思い出の日記

福子

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⋆꒰ঌ┈ 8月1日:再会 ┈໒꒱⋆*

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「クロ、おはよう。」

 僕はいつもの窓で、クロに挨拶をした。

「おう。」

 最近は、シャイなクロも挨拶してくれるようになった。クロの中で何かが変わりつつあるのかもしれない。

「ねえ、クロ。今日から八月だね。」

 理由はないけれど、毎年八月になるとワクワクする。

「八月?」

 クロは、ちょっと不思議そうに首を傾げた。

「人間は、どうして暦なんかを作るんだ? 春夏秋冬。これだけあれば充分だと思うんだが。」

 僕は、壁にかかっているカレンダーを見た。
 確かに、僕らには日付けなど必要ない。クロのいう通り、春夏秋冬、季節だけあればいい。
 それなら、どうして人間は、こんなものを作ったのだろう。
 カレンダーだけじゃない。人間は、地図も作っている。それだって、僕らには必要ない。
 他にもある。カタガキ、とかいうものだ。
 地図は、あったら便利だと思う。僕たちだって迷子になることはあるから、そのときにはすごく役に立つと思う。
 カレンダーだって、季節と日付のルールを知れば、渡り鳥さんたちにとっては便利かもしれない。
 だけど、肩書、というものだけは、どんなことに必要なのか、どうしてそんなものがあるのか、理解できなかった。

 考えを巡らせているうちに、僕の中に、ある仮説がフッと浮かんだ。

「もしかして……、」

 僕は、視線をカレンダーからクロに戻して続けた。

「ねえ、クロ。もしかしたら、そういうものがないと不安なのかもしれないよ。」

「不安?」

「そう。自分は何者なのか。今日はいつなのか。ここはどこなのか。そういうものをいつも確認していないと、自分の存在が分からなくなってしまうんじゃないかな。人間は、もしかしたら、そんな儚い生き物なんじゃないかな。」

「……なるほどな。」

 クロの目は、僕の目を通して人間を見ていた。
 憐れんでいるのか、それとも……。

「人間という生き物は、『ここに存在する』という事実だけではダメなんだろう。存在していることを確かめないと自分を保っていられないんだな、きっと。」

 クロは、ほんの少し目を閉じると、そっと目を開け、青空を見上げた。

「……弱い、生きものなんだな。」

 確かに、そうかもしれない。
 僕は、風の流れを身体で感じながら、クロと心を合わせた。『中と外』、違う世界で生きているけれど、僕らは一心同体だ。心を合わせればそれを感じられる。

「おい。」

 いつものように自分の世界に浸っていると、クロが僕を現実に呼び戻した。

「猫だ。」

 僕は、クロの視線を追って道路の向こう側に目を向けた。
 見覚えのある猫だ。どうやら、向こうも僕に気づいたようで、まっすぐ走って来た。

「あら、あのときの坊や。」

「誰だ。」

 クロは、その猫をじっと見てぶっきらぼうに言った。

「ああ、彼女はロシアンブルーのユズ。この前、ちょっと知り合いになったの。」

「猫嫌いのお前が、猫と知り合い?」

「クロだって、猫じゃないか。」

「まあ、そうだが。」

 僕は、驚いているクロに、ユズとの出会いを話した。

「なるほどね。」

 僕の話が終わると、ようやくクロはユズから目を離した。

「ねえ、坊や。この子は?」

 今度は、ユズが僕にたずねた。

「彼は、クロ。野良のクロ。僕の友だち。」

 ユズはにっこり笑って、よろしく、とクロに声をかけた。
 クロは、ユズを眩しそうに見ると、おう、と短く答えた。

「それにしても、ユズ。どうしてここに?」

「ちょっとね。」

 ユズの視線は、保健所に向けられている。

「……ねえ、聞いてもいいかしら。あの建物、『いらない』犬や猫の命を奪う場所だって聞いたけど、本当なの?」

 ユズは僕らを見ない。まっすぐ保健所を見ている。

「ああ、そうだ。」

 クロが、言い放った。
 冷たく、抑揚のない声からは、クロの心を感じ取ることはできなかった。

「クロ! 何も、そんなハッキリ言わなくてもいいじゃないか。」

「それが現実だ。」

 固く目を閉じ、苦しそうな表情でクロが言う。
 冷静な声で心の痛みを隠しているのに、僕は気づいた。
 僕は、いたたまれなくなって空を見上げた。

「いいのよ、坊や。」

 澄んだ声が聞こえ、僕は顔を戻した。ユズは僕をまっすぐ見ていた。

「現実だもの、仕方ないわ。むしろ、ハッキリ言ってもらえてよかった。でも、諦めきれないから、何とか助ける方法を探すわ。」

「無理だ。」

 クロは、突き刺さるような金色の瞳をユズに向けた。

「わかっているわ。承知の上よ。」

 クロの目に臆することなく、キッパリと切り返すユズの目は、クロとは違う強さを持っている。
 この強さは、どこから来るのだろう。

「僕も助けるのは無理だと思う。でも、どうしてそんな無理をしてまで?」

 ユズは、クロに向けていたのと同じ目を僕に向けた。

「お腹を痛めて命がけで産んだ、私の子どもたちだからよ。それが、唯一の理由。」

 ユズの目の色が悲しみの色に変わった。

「隣の猫だったの。普通の家庭の、普通の猫。血統書はないけれど、かなり珍しい三毛猫の男の子よ。私たち、本当に愛し合っていたんだけど、お母様は彼とのお付き合いを反対していたの。血統書付きのロシアンブルーを探すんだって、そう言っていたわ。私のわがままで子どもができて、お母様は大激怒。そして、お隣さんと大喧嘩。お隣さん、それが原因で引っ越しちゃった。それ以来、彼とは一度も会ってないわ。」

「だからどうしても、育てたかったんだな。」

「たしかに思い入れは強いけれど、それが無理をする理由ではないわ。お腹を痛めて産んだ子どもたちに、順位なんてないのよ。父親が誰であっても同じよ。」

 僕とクロは、立ち上がり保健所に向かって歩き出したユズの、凛とした後姿を無言で見送るしかなかった。


*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*


 鴉は、ぐっと首を伸ばして保健所を見ていた。鳶は、かつてクロが座っていた場所を見つめていた。

「子どもたち、見つかったのかな。」

 鳶がぽつりと言った。
 私は、あえてそれには答えなかった。

「オレら、生きてるんだよな。」

 鴉がぽつりと言った。
 私はその言葉にも、あえて答えなかった。

「『オモチャ』じゃないんだよな。」

 鴉の声は、虚ろだった。

「『オモチャ』じゃないよ。」

 鳶が答えた。

「生きてるんだ。ボクらも、人間も。」

 私は、鳶の優しい声を聞きながら、道路の向こう側を眺めて、ユズを想った。

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