きた、その証」
薫は勢いベンチから立ち上がって壮一に背を向けて走り出していた。背後から呼ぶ声を振り切って。
壮一はベンチからゆっくりと立ち上がり、一応薫の背に向かって叫んだが、別に追う気はなかった。一陣の風がふいて、汗ばんだ身体を優しく撫でていく。今追ったとて、今の薫はどこまでも逃げるだろうし、余計な刺激を与えることになる。刺激の与えすぎ、これでご破算、もう会うことも無くなってしまうかもしれない。しかし、もし、もう一度彼が自分の前に姿を現したらなら、もう二度と俺の前から逃げることは無いだろう。
薫に声をかける前から、彼のこの件について調べと当たりをつけていた。やはり思っていた通りだったというわけだ。嗚呼、なんて最高の男なのだろう。壮一は振り絞るようにして、声を出した。
「俺だけがお前を理解するんだ…‥‥っ、それがっ、どれほど心強いことか、孤独なお前にならわかるはずだ。」
8月も終わりに近づいても、その年の猛暑はおさまらなかった。
各地で10年来の最高気温を記録し、全国で熱中症による多数の死者が出た。
壮一はリングの上を舞いながら、あの日から、ただ一つの事を考え続けていた。あれから彼からの連絡はない。リングの上、寝技をかけてくる後輩の視線が外を向き、力が弱められた。熱気に包まれた室内の空気が揺らいでいることに気が付いた。
壮一は開け放たれた扉の向こうに頭を向けた。そして、緩んだ後輩の腕の中から抜け出て、駆けだしたいのを堪えてゆっくり立ち上がり、扉の側のロープの上へ腕をかけ顎をのせ、彼を見下ろした。
「やぁ……、待ってたよ……、随分遅かったじゃないか……」
太陽を背負って、肝心の彼の顔がよく見えない。壮一はリングのロープをくぐって彼の方へ静かに降り立ち、ゆっくりと獣を刺激しないように慎重に歩み寄っていった。壮一が近づいていっても彼は目を合わせようともせず、何も言わず立ったままでいて、視線は険しいまま地面の方を見ていた。薫の腕をとり、背後の後輩たちに目で練習を続けるように命じて、壮一は外に出た。
まだ蝉の声が五月蠅く、大学中で叫び声を上げる。自然と汗が流れる。
双方何も言わないまま、銀杏並木をいつかのように歩き続けた。
「やらない……」
薫の口から、絞り出したような初めて聞く震えた声が出ていって、最後の方は殆ど聞き取れなかった。
「やらないって、何を。」
薫の脚が止まり、ようやく正面から壮一を捕えた。壮一はその顔を見て、嗚呼、と熱くため息したいのを堪えて、リングの上に居た時と変わらない微笑を讃え続けた。性行為の後、薫は時々泣き出しそうな顔をすることがあった。行為中常に泣いているのは壮一の方だというのに、終わった後はまるで逆になるのだ。
「お前とはもう、」
薫のその後の言葉がいつまでたっても出てこない。壮一は助け舟を出す。
「何を?セックスか?いいよ、性交は双方合意があって成り立つことだ。飽きたならそれで。でも、そんなことをわざわざ俺に言うために律義に会いに来たの?1か月以上も空けて……?」
ふふふ、と壮一は笑いながら薫に腕を絡め、初めて肩を掴んだ時のように強く引き摺り下ろすようにぎゅうと締めあげた。薫は壮一の方を見ないまま、小さな声で言った。
「……危ないことは、もうやらない、やりたくない、」
「ふーん、もう、前みたく絞めてくれないのか?ゆる~くてだっる~くて、つっ……まらない惰性のしょーもねークソみてぇなセックスを続けるのか~?そんなら他に相手なんか」
薫は勢いよく顔を上げた。怒った顔をして、今度は強い、いつものような調子で壮一に食って掛かった。
「死に……、死に無暗に近づくようなことはやらないと言ってるんだ!いつものだって……、お前の変態性欲につきあってやってもいいが、限度があるだろ……。」
「だ、か、らァ、それなら心配いらないと言ったじゃないか。俺は受身のプロだぜ。いいか、薫。SMは戯れ、プロレスと同じだ。ルールを定めて行う限り、お互いの限界を越えることは無い。寧ろ普通の性行為より危険だと理解している分、情の歯止めを効かせようとお互いの理性がどこかで常に見張っているものさ。」
「……」
薫は、渋い顔をして黙っていた。壮一は、あと一押しだと思った。もう離さない絶対に。
「そうだ、久しぶりに俺の部屋に来いよ。嫌になったら帰っていい。”危ないこと”はやらないから。」
訪れた壮一の部屋は1か月前と全く変わりなく整然としていたが、相変わらず本が多い。理工学部の癖に、マゾヒスト的な空想癖の凄さは、この読書量から来るのだろうか。本当は文学部がよかったが、理系の成績の方が優れていたのと潰しが効くので理工学部に進むことにした、といつか彼が言っていた気がした。しかし彼との時間はほとんど行為に取られて、互いの知らないところは多い。
勉強机の上に教科書が開かれたままになって勉強の跡が見える。壮一はベッドの下を漁り始めた。下から本棚に並んでいないタイプの本が出てくる。そして、一緒に奇麗に整えられ結ばれた麻縄の束をばらばらと5つほど取り出した。本の表紙には『緊縛入門・初級編1』『緊縛入門・初級編2』『中級緊縛・寝緊縛から吊まで』『古典緊縛~江戸の緊縛法~』『上級者向け緊縛極意』とあるのが見える。
「なんだそれ。」
薫はわかっていて敢えて聞いた。壮一は薫を使って己を緊縛をさせたいのだ。薫は頭の奥の方から危険信号が光り始め、凄まじいサイレン音を出すのを聞いた。この1か月間ずっとサイレンが鳴っては鳴りを潜め、また鳴ってを繰り返し、薫を苦しめた。他の人間の上にのしかかりながら、壮一の身体の、その太く青い血管の浮いた首筋のことを考え続けながら腰を振り、察しの良い相手からは「最低!」と平手さえされたのであった。縄をほぐしながら壮一はさわやかな笑顔で二条を振り向き見上げた。
「初級ならば、お前なら本を見ながらでもある程度習得できるし、怪我の心配も無い。俺も自分の脚を使って仕組みを理解できたくらいだ。初級をいくらかやってみて面白いとお前が思ったなら、本格的に外へ習いに行こう。その方が危険も無い。そういうのを仕事にしてる人間、プロに習うべきだ。それならお前の望む安全第一でできるだろ。いつでも俺が受け手としてつきあってやるから。モデルに困ることも無いしな。ふふふ……。」
本を広げ、壮一は一糸まとわぬ姿になった。薫は脱がないままでいた。
裸の壮一の肉体の上に緊縛の初歩である後手縛りを、壮一の縛られながらの口頭指導と本を見ながら見よう見真似でなんとか完成させることができた。左右対称に結び目が壮一の汗ばんだ背中の上で突っ張って、食い込んで縫い留め、ぎぎぎ、と、音を鳴らしていた。壮一は目で見てわかる程に、悦んで戯れるように縛られた身体を縄抜けしようとするが、後ろに回された腕を動かす余地は全く無いようで、ベッドの上で転がされたまま、傍らに仁王立ちする薫を見上げた。
「へぇ、な、なんだ…‥はじめてにしては……よくできてるじゃないか……」
壮一の声の中に最初の頃の、あの焦燥の混じった声を聞いた時、薫の中で鳴りを潜めていた火花がまた小さく音を立て始めた。壮一は隠すようにして転がってうつ伏せになった、もう既に雄の昂ぶりの気配があるのを感じたのだったが、薫に悟られるのは恥ずかしかった。
「SMなんて変態臭いとか言ってたくせして、本当はもう他の男を縛りまくってたんじゃないのか?」
壮一が自分の焦燥を掻き消すようにしかし興奮を隠せず顔を紅くした。それを薫は冷めた目で眺めていたが、ふいに視線を逸らした。
「帰る。」
「えっ」
壮一の元に戻ってきた瞳の中に、冷めた感じの他に、嗜虐的なゆらぎが漂い始めているのを壮一は見た。
薫の口元に、壮一に再会して初めて微かな微笑みが立ち昇っていた。
「”嫌になったら帰っていい”、さっき、てめぇが自分の口で俺に対して偉そうに言い腐ったんだろう。忘れたか?俺はお前のその、人を見下した態度がつくづく嫌になったね。ああ、俺はお前の部屋の鍵を貰ってないからな、閉めないで帰るぜ。そうだ……、ついでだからよ、後輩君たちに声かけておいてやろうか、部長が呼んでましたよってよォ。急に部長にいなくなられてアイツらも困ってるだろうしなァ!」
薫は壮一に背を向けてさっさとドアの方に向かい「待」と言う声を聞きながら扉を勢いよく閉めた。
ドアの向こうから小さく官能的な悲鳴が聞こえていた。足音を大きく、廊下を歩き去っていく音を立ててから忍び足で再びドアの方に戻り耳をそばだてるとさっきよりさらに鳴いていた。しばらく声を聞いてから、薫はまた足音を忍ばせて、部屋の前から去った。
1時間かそこら、辺りを散歩してから壮一の部屋に戻ると、彼は勢いよく顔を上げ、扉を開けたのが薫だとわかると安堵と羞恥を顔に出して、すぐさま無言のままベッドに顔を埋め、芋虫のように身体を軽くくゆらせた。縄がぎしぎしと鳴っていた。部屋からさっきまで無かった臭いがしていた。
「おい、なんだ?この部屋は。随分精液くせぇじゃねぇか。あ?」
「……」
「なぁ……まさかこんなもんで勝手に射精でもしたんじゃねぇだろうな、見せてみろよ。」
壮一がベッドの上で何かを隠すように動こうとしないので、薫は「聞こえなかったか?あともう一時間ほど散歩してきてやってもいいんだぜ先輩……」と気味の悪い猫なで声を出し、壮一は答える代わりに震える身体を裏返すようにして転がり、腹を二条の前に晒した。
ベッドが湿って、勃起したままのペニスの先端が、壮一の羞恥する瞼の震えに合わせるようにひくついていた。薫が黙ったままでいると、きつく結ばれたままであった壮一の唇が、ゆっくりと弛緩し始めて、そこから、ハァハァハァハァと、息が次から次へと我慢していたものが溢れるように漏れ出ては、空気に霧散し、淫臭に混ざりあい、激しくなっていく。薫が側に屈みこむと呼吸が一層激しくなって、縄が鳴り、腰が、媚びるように揺れて、雄がぼろんぼろんと玩具のように跳ねていた。
薫は彼に一切触れようとせず、しばらく壮一の痴態を見ていたが、顔を覗き込み、髪を掴んで顔を近づけた。
ぁぁ……と蒸れた蜜のような甘い呼吸が薫の頬にかかり、髪を揺らした。その瞬間反射的に壮一の顔面を殴っていた。壮一の頭が薫と反対の方に向いて、手の中でがくがく震え、数呼吸の後、潤んだ瞳を持って戻ってきた。探る様な上目遣いの下瞼が、引くひくと動いて泣いているのか笑っているのか両方なのか、わからなかった。
「おい……変態さんよ……。臭ぇ息を俺に吹きかけるんじゃねぇよ……俺に、てめぇの超ド級の変態菌を移す気か?勘弁してくれよナ……。それにしても、気に入らねぇ態度だなァ……。そうやって、腰を揺らして媚びれば、興奮した俺が上にのっかって勝手に犯してくれるとでも思ってんのかよ?え?俺はお前のディルドじゃねぇんだぞ。どうして俺がてめぇみてぇなド変態に興奮すんだよ。ん?どういうつもりか言ってみな。」
唾の絡んだ乱れた呼吸が、壮一の喉から掠れ出て、それからごくり、と唾を飲み込む音がし、部屋はしんとした。薫はもう一度壮一の同じ場所を同じように殴って、のけ反った顔が返ってくるのを待った。さっきよりさらに紅潮し、視線の定まらない眼が返ってきた。
「しゃべれない……?ああ、そう。じゃあもうしゃべんなくていいよ。勝手にもう口を聞くなよ。言葉はもちろん、きったねぇ喘ぎ声をほんの少しでも出したら、そうだな……殺そう。そう、殺すんだよ……ッ!!あの時やれなかったことをお前にやる。お前が俺を”認めて”くれるってことは、そうされてもいいってことだろ?壮一……。」
薫は自身のベルトをするりと抜き取って、二三しならせるように振ってから床に投げ捨て、パンツまで降して性器を、壮一の顔面の目の前に突き出した。壮一の舌が、犬のようにゆっくりと唇の隙間から出てくるの見るやいなや、薫は勢い立ち上がって壮一の腹部を渾身の力で蹴り飛ばし、しなやかな肉に足先が突き刺さる感覚に薫の頭はぐわーん…‥と痺れた。衝撃でベッドの上を転がった壮一の身体は壁に勢いよくぶつかって、大きな音を立てた。が、声は出ない。壁の方を向いたまま、縛られた背面を薫の方に向けた身体が震えていたが、小さな呼吸音の他、何も聞こえない。薫は感心したように壮一を見下ろした。
「ほぉ、ちっとは俺の言うこと聞けるじゃねぇか。ただのえらそ馬鹿じゃないってわけだ。お前が俺が良いとも何も言ってないのに勝手に穢い口で俺の一物に触れようとしたことは許せねぇが、今の蹴りで少しの声も出さなかったことだけは褒めてやるよ。流石だな。これでも結構本気だったんだぜ、俺。おい、こっち向けよ。這って戻ってこい。すぐ。」
壮一がベッドの上の身体を這わせ、戻ってきたところにまた、薫は壮一の鼻先に自身のペニスを押し付け、彼の体温がみるみる上がっていくのペニスで感じた。壮一の口は閉じられたままの代わりに、鼻からの呼吸がすんすんと薫を擽った。マテと指示されている犬のように、壮一は上目づかって薫を見たり、目の前の雄を見上げたりしていた。
「ふーん、お前は誰にでもすぐにそうやって媚びた目つきをするんだな。冷めるな。」
壮一は真っ赤になった首を左右に振って懇願するように目を細め薫を見上げ、口を開きかけ命令を思い出して直ぐに閉じた。
「ふーん。違うって?へぇ~、俺の言うことを、お前は否定するんだ。お前が俺を否定できるんだ?認めると言ったくせに!」
壮一は絶望と快楽の顔を浮かべ、薫の前に深く項垂れた。その頭を薫は上から踏みつけて、味わい、そのまま自らの手で自らのペニスをしごき始めた。ペニスを勢いよくしごく振動が、薫の身体、脚越しに壮一の頭の上にぎしぎしと伝わってきて、ギシギシと縄を食い込ませた。足の裏でしか触れられていないのに、縄が薫を全身に感じさせる。
壮一の身体の下では、触れられないし、触れられもしない雄が一層膨らんでいた。
生暖かい物が、縛られ擦れ汗ばんだ背中の上によく染みた。
最初の見学以降、壮一がプロレス研究会の話を出すことは無かったし、薫が進んで門を叩くことも無かった。薫は興行を観に行くことを、断ることもできた。身体の関係で完結してもいいのだ。
とはいえ、壮一が強引な勧誘をしてこないことに怪しさを覚えていたが、自分が抱いた肉体が飛翔する姿をもう一度くらい見ても良いかと思ってしまっていた。なるほど、自分の一番良い姿を見せる為に敢えて今までこの男は沈黙を守っていたのだなと薫は直感した。喰えない男だ。
だから、壮一の誘いに乗ることは、彼の思惑にまんまと身を委ねることになるのだが、ここで拒絶して今すぐ関係性をバッタリと断ち切られることにも、悔しいことに微かな恐れを感じていた。壮一であれば「じゃあもう会わない。」とはっきり言うことは無いだろうが、別のやり方で薫から離れるか、興味を失ったふりをするか、そういう穢いやり方をする気がした。逡巡の末、薫は試合を見に行くことを約束した。
壮一は、やましげな顔で頷く薫を見ながら、ああ良かったと思った。それからいつも、行為の前でも後でも、彼に言いたい言葉が心の中にわだかまり、次会った時にはキチンと真面目にいろいろと話そう、行為以外のことも、知り合いたい、と思うのに、会うと直ぐに肉体関係を結ぶことや新しい性の方法を試すことを優先してしまう。言葉になりかけていたもの全てが、歪んだ性行為の中へと、津波が一度引いて強く岸に波を打つように、性の激しさに還元され霧散無消してしまう。溜めていた分の言葉が、肉の結びつきを強くする。
薫の、締め技に対する物覚えは早かった。格闘を習ってたとはいえ、指で軽くいい具合に頸動脈を抑えて、窒息させ、なおかつ気持ちよくさせるところまで、彼は簡単に習得した。今まで誰もついてこなかった領域にまで彼なら昇ってこれるに違いないと壮一は感じていた。自分の目に間違いはない。壮一は彼を育てたいと思った。自分の理想とする者に彼を育てたい。
週末の興行を見に来た薫を、闘いながらも、視線は併せずとも上からずっと眺めていた。そこだけが輝いて見えた。ヒール役の他校の学生を薫と思うと興奮した。
「SMに興味は無いか?」
興行の後、次に会った時、壮一は「プロレス研究会に入る気は無いか?いつものだけじゃなく、リングの上でもお前と闘ってみたい。だから、お前はヒールをやれよ。」と言うつもりが、呼び出しに答えて隣に座ってきた薫を前にして、欲望を口に出していて自分で笑ってしまった。
2人は珍しくホテルでもなく、壮一の住む学生寮でもなく、薫の下宿先のアパートでもなく、大学内のベンチに並んで腰かけていた。薫が黙っている間、壮一は鞄に潜ませていたロープをするすると蛇のようにとりだして、手元で弄びながら、どうしてこう、彼の前で剥き出しの欲望を出してしまい、うまく普通の会話ができないのだろうと歯がゆさを覚えた。
だからこそ、俺は彼を選んだのか?
薫は馬鹿にしたような目つきで壮一を横目で見た。
「開口一番何を言いだすかと思えば。せっかくこの前の試合の感想を用意して来たのに、そんなのには興味ないみたいだな。で、SMに興味があるかだと?ははは、あるわけねぇだろ……っ、そんな変態くせぇこと、全然興味ないね!!俺は!したいなら、革ハーネスでも付けて腰でもふって、年上の男でも捕まえればァ?」
壮一は、一体どの口が言ってるんだろう、興味津々の癖によォ……とムキになって否定する薫のことを内心せせら笑いながら続けた。
「無い?……あ、そ。本当に、今のままでいいのか?幸せか?」
薫は壮一がロープを弄ぶ手を眺めていた。それで、どうにかして欲しいのか?お前は俺を操ろうとするのか?
「今のままでいい……」
薫は早口にそう言った。口の中が異様に乾き始めていた。
薫の中で一つのブレーキが働いてた。アダルトコンテンツでは比較的暴力性の強い物を好む。SMも変態臭いと否定しながらいくらか観ていた。過激であればあるほど抜け、入っていける。しかし、その度、いつかまたある一線を越えて、自分で自分のことをコントロールできない領域にいってしまうことを畏れていた。
柔道を始めたのは、精神力の向上、肉体的にも強くありたかったからだが、成長が進むにつれ、主に第二次成長期にかけて、純粋な強さを求める闘いの中に、やましい怪しい欲望が薫の中に顔を見せ始めた。これはいいと思った相手と手を合わせ、戦いが難戦するほど、純粋な勝負以外の不純な欲望がもちあがり、気持ちのいい、清々しい殺意が芽生えた。気持ちのいい殺意。……したい。めちゃくちゃに。
欲望は誰にもバレてはいないし、バレてはいけない。時折薫は試合後に足早に皆の目につかないようにトイレに向かう癖がついていた。試合の事、その後の暴力の支配する空想世界の中で、手淫にふけり、手の中に出していた。その度トイレの壁に思い切り頭を打ち付けたい衝動に駆られた。あり得ない、こんなことあってはいけない!と思った。この自分が。元々読書は勉学に関する本以外興味が無かったが、性衝動や倒錯、犯罪に関する様々な文献を読み漁った。合意の無い相手に危害を加える可能性のあるサディズムは精神科の治療対象になると知った。そして確立された治療法がないことも理解した。科学的去勢、投薬による性欲減退、それくらいしかない。
高2の秋、柔道地方決勝で、ついに薫の衝動は一線を越えたのだった。ライバル校、何度か勝ち負けし顔も性格も良く知った相手との手合わせだった。彼と戦えることを愉しみにしていたのと同時に、前日にしっかりと抜いておいた。多少の気休めになる。組合を繰り返す内、彼の癖、彼の急所がさらけ出される瞬間が、ゆっくりとして、動画と言うより、まるでスナップ写真のように、ゆっくりと捉えられるようになっていた。彼の動きが手に取るようにわかる、ゾーンに入り始め、欲望がチラチラと顔を出す。途中から手加減をしていた。
「お前、何で本気で来ないんだ……手を抜いてるだろ……」
組合の途中彼に耳打ちされた。薫は、冷ややかな目で彼を見たまま黙っていた。
すべて、俺とお前の為なのだ。
「馬鹿にするなよ……死ぬ気で来い」
薫の黙っていることに、余計に馬鹿にされたと思ったのか、彼は激昂して、さらに素早い動きで挑みかかってきた。薫は素直に彼の雄姿に感動した。しかし、感動するほどに、まだゆっくりに見える。死ぬ気で来いと言うことは、自分も死んでもいいわけだ、ああ、だからもう手加減しなくても、良い、良いんだ……、と、理性より先に欲望がさっさとそう決めてしまっていた。
担架が、救急車のサイレンが、人だかりが、大声が、悲鳴が、全ては夢のようだった。彼は死ぬことは無かったが、激しい挫傷のため、腕の神経に若干の麻痺が残り、薫との闘いが実質彼の引退試合となった。誰もが、顧問もOBも後輩も家族も友人も薫を叱らず慰め、審判や運営に責を負わせた。
そういうこともあると、武道にはつきものであり、事故であると。当の彼さえも、薫を一切責めなかった。武闘をやる以上受け身をとれなかった自分に非があり、覚悟の上であったこと、謝罪などいらないと力なく笑い、ありがとうとさえ、言ってのけた。彼の家族まで彼と同じく、まるでふやけていた。全ては、余計に薫を窮地に追いやった。怒鳴りつけられる、面会拒絶、彼の家族や仲間からの報復による暴力を望んでいたのに。
誰でも良いから、この俺を責めてくれないか。事故ではないんだ、わざと、故意で、意志をもって、俺はやったんだ!叫び出したい、もう、誰かに言ってやろうかと思ったが、言えるわけが無く、言ったところで、彼を傷つけないための嘘を言っているととられるに違いない。薫は、学校でも部活でも、行儀よく、周囲からの信頼が厚く、腕っぷしの強さもあり、体育会系や不良からも一目置かれ、誰からの評価も良かったのである。せめて普段からわざとでも不良生徒としてふるまっておけばよかったとさえ思う。
はやく死ななければと思った。このまま生きていてもまた誰かを傷つけ、自分だけが罪業を背負っていくならまだいい、もし耐え切れず今回のような犯罪を犯し始めたら?それはもう自分だけの問題にとどまらない。試合を終えるとすぐに、ちょうど受験シーズンに突入した。薫は死の衝動を、自分に鞭打つように勉学に注ぎ込んだ。元々トップクラスの成績だったがどこの大学でも楽々受かるレベルにまでなっても勉強を続けていた。そうしていないと、また誰か手にかけるか、自分を手にかける。
「故意だろ?」
遠くの方から声がして、薫は追想の中から現実に戻ってきた。見慣れた瞳が直ぐ近くで薫を覗き込んでいた。
「なに?」
「お前の学生時代の柔道の試合の記録を全て見た。」
「……。そう、で?なにが故意、わざとだって?」
「事故で処理されてるが、故意だろ、”あの試合”……。決勝……お前、反則も糞も無く、とにかく、相手を半身不随にしても、殺しても良い、いや、殺したいという気でヤったろ。あれはそういう動きだからな……。……って言ってるんだよ。理解したか?薫君。」
壮一の声がまた遠くなっていって現実感が無くなっていった。世界が静まり返って、彼と自分だけになったような感覚に陥る。壮一の眼が目の前でゆっくり細まっていき、またいつもの妖しげな炎のような揺らぎを瞳の内側から放出し始めた。
「今の俺ならあの体勢からでも受身がとれた。とれる。そう、俺に対してだったらお前は、何も畏れることは無いんだよ。それから、相手方のことは知らないが、きっとお前のことを周囲の大人は揃いも揃ってお前をかばったんじゃないか。事故だってな。気にするなってな。まったく、鈍感で、なんて馬鹿な奴らなんだろうね大人って……。この世界で俺だけが認めてやる。あれは事故じゃない、お前が望み、したくて、やったことなんだと。お前が、自分の意思で、自分の欲望に正直になって、生きた、その証」
薫は勢いベンチから立ち上がって壮一に背を向けて走り出していた。背後から呼ぶ声を振り切って。
壮一はベンチからゆっくりと立ち上がり、一応薫の背に向かって叫んだが、別に追う気はなかった。一陣の風がふいて、汗ばんだ身体を優しく撫でていく。今追ったとて、今の薫はどこまでも逃げるだろうし、余計な刺激を与えることになる。刺激の与えすぎ、これでご破算、もう会うことも無くなってしまうかもしれない。しかし、もし、もう一度彼が自分の前に姿を現したらなら、もう二度と俺の前から逃げることは無いだろう。
薫に声をかける前から、彼のこの件について調べと当たりをつけていた。やはり思っていた通りだったというわけだ。嗚呼、なんて最高の男なのだろう。壮一は振り絞るようにして、声を出した。
「俺だけがお前を理解するんだ…‥‥っ、それがっ、どれほど心強いことか、孤独なお前にならわかるはずだ。」
8月も終わりに近づいても、その年の猛暑はおさまらなかった。
各地で10年来の最高気温を記録し、全国で熱中症による多数の死者が出た。
壮一はリングの上を舞いながら、あの日から、ただ一つの事を考え続けていた。あれから彼からの連絡はない。リングの上、寝技をかけてくる後輩の視線が外を向き、力が弱められた。熱気に包まれた室内の空気が揺らいでいることに気が付いた。
壮一は開け放たれた扉の向こうに頭を向けた。そして、緩んだ後輩の腕の中から抜け出て、駆けだしたいのを堪えてゆっくり立ち上がり、扉の側のロープの上へ腕をかけ顎をのせ、彼を見下ろした。
「やぁ……、待ってたよ……、随分遅かったじゃないか……」
太陽を背負って、肝心の彼の顔がよく見えない。壮一はリングのロープをくぐって彼の方へ静かに降り立ち、ゆっくりと獣を刺激しないように慎重に歩み寄っていった。壮一が近づいていっても彼は目を合わせようともせず、何も言わず立ったままでいて、視線は険しいまま地面の方を見ていた。薫の腕をとり、背後の後輩たちに目で練習を続けるように命じて、壮一は外に出た。
まだ蝉の声が五月蠅く、大学中で叫び声を上げる。自然と汗が流れる。
双方何も言わないまま、銀杏並木をいつかのように歩き続けた。
「やらない……」
薫の口から、絞り出したような初めて聞く震えた声が出ていって、最後の方は殆ど聞き取れなかった。
「やらないって、何を。」
薫の脚が止まり、ようやく正面から壮一を捕えた。壮一はその顔を見て、嗚呼、と熱くため息したいのを堪えて、リングの上に居た時と変わらない微笑を讃え続けた。性行為の後、薫は時々泣き出しそうな顔をすることがあった。行為中常に泣いているのは壮一の方だというのに、終わった後はまるで逆になるのだ。
「お前とはもう、」
薫のその後の言葉がいつまでたっても出てこない。壮一は助け舟を出す。
「何を?セックスか?いいよ、性交は双方合意があって成り立つことだ。飽きたならそれで。でも、そんなことをわざわざ俺に言うために律義に会いに来たの?1か月以上も空けて……?」
ふふふ、と壮一は笑いながら薫に腕を絡め、初めて肩を掴んだ時のように強く引き摺り下ろすようにぎゅうと締めあげた。薫は壮一の方を見ないまま、小さな声で言った。
「……危ないことは、もうやらない、やりたくない、」
「ふーん、もう、前みたく絞めてくれないのか?ゆる~くてだっる~くて、つっ……まらない惰性のしょーもねークソみてぇなセックスを続けるのか~?そんなら他に相手なんか」
薫は勢いよく顔を上げた。怒った顔をして、今度は強い、いつものような調子で壮一に食って掛かった。
「死に……、死に無暗に近づくようなことはやらないと言ってるんだ!いつものだって……、お前の変態性欲につきあってやってもいいが、限度があるだろ……。」
「だ、か、らァ、それなら心配いらないと言ったじゃないか。俺は受身のプロだぜ。いいか、薫。SMは戯れ、プロレスと同じだ。ルールを定めて行う限り、お互いの限界を越えることは無い。寧ろ普通の性行為より危険だと理解している分、情の歯止めを効かせようとお互いの理性がどこかで常に見張っているものさ。」
「……」
薫は、渋い顔をして黙っていた。壮一は、あと一押しだと思った。もう離さない絶対に。
「そうだ、久しぶりに俺の部屋に来いよ。嫌になったら帰っていい。”危ないこと”はやらないから。」
訪れた壮一の部屋は1か月前と全く変わりなく整然としていたが、相変わらず本が多い。理工学部の癖に、マゾヒスト的な空想癖の凄さは、この読書量から来るのだろうか。本当は文学部がよかったが、理系の成績の方が優れていたのと潰しが効くので理工学部に進むことにした、といつか彼が言っていた気がした。しかし彼との時間はほとんど行為に取られて、互いの知らないところは多い。
勉強机の上に教科書が開かれたままになって勉強の跡が見える。壮一はベッドの下を漁り始めた。下から本棚に並んでいないタイプの本が出てくる。そして、一緒に奇麗に整えられ結ばれた麻縄の束をばらばらと5つほど取り出した。本の表紙には『緊縛入門・初級編1』『緊縛入門・初級編2』『中級緊縛・寝緊縛から吊まで』『古典緊縛~江戸の緊縛法~』『上級者向け緊縛極意』とあるのが見える。
「なんだそれ。」
薫はわかっていて敢えて聞いた。壮一は薫を使って己を緊縛をさせたいのだ。薫は頭の奥の方から危険信号が光り始め、凄まじいサイレン音を出すのを聞いた。この1か月間ずっとサイレンが鳴っては鳴りを潜め、また鳴ってを繰り返し、薫を苦しめた。他の人間の上にのしかかりながら、壮一の身体の、その太く青い血管の浮いた首筋のことを考え続けながら腰を振り、察しの良い相手からは「最低!」と平手さえされたのであった。縄をほぐしながら壮一はさわやかな笑顔で二条を振り向き見上げた。
「初級ならば、お前なら本を見ながらでもある程度習得できるし、怪我の心配も無い。俺も自分の脚を使って仕組みを理解できたくらいだ。初級をいくらかやってみて面白いとお前が思ったなら、本格的に外へ習いに行こう。その方が危険も無い。そういうのを仕事にしてる人間、プロに習うべきだ。それならお前の望む安全第一でできるだろ。いつでも俺が受け手としてつきあってやるから。モデルに困ることも無いしな。ふふふ……。」
本を広げ、壮一は一糸まとわぬ姿になった。薫は脱がないままでいた。
裸の壮一の肉体の上に緊縛の初歩である後手縛りを、壮一の縛られながらの口頭指導と本を見ながら見よう見真似でなんとか完成させることができた。左右対称に結び目が壮一の汗ばんだ背中の上で突っ張って、食い込んで縫い留め、ぎぎぎ、と、音を鳴らしていた。壮一は目で見てわかる程に、悦んで戯れるように縛られた身体を縄抜けしようとするが、後ろに回された腕を動かす余地は全く無いようで、ベッドの上で転がされたまま、傍らに仁王立ちする薫を見上げた。
「へぇ、な、なんだ…‥はじめてにしては……よくできてるじゃないか……」
壮一の声の中に最初の頃の、あの焦燥の混じった声を聞いた時、薫の中で鳴りを潜めていた火花がまた小さく音を立て始めた。壮一は隠すようにして転がってうつ伏せになった、もう既に雄の昂ぶりの気配があるのを感じたのだったが、薫に悟られるのは恥ずかしかった。
「SMなんて変態臭いとか言ってたくせして、本当はもう他の男を縛りまくってたんじゃないのか?」
壮一が自分の焦燥を掻き消すようにしかし興奮を隠せず顔を紅くした。それを薫は冷めた目で眺めていたが、ふいに視線を逸らした。
「帰る。」
「えっ」
壮一の元に戻ってきた瞳の中に、冷めた感じの他に、嗜虐的なゆらぎが漂い始めているのを壮一は見た。
薫の口元に、壮一に再会して初めて微かな微笑みが立ち昇っていた。
「”嫌になったら帰っていい”、さっき、てめぇが自分の口で俺に対して偉そうに言い腐ったんだろう。忘れたか?俺はお前のその、人を見下した態度がつくづく嫌になったね。ああ、俺はお前の部屋の鍵を貰ってないからな、閉めないで帰るぜ。そうだ……、ついでだからよ、後輩君たちに声かけておいてやろうか、部長が呼んでましたよってよォ。急に部長にいなくなられてアイツらも困ってるだろうしなァ!」
薫は壮一に背を向けてさっさとドアの方に向かい「待」と言う声を聞きながら扉を勢いよく閉めた。
ドアの向こうから小さく官能的な悲鳴が聞こえていた。足音を大きく、廊下を歩き去っていく音を立ててから忍び足で再びドアの方に戻り耳をそばだてるとさっきよりさらに鳴いていた。しばらく声を聞いてから、薫はまた足音を忍ばせて、部屋の前から去った。
1時間かそこら、辺りを散歩してから壮一の部屋に戻ると、彼は勢いよく顔を上げ、扉を開けたのが薫だとわかると安堵と羞恥を顔に出して、すぐさま無言のままベッドに顔を埋め、芋虫のように身体を軽くくゆらせた。縄がぎしぎしと鳴っていた。部屋からさっきまで無かった臭いがしていた。
「おい、なんだ?この部屋は。随分精液くせぇじゃねぇか。あ?」
「……」
「なぁ……まさかこんなもんで勝手に射精でもしたんじゃねぇだろうな、見せてみろよ。」
壮一がベッドの上で何かを隠すように動こうとしないので、薫は「聞こえなかったか?あともう一時間ほど散歩してきてやってもいいんだぜ先輩……」と気味の悪い猫なで声を出し、壮一は答える代わりに震える身体を裏返すようにして転がり、腹を二条の前に晒した。
ベッドが湿って、勃起したままのペニスの先端が、壮一の羞恥する瞼の震えに合わせるようにひくついていた。薫が黙ったままでいると、きつく結ばれたままであった壮一の唇が、ゆっくりと弛緩し始めて、そこから、ハァハァハァハァと、息が次から次へと我慢していたものが溢れるように漏れ出ては、空気に霧散し、淫臭に混ざりあい、激しくなっていく。薫が側に屈みこむと呼吸が一層激しくなって、縄が鳴り、腰が、媚びるように揺れて、雄がぼろんぼろんと玩具のように跳ねていた。
薫は彼に一切触れようとせず、しばらく壮一の痴態を見ていたが、顔を覗き込み、髪を掴んで顔を近づけた。
ぁぁ……と蒸れた蜜のような甘い呼吸が薫の頬にかかり、髪を揺らした。その瞬間反射的に壮一の顔面を殴っていた。壮一の頭が薫と反対の方に向いて、手の中でがくがく震え、数呼吸の後、潤んだ瞳を持って戻ってきた。探る様な上目遣いの下瞼が、引くひくと動いて泣いているのか笑っているのか両方なのか、わからなかった。
「おい……変態さんよ……。臭ぇ息を俺に吹きかけるんじゃねぇよ……俺に、てめぇの超ド級の変態菌を移す気か?勘弁してくれよナ……。それにしても、気に入らねぇ態度だなァ……。そうやって、腰を揺らして媚びれば、興奮した俺が上にのっかって勝手に犯してくれるとでも思ってんのかよ?え?俺はお前のディルドじゃねぇんだぞ。どうして俺がてめぇみてぇなド変態に興奮すんだよ。ん?どういうつもりか言ってみな。」
唾の絡んだ乱れた呼吸が、壮一の喉から掠れ出て、それからごくり、と唾を飲み込む音がし、部屋はしんとした。薫はもう一度壮一の同じ場所を同じように殴って、のけ反った顔が返ってくるのを待った。さっきよりさらに紅潮し、視線の定まらない眼が返ってきた。
「しゃべれない……?ああ、そう。じゃあもうしゃべんなくていいよ。勝手にもう口を聞くなよ。言葉はもちろん、きったねぇ喘ぎ声をほんの少しでも出したら、そうだな……殺そう。そう、殺すんだよ……ッ!!あの時やれなかったことをお前にやる。お前が俺を”認めて”くれるってことは、そうされてもいいってことだろ?壮一……。」
薫は自身のベルトをするりと抜き取って、二三しならせるように振ってから床に投げ捨て、パンツまで降して性器を、壮一の顔面の目の前に突き出した。壮一の舌が、犬のようにゆっくりと唇の隙間から出てくるの見るやいなや、薫は勢い立ち上がって壮一の腹部を渾身の力で蹴り飛ばし、しなやかな肉に足先が突き刺さる感覚に薫の頭はぐわーん…‥と痺れた。衝撃でベッドの上を転がった壮一の身体は壁に勢いよくぶつかって、大きな音を立てた。が、声は出ない。壁の方を向いたまま、縛られた背面を薫の方に向けた身体が震えていたが、小さな呼吸音の他、何も聞こえない。薫は感心したように壮一を見下ろした。
「ほぉ、ちっとは俺の言うこと聞けるじゃねぇか。ただのえらそ馬鹿じゃないってわけだ。お前が俺が良いとも何も言ってないのに勝手に穢い口で俺の一物に触れようとしたことは許せねぇが、今の蹴りで少しの声も出さなかったことだけは褒めてやるよ。流石だな。これでも結構本気だったんだぜ、俺。おい、こっち向けよ。這って戻ってこい。すぐ。」
壮一がベッドの上の身体を這わせ、戻ってきたところにまた、薫は壮一の鼻先に自身のペニスを押し付け、彼の体温がみるみる上がっていくのペニスで感じた。壮一の口は閉じられたままの代わりに、鼻からの呼吸がすんすんと薫を擽った。マテと指示されている犬のように、壮一は上目づかって薫を見たり、目の前の雄を見上げたりしていた。
「ふーん、お前は誰にでもすぐにそうやって媚びた目つきをするんだな。冷めるな。」
壮一は真っ赤になった首を左右に振って懇願するように目を細め薫を見上げ、口を開きかけ命令を思い出して直ぐに閉じた。
「ふーん。違うって?へぇ~、俺の言うことを、お前は否定するんだ。お前が俺を否定できるんだ?認めると言ったくせに!」
壮一は絶望と快楽の顔を浮かべ、薫の前に深く項垂れた。その頭を薫は上から踏みつけて、味わい、そのまま自らの手で自らのペニスをしごき始めた。ペニスを勢いよくしごく振動が、薫の身体、脚越しに壮一の頭の上にぎしぎしと伝わってきて、ギシギシと縄を食い込ませた。足の裏でしか触れられていないのに、縄が薫を全身に感じさせる。
壮一の身体の下では、触れられないし、触れられもしない雄が一層膨らんでいた。
生暖かい物が、縛られ擦れ汗ばんだ背中の上によく染みた。
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