思い出の日記

福子

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8月10日:しあわせの貯金

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 今日はとても蒸し暑い。

「雨が降るのかな。」

 こんな日は嫌いだ。
 居間も、書斎の本棚も、お母さんのベッドも、どこもかしこも暑い。朝早くからこんなに暑いということは、お昼は我慢できない暑さになるに決まってる。

「暑いなあ……。」

 僕は、居間の網戸にくっついて、少しでも風に当たろうと努力した。

「こんな日に限って、風がないんだから。」

 僕は、ため息をついた。

「窓に頭をこすり付けているようだが、さっきから何をやっているんだ?」
「クロ!」

 もぞもぞと網戸にくっついて、少しでも風に当たろうと頑張っているところをクロに見られてしまい、全身から火が出そうなほど熱くなった。肉球は冷や汗で湿っている。

「な、なんでもないよ。」

「そうか?」

 クロは、首を傾げた。

「そうだ。これを持ち主に返しておいてくれ。お前の家族のものだと思うんだ。」

 そう言ってクロは、本の絵が描いてある、四角くて硬くて平べったいものを僕に見せた。

「ああ、それ、たぶんお姉ちゃんのだ。どこで拾ったの?」

 クロは僕から目をそらして、ちょっとな、もったいぶった。僕はあえてそれ以上聞かなかった。

「あとで玄関のところに置いておく。」

「ありがとう。きっとお姉ちゃん、気づくと思う。」
 クロは、おう、と短く応えた。

「ひと雨きそうだな。」

「僕もそう思う。」

 僕は、こんなゆったりとした時間が大好きだ。こんな時間が、ずっと続いたらいいのに。

「やっと会えたわ! キミ、クロくんでしょ!」

 突然、昨日の朝に聞いたのとは違う、明るい女性の声が聞こえた。僕は、声の主を探した。
 犬を連れた綺麗なお姉さんが、茂みのところに立っていた。

 その人は、まっすぐクロに向かって歩き、クロの近くで立ち止まった。
 ところが、警戒心が強くいつもは逃げるクロが逃げなかった。というよりも、クロはその人をまったく見ていなかった。
 そんなクロを気にせず、女の人は突然振り向くと顔を僕のほうに向けた。

「で、キミが健太くんだ!」

 僕はすっかり、面食らってしまった。
 なぜ、僕やクロの名前を?
 その疑問の半分は、クロが解決してくれた。

「レディ……。」

 クロが見つめているのは、ふわふわの白い犬。リードのついた真新しい首輪がその首に光り、リードの端をお姉さんが握っていた。

「クロくん。キミのことはレディから色々聞いているよ。一緒に暮らしていたんだってね。ありがとう。」

 その人は、今度は僕を見た。

「健太くん。キミは、レディを探しに保健所に行ってくれたんだってね。保健所の犬たちから聞いたよ。職員さんがキミのことを覚えていてね、それでやっと名前が分かったんだ。」

「お前、俺たちの言葉が分かるのか?」

 驚いたクロは、バネ仕掛けのように首を動かして、お姉さんを見た。

「分かるよ。動物の言葉を理解する力は人間にはないのが普通なんだけど、私は、物心ついたころからずっと、キミたちの言葉が分かるの。」

 僕はその人をじっと見た。でも、彼女の目は僕たちを見ていない。というより、どこも見ていない。

「あの……、もしかして、お姉さんは……、」

「そうよ。生まれつき、目が見えないの。」

 お姉さんは、ふふっと笑った。

「お姉さんとは、保健所の入り口で出会ったの。」

 レディが、僕とクロを交互に見ながら言った。
 レディの言葉を受けて、お姉さんが続けた。

「保健所の中からね、『助けて』ってか細い声が聞こえたの。どうしても気になって、職員さんにお願いしてレディに会わせてもらったら、声帯のない犬だったわ。そのときね、この子と暮らしたい、家族になりたいって、そう思ったのよ。」

 レディは、クロに近づいて鼻先の匂いをかいだ。

「クロ、会いたかった。山に行ったらいなくて、かなり探したわ。」

 レディは、クロの首に自分の首を絡ませた。この行動は、親愛の証。二人の仲の良さが一目で分かった。

「キミたち、本当に仲がいいんだね。音と空気で分かるよ。」

 こんなに幸せそうなクロの顔は初めて見た。僕は心からクロを祝福した。そして、レディが生きていたことを心から喜んだ。

「ねえ、クロくん。うちの子にならない?」

 お姉さんは、クロにそう申し出た。その顔は、真剣だった。レディも、切ない目をしてクロを見ている。僕は、とても嬉しくなった。大好きなレディと暮らせるなら、このお姉さんの家族になるのなら、きっと幸せになる。
 でも、クロは、下を向いて考えていた。悩む必要など、何もないはずなのに。

「悪いが、俺はもう少し、このままでいる。」

「クロ、どうして? レディに会いたがっていたじゃないか。悩む必要なんかないよ!」

 口を挟むべきではないのは分かっているのだけれど、僕は、思わず叫んだ。

「……俺は、野良だ。まだ、飼い猫になる心の準備ができていない。」

 その言葉を聞いて、お姉さんは、クロのほうを見た。

「そっか。じゃ、無理強いしない。その代わり、レディと一緒にキミたちに会いに来る。いいよね、健太くん!」

「いつでも!」

 僕は明るく答え、突然の来客を見送った。

 ふたりの姿が見えなくなると、クロが立ち上がった。

「俺も、行くよ。」

 クロは、やはり何かを悩んでいるように見えた。もしかしたら、ずっと悩み続けていたのかもしれない。そんな気がした。


*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*


「レディ、生きてたんだな……。」

 鴉が、ため息混じりにつぶやいた。

「レディは、これから幸せになるんだ。今まで、ずっと苦しかったから。」

 鳶は目を閉じて、言葉すべてが宝物であるかのように、一つ一つを大事に話した。
 私と鴉は、鳶の話に耳を傾けた。

「ボクの母さんが話してくれたんだ。幸せも不幸も、みんな、同じ分量を持って生を受けるんだって。幸せの貯金を使い果たしてしまえば不幸しか残らないし、不幸の貯金を使い果たしてしまえば幸せしか残らない。両方を使い果たした者は天に昇り、貯金を残した者は悔いが残るって。」

 私と鴉は、ただただ鳶を見つめた。

 彼の言葉が本当なら、レディは、きっと今も幸せに暮らしていることだろう。
 そう信じたいし、そう信じている。

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