思い出の日記

福子

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*⋆꒰ঌ┈ 8月3日:黒い老犬、レトリーバー ┈໒꒱⋆*

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 レディが連れて行かれたと聞いて、僕は震えが止まらなかった。

 ――クロだって、いつどうなるかわからないんだ。

 僕は、クロとの時間が永遠に続くものだと勝手に思っていた。だから、いなくなるなんて考えられなかった。

 いや、違う。『考えられない』のではない。『考えたくない』のだ。

 昨夜は大雨だった。クロはどうしているだろうか。大丈夫なのだろうか。

 いつもの窓を見上げると、雲一つない、美しい青空だった。

「遅いぞ。」

 声が聞こえ、僕は慌てて窓に飛び乗った。

「クロ!」

 嬉しくて嬉しくて、胸が踊った。

 クロが、ここにいる。

 ただそれだけが、嬉しかった。

「おはよう。」

 ぎこちない挨拶。

「おう。」

 いつものぶっきらぼうな挨拶。僕は、本当にそれだけが嬉しかった。

「大丈夫だ、心配するな。」

 クロは柔らかな口調で言うと足早に帰ってしまった。

「大丈夫じゃ、ないじゃないか。」

 僕は、必死に悲しみをこらえるクロの背中を見つめ、不安に揺れる背中につぶやいた。


 僕は、お姉ちゃんの部屋からはっきりと見える『保健所』をにらみつけた。

「あの建物に、レディがいる。」

 僕は、決心した。

「……よし。お姉ちゃんに連れて行ってもらおう。」

 人間に僕の言葉は伝わらないから、言っても駄目なのは知っている。だから僕は、全身を使ってお姉ちゃんに訴えた。

 第一段階。とにかく鳴く。
 第二段階。人間のように二本足で立ち上がって、お姉ちゃんの太ももに手をかけ甘える。
 お姉ちゃんは、僕が甘えると弱いのだ。
 第三段階。お姉ちゃんの後をついて歩く。

「健太、どうしたの?」

 ほら、大成功。

 第四段階。玄関に行って戸をカリカリ引っかき、第一段階の時より少し高い声で鳴く。

「外に行きたいのかな?」

 僕は、心の中でガッツポーズをした。

 さすがお姉ちゃん! 単純!

 お姉ちゃんが僕を抱っこして外に出ると、いよいよ最終段階。僕はじっと保健所を見た。

「そっち? そっちは、保健所だよ? 健太の嫌いな犬や猫がたくさんいる所だよ?」

 何を言われても、決して目をそらさない。
 これが、僕の心をお姉ちゃんに伝えるために編み出した作戦なのだ。

「仕方ないなあ。」

 お姉ちゃんは、僕を見た。

「私も興味あるし、行ってみようか。」

 思った通りだ。僕は以前から、お姉ちゃんは保健所に興味があるのではないかと思っていたのだ。


 お姉ちゃんは、誰もいない保健所に足を踏み入れた。僕を抱いている腕が少し震えていて、心臓が激しくドクドク鳴っていた。

「犬の声が聞こえる。」

 遠くに犬たちの声が聞こえると、お姉ちゃんは、まっすぐ奥を見た。さっきまでのおどおどした姿とは違い、力強い目をしている。

「健太、行ってみよう。」

 僕らは建物をぐるりとまわり、犬たちの声が聞こえてくる場所を探した。

 ふと、ある場所でお姉ちゃんは歩みを止め、建物の窓をじっと見つめた。

「ねえ、健太、見える?」

 窓から中をのぞくと、たくさんの犬の姿が見えた。

「この子たちはね、新しい家族が見つからないと、殺されちゃうんだよ。」

 お姉ちゃんの声は、悲しみに震えていた。

「……ひどいよね。」

 ――人間たちが、用済みになった飼い猫や飼い犬を捨てる『ゴミ箱』さ。

 あの日の、クロの言葉が頭をよぎる。
 僕は今、それを目の当たりにしているんだ。

 逃げ出してしまいたい。
 僕ひとりの命と、ここにいる、たくさんの犬たちの命。
 僕に、そんな価値があるのだろうか。
 申し訳ない思いと、それに抗うように胸の奥から押し上げてくる生きたい思い。
 僕は、息苦しさと吐き気に襲われた。

 ダメだ。今は、レディを探さないと……。

 首をブンブン振って気持ちを切り替えると、たくさんの犬たちの中にレディの姿を探した。
 すると今度は、お姉ちゃんとは違う声が聞こえてきた。

「飼い猫がいるわ。」
「人間と一緒だ。」
「おい、飼い猫! お前だって、いつここに来るかわからないんだぞ!」
「人間なんてな、すぐに裏切るんだ!」

 聞こえてきたのは、中の犬たちの、そうせずにはいられない、悲しい叫びだった。
 悪口雑言の合間には、消えてしまいそうな声が風に運ばれてくる。

「ご主人さま……。ぼく、いい子になるから……。」
「どうして、わたしを置いていってしまったの……?」
「会いたいよぉ……。会いたいよぉ……。」

 ――僕の家族は、僕を用済みになんかしない! するもんか!

 あの日、僕はクロにそう言った。
 もちろん、その気持ちは今でも変わっていないけれど、中の犬たちを前にして、その言葉を言うことはできなかった。


「やめねえか!」


 突然、しわがれ声が響いた。
 騒がしかった犬たちを一瞬にして黙らせる、圧倒的な力を持った声だった。僕は、声の主を探した。


「何も分からねえ、猫の坊主を怖がらせてどうするんだ。おびえてんじゃねえか!」


 奥から、大きくて真っ黒の犬が姿を現し、ちょうど、僕と向かい合う位置で止まり、腰を下ろした。

「ラブラドール・レトリーバーだよ。おじいちゃんみたいだけど、すごくかっこいい。」

 黒い犬を見ながら、お姉ちゃんがポツリと言った。
 お姉ちゃんの言う通り、これまで歩んできた歴史をその背中に見えるような、かっこよさがあった。

「坊主。見ての通り、お前のような猫の来るところじゃあねえ。いったいここに何をしに来た。」

 レトリーバーが僕にたずねた。

「レディっていう犬を探しに来たの。声の出ない犬なんだけど……、知らない?」

「声の出ない犬……? つまりそれは、吠えることができない犬、なんだな?」

「……うん、そうなんだ。白くてふわふわの女の子。」

 僕とレトリーバーのやり取りを聞いていて、他の犬たちた顔を見合わせた。

「さあ、知らないわ。」
「ボクも見てない。」
「白くてふわふわの女の子は、ここにはいないよね。」

 犬たちの言葉を聞いて、レトリーバーは、再び僕を見た。

「悪いが、俺も見てねえ。その声の出ない犬ってのは、坊主の友だちか?」

 僕は首を横に振り、答えた。

「友だちの、友だち。」

 レディはいなかった……。
 身体中の力が抜けた。クロの助けになることができなかった。

 でも、じゃあ、レディはどこにいったの……? どうして、いないの……?

「おう、坊主。」

 レトリーバーの声が聞こえた。僕は、考えるのをやめて、レトリーバーを見た。

「知っての通り、俺らは、いつあの世にくかわからねえ。でもな、坊主、お前は生きろ。その姉ちゃんに大事にしてもらえ。そんで人間の愛情を、いっぱい、いっぱい感じるんだ。わかったか?」

 僕は、遺言のような言葉に、胸が痛んだ。

「俺の親父は、去年逝っちまった。爺さんだったからよ、寿命ってぇやつだ。俺は、親父さんが大好きだった。ずっと一緒にいたかった。だから親父さんが死んだあとも、親父さんとの思い出が残るあの家で、独りで暮らしていたんだ。俺だって『いい歳』だからよ、もう長くはねえんだ。親父さんが残した食い物でのんびりしてりゃ、そのうち『あの世』から迎えが来るだろう。それでいいと思っていた。だがある日、突然人間がやってきって、俺をここに連れてきた。」

 僕は、彼の目を見た。

「だがな、坊主。ここの人間を恨むな。ここの人間は、こんな俺らに優しくしてくれるんだ。今言った通り俺は違うが、ここにいる動物たちの多くは、人間たちが勝手に飼って勝手にてた命たちだ。ここの人たちはな、俺たちみたいな命を増やさねえように、精一杯やってくれているんだ。だから、そんな悲しい目をするな。」

 ――またな、坊主。

 レトリーバーは、確かにそう言って僕に背を向けた。


*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*


「黒いレトリーバー……。」

 まるで人差し指を唇に当てるかのように、美しい褐色の翼の先を嘴に当てて、鳶が言った。

「何かのキーワードみたいだね。」

 名探偵のような口調と顔で言う鳶を、鴉は、どうしようもねえなとため息をつきながら横目で見ている。

 私は、ふたりを見て微笑んだ。

「キーワードだよ。」

「えっ、そうなのか?」

 鴉は驚いて、鳶と私を交互に見た。
 鳶は、やったーと喜んでいる。

「本当さ。保健所とレトリーバーは、キーワードなんだ。」

 私は、青空に浮かぶ雲に言葉を乗せた。

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