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その夜、いつものように部屋で書類を整理していると、コンコン、と控えめにノックをする音が聞こえた。ドアを開けると、そこには兄フィリップが立っている。
「こんな時間に珍しいですね。どうかしましたか?」
「少し話があるんだ。いいかな?」
「構いませんよ」
部屋に入った兄は、落ち着かない様子で椅子に腰を下ろす。そして申し訳なさそうに目を伏せる。
「セレナ、実は父上とも相談したのだが……いったん公爵家の領地に戻って、静養してはどうかという話になっている」
「私が、ですか?」
「都にいると、どうしても噂がついて回るし、ソフィアとの衝突が起きる可能性もある。だから少し距離を置いて、心を休めたほうがいいというのが父上の意見だ」
私はそっと息をついた。確かに都の社交界での立場は、今や危ういものになっている。婚約破棄の事実は消えないし、悪評を払拭するには時間がかかるだろう。
「兄さまは、どう思うの?」
「正直言って、俺もその方がいいと思っている。お前が傷つく姿は見たくないし、ここにいても周囲が騒ぎ立てるだけだ。……だが、お前の意思を尊重したい」
そう言って兄はまっすぐ私を見つめてくる。その視線からは、心底私のためを思っている気持ちが伝わってきた。
「ありがとう。でも私は……逃げたくありません。ソフィアがどんな噂を流そうと、婚約破棄されたという事実は変わらない。同時に、それが私にとって束縛からの解放でもあることも事実です」
「でも……」
「たしかに領地へ戻るのは悪くない考えです。でも、今はもう少し都で状況を見たい。私が公爵家の跡取りではないとはいえ、今後の家の行方に関わる問題かもしれませんし」
兄は考え込むように目を閉じると、やがて苦笑した。
「やはりな。セレナはそう言うと思っていた。父上は『お前の自由にするがいい』と言っていたから、いずれにしてもお前の意思次第だ。……ただ、母上は心配している。お前の冷静さを“冷酷さ”だと捉えている人も多いし、母上自身もそう感じているのかもしれない」
「母も私を理解できないのは昔からです。仕方ありませんわ」
本当は、母が私を愛してくれていることはわかっている。それでも、私の取り繕えない性格や態度に苛立ってしまうのだろう。感情を素直に出せない娘は、さぞもどかしく見えるに違いない。
「セレナ、お前が望むなら俺も全力で協力する。それだけは忘れないでくれ」
「ええ。感謝しています、兄さま」
私がそう言うと、兄は小さく微笑んで部屋を出て行った。残された静かな空間で、私は書類の束に目を落とす。領地に戻るか、都に留まるか。それは私の新しい人生をどう切り開くかにも関わってくる選択だ。
「……もう少し、様子を見てから決めるとしましょう」
私は呟くように言い、しんしんと降り積もる夜の静寂に耳を傾けた。王太子との婚約が破棄されても、まだ私の物語は始まったばかりなのだから。
「こんな時間に珍しいですね。どうかしましたか?」
「少し話があるんだ。いいかな?」
「構いませんよ」
部屋に入った兄は、落ち着かない様子で椅子に腰を下ろす。そして申し訳なさそうに目を伏せる。
「セレナ、実は父上とも相談したのだが……いったん公爵家の領地に戻って、静養してはどうかという話になっている」
「私が、ですか?」
「都にいると、どうしても噂がついて回るし、ソフィアとの衝突が起きる可能性もある。だから少し距離を置いて、心を休めたほうがいいというのが父上の意見だ」
私はそっと息をついた。確かに都の社交界での立場は、今や危ういものになっている。婚約破棄の事実は消えないし、悪評を払拭するには時間がかかるだろう。
「兄さまは、どう思うの?」
「正直言って、俺もその方がいいと思っている。お前が傷つく姿は見たくないし、ここにいても周囲が騒ぎ立てるだけだ。……だが、お前の意思を尊重したい」
そう言って兄はまっすぐ私を見つめてくる。その視線からは、心底私のためを思っている気持ちが伝わってきた。
「ありがとう。でも私は……逃げたくありません。ソフィアがどんな噂を流そうと、婚約破棄されたという事実は変わらない。同時に、それが私にとって束縛からの解放でもあることも事実です」
「でも……」
「たしかに領地へ戻るのは悪くない考えです。でも、今はもう少し都で状況を見たい。私が公爵家の跡取りではないとはいえ、今後の家の行方に関わる問題かもしれませんし」
兄は考え込むように目を閉じると、やがて苦笑した。
「やはりな。セレナはそう言うと思っていた。父上は『お前の自由にするがいい』と言っていたから、いずれにしてもお前の意思次第だ。……ただ、母上は心配している。お前の冷静さを“冷酷さ”だと捉えている人も多いし、母上自身もそう感じているのかもしれない」
「母も私を理解できないのは昔からです。仕方ありませんわ」
本当は、母が私を愛してくれていることはわかっている。それでも、私の取り繕えない性格や態度に苛立ってしまうのだろう。感情を素直に出せない娘は、さぞもどかしく見えるに違いない。
「セレナ、お前が望むなら俺も全力で協力する。それだけは忘れないでくれ」
「ええ。感謝しています、兄さま」
私がそう言うと、兄は小さく微笑んで部屋を出て行った。残された静かな空間で、私は書類の束に目を落とす。領地に戻るか、都に留まるか。それは私の新しい人生をどう切り開くかにも関わってくる選択だ。
「……もう少し、様子を見てから決めるとしましょう」
私は呟くように言い、しんしんと降り積もる夜の静寂に耳を傾けた。王太子との婚約が破棄されても、まだ私の物語は始まったばかりなのだから。
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