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第七章

異世界で遭難しました 3

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 ここに来て、唸り声の正体を知ることになった。

 次に闇の向こうから現われたのは、2メートルほどの体躯を持つ、黒いたてがみの狼型の獣だった。
 長く鋭い牙を剥き出しにして、こちらを威嚇してきている。

 じりじりとすり足で寄ってきているのは、いつでも襲いかかれるようにとの予備動作だろう。
 見るからに獰猛で、殺意に肌がぴりぴりする。
 あんな牙で咬まれでもしたら、致命傷は避けられないだろう。

 だが、今。
 最大の問題は、その程度のモノではなかった。
 黒い狼の向こう側――その背後に佇む、笑えるほどに巨大な影。
 狼の頭の位置を遥かに超えて、一対の無機質な眼がこちらに向いていた。

 ソレはただ踏み出した前足の1歩で、狼の巨躯をあっさりと踏み潰した。

 頭頂部の高さだけで、5メートル以上ありそうだ。
 体長は10メートル? 20メートル? 考えるだけでも馬鹿らしい。
 尖ったごつごつの岩石のような甲羅。ささくれ立った体表。
 ずんぐりむっくりの体型は、トカゲというより亀に近い。いつか動画サイトで見たことがあるワニガメを思わせた。
 もっともワニガメは体長1メートルほどらしいので、20倍のサイズなど比較にもならないが。

 地竜。この『竜の谷』の主。別名は地のドラゴン。

 当然のことだが、真正面から向き合ったのは初めてだった。
 いや、これは向き合ったなどと対等なものではなく、相手にとっては被食者を見据える捕食者の目線でしかないだろう。
 先ほどの獣のように威嚇はなく、殺意も敵意すら感じられない。ひたすら無機質で、純然たる天敵。

 半開きの口から、生臭い息が漏れている。
 空想ではなく、今まさに生きている竜がそこにいる。

 足が竦む。視線が外せない。恐怖で身動きできない。
 蛇に睨まれた蛙などの表現は一般論として聞いたことはあったが、自ら体験することになるとは思わなかった。

 地竜の前足がのっそりと持ち上げられる。
 足の裏には、まだ獣の死骸がへばりついたままだった。

 このままじっとしていれば、程なくして自分もああなるだろう。

(それは――嫌だ!)

 一度我に返ると、意外にも身体は素直に反応してくれた。

 巨大な体躯で前方も左右も塞がれているだけに、後ろにしか逃げ場がない。
 俺は背後の壁際まで一目散に駆けて、壁を背にして振り向く。

 地竜の行動は遅いが、それはあくまでその巨大さだけに対比的に遅く見えるだけで、実際にはこちらの10歩はあちらの1歩にも満たない。
 つまり、こちらが10倍のピッチで動いて、どうにか互角の速度といった有様だ。
 それだけの絶対的な体格差がある。

(このままじゃあ、追い詰められて終わりだ!)

 覚悟は決まった。

 現状で最大の攻撃力を持つ炎のレイピアで、倒すまでには至らないにしろ気を逸らす。
 例の崩落跡まで、さほど距離はない。
 左右も後ろも駄目なら、ここから一気に上に跳んで離脱するしかないだろう。

 俺はありったけの念を込めて、炎のレイピアを出現させた。
 温存などは考えない。魔法石に蓄えられた魔力をどれだけ消費しようとも、この一撃に賭けるしかない。

 高熱の蒼い炎が凝縮し、一振りの刃と化した。

「いっけぇぇ!」

 狙いは前足の付け根、身体の構造として比較的表皮が柔らかいはずの場所だ。
 突進した勢いに体重を上乗せし、渾身の力でレイピアを突き立てる。

 ――しかし。

 刃先がわずかに皮膚に沈んだだけで、岩石のごとき表皮の貫通はおろか、血の1滴分の傷さえも与えるには及ばなかった。

 唖然とする暇も許されず、地竜の大きな口が開いた。
 噛みつくにしてはさすがに距離が届かないだろう。だとしたら?

 唐突に思い至った。
 相手は地竜、すなわちドラゴン。ドラゴンといえば――

(当然、あれがあるはずじゃないか!)

 口の中に、圧縮された空気が渦を巻く。

「ゴアアアアアア――!」

 地竜が吼えた。

 実際には声ではなく空気の摩擦音だったのかもしれない。
 地竜の口から吐きだされたブレスが襲いかかってきた。

 高密度の圧縮空気が、岩石の破片を伴なって降り注ぐ。
 まるで岩石のショットガンだ。
 ただし、ひとつひとつの弾が砲弾に等しい。

 いち早くブレス攻撃を察せたのは僥倖だった。
 俺はほとんど無意識に『風精の舞靴』でジャンプしており、奇跡的にブレスの効果範囲から逃れていた。

 先ほどまで立っていた場所の岩壁が、大型の削岩機でも使ったようにごっそりと抉り取られている。
 あの威力の前では、生身なんて骨も残らないだろう。

 九死に一生は得たものの、危機を脱したわけではない。
 束の間の安堵すら許されず、今度は重量に従って落下するところを再度のブレスが狙っていた。
 このタイミングでは、もはや避けようがない。

 地竜が口を開けた、その瞬間――

 びしりっ。

 嫌な音が響いて、地竜の足元に亀裂が走った。
 ブレスによる岩壁の損壊跡から、放射線状に亀裂が延びる。

 亀裂は地響きと共にどんどん範囲を広げ、ついには地竜の全身を呑み尽くすほどに広がった。

 そして、決定的な破壊音。
 地竜の巨体が地面に沈んだ。大規模な崩落である。

「うあああああ――!?」

 こっちも着地すべき地面がなくなり、崩落に巻き込まれた。

 連続して崩壊する壁や床が、当然ながら落下途中の俺のほうにまで降ってくる。
 しかし、運よくというか――どこか不自然な軌道を描いて、岩石が避けていったように見えた。

 先に落下した地竜が、炸裂音と共に仰向けに下層に叩きつけられる。

 遅れて落下した俺はというと、柔らかい地竜の腹部分に落ちたため、大した衝撃を受けなかった。

 とはいえ、頭上を見上げると、30メートルほどは落下したように見える。
 いくら地竜がクッション代わりになったといっても、この程度で済むとは思えない。
 着地の瞬間、わずかに浮遊感を覚えたのは気のせいだろうか……

 疑問は残るものの、そう悠長にしている時間もない。
 急いで地竜から降りて、現状を確認することにした。

 さしもの地竜も、完全に気を失っている様子だった。
 この重量と落下速度で叩きつけられて、生きているのはまさに驚愕の生命体である。

 とりあえず、今のうちに安全圏まで距離を取ることにした。

 手頃な岩陰に身を潜めて、ようやく息を吐くことができた。
 なんとか生きた。生き延びられた。
 喜びよりも安堵が込み上げる。

 次にポケットのスマホを確認した。
 ずいぶん派手に動いたので心配したが、スマホも持ち主同様悪運強く、どうにか無事だったらしい。

 そのとき初めて、スマホにメッセージが届いていたことに気がついた。
 バッテリーの温存と敵からの察知防止のため、着信音もバイブも切っていたので気づけなかった。

 相手は妹の春香で、メッセージのタイムスタンプは2時間も前になっていた。

 妹『ぶじなの』 12:35

「無事なの?ね……ははっ」

 簡潔な一言。
 漢字変換も疑問符も使わないのは、春香がメッセージを打つときの特徴だ。
 なんでも、余計な操作が増えるのが面倒臭いそうだ。ものぐさな妹らしい。

 なにか、日常を感じてほっとした。
 ずいぶん久しぶりに笑った気がした。

 『なんとかね』 14:43

 妹『よかった』 14:43

 短い文で返信すると、前回のメッセージから2時間も経過していたというのに、即座に返事がきた。

 妹『みせばんさせたまま わすれてたこと ゆるしてないから』 14:44

「……?」

 妹『かえってきてから もんくいう』 14:44

「……!」

 最後の一文に、不意に胸に熱いものが込み上げて――俺は声を殺して、少しだけ泣いた。
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