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8月3日:黒い老犬、レトリーバー
しおりを挟むレディが連れて行かれたと聞いて、僕は震えが止まらなかった。
――クロだって、いつどうなるかわからないんだ。
僕は、クロとの時間が永遠に続くものだと勝手に思っていた。だから、いなくなるなんて考えられなかった。
――ううん、そうじゃない。『考えられない』んじゃなくて『考えたくない』んだ。
昨夜は大雨だった。クロはどうしているだろうか。大丈夫なのだろうか。
いつもの窓を見上げると、雲一つない、美しい青空だった。
「遅いぞ。」
声が聞こえ、僕は慌てて窓に飛び乗った。
「クロ!」
嬉しくて嬉しくて、胸が踊った。
クロが、ここにいる。
ただそれだけが、嬉しかった。
「お、おはよう。」
「……おう。」
昨日の今日で、どんな顔をしていいのか分からない。慰めたって、レディは帰ってこないのだ。だから、いつも通りにするのがいい。そう思って、『いつも通り』に挨拶したつもりだけど、どうしても不自然でぎこちない。
何を話していいのかも分からないまま、気まずい沈黙だけが流れた。
「……大丈夫だ、心配するな。」
クロは柔らかな口調で言うと足早に帰ってしまった。
「大丈夫じゃ、ないじゃないか。」
必死に悲しみをこらえるクロの背中を見つめ、不安に揺れる背中につぶやいた。
僕はいつものお昼寝をしないで、お姉ちゃんの部屋からはっきりと見える『保健所』をにらみつけた。
「あの建物に、レディがいる。」
そういえば、今日と明日、お姉ちゃんは学校が休みだと言っていた。
僕は、決心した。
「……よし。お姉ちゃんに連れて行ってもらおう。」
人間に僕の言葉は伝わらないから、言っても駄目なのは知っている。だから僕は、全身を使ってお姉ちゃんに訴えた。
第一段階。とにかく鳴く。
第二段階。人間のように二本足で立ち上がって、お姉ちゃんの太ももに手をかけ甘える。
お姉ちゃんは、僕が甘えると弱いのだ。
第三段階。お姉ちゃんの後をついて歩く。
「健太、どうしたの?」
ほら、大成功。
第四段階。玄関に行って戸をカリカリ引っかき、第一段階の時より少し高い声で鳴く。
「外に行きたいのかな?」
僕は、心の中でガッツポーズをした。
さすがお姉ちゃん! 単純!
お姉ちゃんが僕を抱っこして外に出ると、いよいよ最終段階。僕はじっと保健所を見た。
「そっち? そっちは、保健所だよ? 健太の嫌いな犬や猫がたくさんいる所だよ?」
何を言われても、決して目をそらさない。
これが、僕の心をお姉ちゃんに伝えるために編み出した作戦なのだ。
「仕方ないなあ。」
お姉ちゃんは、僕を見た。
「私も興味あるし、行ってみようか。」
思った通りだ。僕は前から、お姉ちゃんは保健所に興味があるんじゃないかと思っていたのだ。
お姉ちゃんは、誰もいない保健所に足を踏み入れた。僕を抱いている腕が少し震えていて、心臓が激しくドクドク鳴っていた。
「犬の声が聞こえる。」
遠くに犬たちの声が聞こえると、お姉ちゃんは、まっすぐ奥を見た。さっきまでのおどおどした姿とは違い、力強い目をしている。
「健太、行ってみよう。」
僕らは建物をぐるりとまわり、犬たちの声が聞こえてくる場所を探した。
ふと、ある場所でお姉ちゃんは歩みを止め、建物の窓をじっと見つめた。
「ねえ、健太、見える?」
窓から中をのぞくと、たくさんの犬の姿が見えた。
「この子たちはね、新しい家族が見つからないと、殺されちゃうんだよ。」
お姉ちゃんの声は、悲しみに震えていた。
「……ひどいよね。」
――人間たちが、用済みになった飼い猫や飼い犬を捨てる『ゴミ箱』さ。
あの日の、クロの言葉が頭をよぎる。
僕は今、それを目の当たりにしているんだ。
逃げ出してしまいたい。
僕ひとりの命と、ここにいる、たくさんの犬たちの命。
僕に、そんな価値があるのだろうか。
申し訳ない思いと、それに抗うように胸の奥から押し上げてくる生きたい思い。
僕は、息苦しさと吐き気に襲われた。
ダメだ。今は、レディを探さないと……。
首をブンブン振って気持ちを切り替えると、たくさんの犬たちの中にレディの姿を探した。
すると今度は、お姉ちゃんとは違う声が聞こえてきた。
「飼い猫がいるわ。」
「人間と一緒だ。」
「おい、飼い猫! お前だって、いつここに来るかわからないんだぞ!」
「人間なんてな、すぐに裏切るんだ!」
聞こえてきたのは、中の犬たちの、そうせずにはいられない、悲しい叫びだった。
悪口雑言の合間には、消えてしまいそうな声が風に運ばれてくる。
「ご主人さま……。ぼく、いい子になるから……。」
「どうして、わたしを置いていってしまったの……?」
「会いたいよぉ……。会いたいよぉ……。」
――僕の家族は、僕を用済みになんかしない! するもんか!
あの日、僕はクロにそう言った。
もちろん、その気持ちは今でも変わっていないけれど、中の犬たちを前にして、その言葉を言うことはできなかった。
「やめねえか!」
突然、しわがれ声が響いた。
騒がしかった犬たちを一瞬にして黙らせる、圧倒的な力を持った声だった。僕は、声の主を探した。
「何も分からねえ、猫の坊主を怖がらせてどうするんだ。おびえてんじゃねえか!」
奥から、大きくて真っ黒の犬が姿を現し、ちょうど、僕と向かい合う位置で止まり、腰を下ろした。
「ラブラドール・レトリーバーだよ。おじいちゃんみたいだけど、すごくかっこいい。」
黒い犬を見ながら、お姉ちゃんがポツリと言った。
お姉ちゃんの言う通り、これまで歩んできた歴史をその背中に見えるような、かっこよさがあった。
「坊主。見ての通り、お前のような猫の来るところじゃあねえ。いったいここに何をしに来た。」
レトリーバーが僕にたずねた。
「レディっていう犬を探しに来たの。声の出ない犬なんだけど……、知らない?」
「声の出ない犬……? つまりそれは、吠えることができない犬、なんだな?」
「……うん、そうなんだ。白くてふわふわの女の子。」
僕とレトリーバーのやり取りを聞いていて、他の犬たちた顔を見合わせた。
「さあ、知らないわ。」
「ボクも見てない。」
「白くてふわふわの女の子は、ここにはいないよね。」
犬たちの言葉を聞いて、レトリーバーは、再び僕を見た。
「悪いが、俺も見てねえ。その声の出ない犬ってのは、坊主の友だちか?」
僕は首を横に振り、答えた。
「友だちの、友だち。」
レディはいなかった……。
身体中の力が抜けた。クロの助けになることができなかった。
でも、じゃあ、レディはどこにいったの……? どうして、いないの……?
「おう、坊主。」
レトリーバーの声が聞こえた。僕は、考えるのをやめて、レトリーバーを見た。
「知っての通り、俺らは、いつあの世に逝くかわからねえ。でもな、坊主、お前は生きろ。その姉ちゃんに大事にしてもらえ。そんで人間の愛情を、いっぱい、いっぱい感じるんだ。わかったか?」
僕は、遺言のような言葉に、胸が痛んだ。
「俺の親父は、去年逝っちまった。爺さんだったからよ、寿命ってぇやつだ。俺は、親父さんが大好きだった。ずっと一緒にいたかった。だから親父さんが死んだあとも、親父さんとの思い出が残るあの家で、独りで暮らしていたんだ。俺だって『いい歳』だからよ、もう長くはねえんだ。親父さんが残した食い物でのんびりしてりゃ、そのうち『あの世』から迎えが来るだろう。それでいいと思っていた。だがある日、突然人間がやってきって、俺をここに連れてきた。」
僕は、彼の目を見た。
「だがな、坊主。ここの人間を恨むな。ここの人間は、こんな俺らに優しくしてくれるんだ。今言った通り俺は違うが、ここにいる動物たちの多くは、人間たちが勝手に飼って勝手に棄てた命たちだ。ここの人たちはな、俺たちみたいな命を増やさねえように、精一杯やってくれているんだ。だから、そんな悲しい目をするな。」
――またな、坊主。
レトリーバーは、確かにそう言って僕に背を向けた。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
「黒いレトリーバー……。」
まるで人差し指を唇に当てるかのように、美しい褐色の翼の先を嘴に当てて、鳶が言った。
「何かのキーワードみたいだね。」
名探偵のような口調と顔で言う鳶を、鴉は、どうしようもねえなとため息をつきながら横目で見ている。
私は、ふたりを見て微笑んだ。
「キーワードだよ。」
「えっ、そうなのか?」
鴉は驚いて、鳶と私を交互に見た。
鳶は、やったーと喜んでいる。
「本当さ。保健所とレトリーバーは、キーワードなんだ。」
私は、青空に浮かぶ雲に言葉を乗せた。
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