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8月4日:保健所の男性
しおりを挟む「ねえ、クロ。」
僕は、窓の向こうにいるクロに、前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「クロが知ってる世界って、どのくらい広いの?」
思ってもみなかった僕の質問に、クロはかなり驚いたようだった。
「いきなりどうしたんだ?」
「前から、気になってたんだ。」
気になっていたのは嘘じゃないけれど、これは、何とかレディの話題に触れないための質問だ。
保健所にレディがいないなんて、クロには言えない。だから僕は、保健所に行ってきたことをクロに話していない。でも、レディの話題が出てしまったら、僕はきっと話してしまう。かといって、沈黙はたえられない。そんな複雑な気持ちから出たものだった。
カンのいいクロだから、僕が何かを隠していると気づいているのかもしれない。それでもクロは何も言わず、僕の質問の答えを真剣に考えているようだった。
「そうだな。俺の世界がどれだけ広いのかなんて分からないけれど、俺よりもずっと広い世界で暮らしているヤツらなら知っている。」
「それは……?」
僕は、湧き上がった好奇心をおさえられなかった。
クロより広い世界に暮らしているのは、いったい誰だろう。
「鳥だ。」
クロは、抜けるような青空をまぶしそうに見上げている。
「空には、境界線がない。鳥の世界にも縄張りはあるんだろうが、空そのものには何もない。あの青空を、命が尽きるまで、どこまでも飛んでいけるんだ。」
クロの瞳は、潤んでいた。
「渡り鳥がうらやましい。俺もいつか、俺の知らない世界に飛んで行きたい。」
クロは、僕に視線を戻して続けた。
「だから、お前のこともうらやましい。」
「いったい、僕の何を?」
僕は、目を丸くした。
「お前は、俺の知らない世界にいる。俺は、お前の世界も知りたい。」
クロの目は、今までの刺すような金色ではなく、優しくてどこか頼りない、守らなければ消えてしまいそうな、小さなロウソクの炎のような色だ。
「僕も、」
その目に、僕は、どう応えたらいいのか分からない。それでも、思っていることを素直に言葉にした。
「クロがうらやましい。僕の知らない世界をたくさん知っている。僕は、クロからたくさん教わった。いろいろ知ることができた。」
クロは、その行動が当り前であるかのように、僕から目をそらした。
照れているんだ。
僕は、なんとなくそれを察した。
クロが帰ってから、僕はまた、お姉ちゃんの部屋から保健所を眺めた。
いったい、レディはどこへ行ったのだろう。
誰も見ていない知らないということは、レトリーバーたちがいたところには行かなかったことになる。
それじゃあ、いったい、どこに……。
「健太!」
お姉ちゃんは、いつも突然僕をぎゅっと抱きしめる。かなり苦しいのだけれど、苦しいんだとそれとなく伝えても、お姉ちゃんはまったく気にしない。
苦しいことは伝わらなくても、あの場所に行きたい思いはきっと伝わる。僕はそう信じて、目の前にそびえる建物を見て、ニャーニャー鳴き続けた。
しかし、昨日のようにはいかず、僕は抱きしめられ損であきらめのため息をついた。
「ね。今日も、行ってみない?」
僕は、驚いて顔を上げた。お姉ちゃんの目は、まっすぐ保健所を見ている。
「私ね、あの犬にもう一度会いたいの。」
あの犬。昨日のレトリーバーのことだ。
僕は、素直に誘いに応じた。迷わず、お姉ちゃんの肩に乗る。それが、僕の言葉なのだ。
「なんだか、忍び込んでるみたいだね。」
保健所の入り口で、お姉ちゃんがいたずらっぽく言った。その声は、少年のようだった。
早朝の保健所は、人が少ない。だから、なんだか忍び込んでいるような気分になる。
もっと堂々とすればいいのに……。
そう思ってため息をついたとき、僕らの背後から人の気配を感じた。
「おはようございます。」
お姉ちゃんがワッと声を上げて振り向くと、優しそうな男性が一人、そこに立っていた。
「すみません! すみません! すぐ帰ります!」
お姉ちゃんは、何度も頭を下げ、急いで帰ろうと回れ右をした。
なるほど。この男性は、この建物に勤める人間のようだ。
「いいんですよ。大丈夫です。」
お姉ちゃんは、おそるおそる振り向いて、僕らを呼び止めた男性を上目遣いで見た。
男の人は、楽しそうに笑っている。
「猫ちゃんとお散歩ですか?」
その人は、そう言いながら、笑顔で僕の顔をのぞき込んだ。
お姉ちゃんは、はい……と答えながら、男性を見つめた。
「……動物、お好きなんですね。」
お姉ちゃんの声には、驚きと戸惑いが入り混じった響きがあった。
男性は、無言で僕の身体に手を伸ばし、くしゃくしゃに撫で回しながら、笑顔でお姉ちゃんに答えた。
「私、獣医なんです。」
お姉ちゃんの、息を飲む音が聞こえた。
「そう、なんですか。」
『獣医』と名乗ったその人は、僕をひたすら撫で回し続けている。
お腹、背中、顔、頭、首、足……。
ブラッシングと毛づくろいで、せっかくカッコよく整えたのに、めちゃくちゃになってしまった。
だけど、この人の手はとても暖かくて優しくって、僕は幸せな気持ちになった。
僕にはわかる。こんなに優しい手をしている人が、動物嫌いのはずがない。
この人なら、クロにも同じようにしてくれるのかな。石投げたり、蹴飛ばしたり、叩いたりしないかな……。
しかし同時に、ここは生き物の死に逝く場所でもあることを思い出した。僕は、人間がわからなくなった。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
「保健所。確かキーワードだって言ったな。」
鴉は、上目づかいに私を見た。
「そう。一つ目のキーワードだ。」
「そもそも、『ジューイ』って何?」
鳶が首をちょこちょこ傾けた。
「獣医とは、人間以外の生きものの体調を整えてくれたり、ケガを治してくれたりする人間たちだ。傷ついた野生動物を手当てする獣医たちもいる。君たちも出会うかもしれないね。」
鳶は、うーんと考えて、そっと言った。
「それって、つまり、ボクたち動物のことを大好きな人ってこと?」
私は、そうだよと短く答えて、目を閉じた。そしてあの獣医を思った。
「あの先生に出会って、私は重要なことを学んだ。」
目を開けると、鳶が潤んだ瞳で私を見ていた。
「教えてください。ボク、保健所のことをもっと知りたいです。」
私は、にっこり笑って続きを語った。
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