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3朱国へ
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黒国の首都から馬車で二十日。朱国は確かに豊かな国だった。
馬車からのぞく平原は、どこも緑にあふれ活気に満ちていた。黒国にないすべてのものが、この国にはある。話には聞いていたものの、その違いには心底驚いた。
千はそっと左腕の腕輪に触れた。銀細工のそれは溶接されており、もう自分では外すことはできない。外せるのは毅旺だけ。彼だけがこの腕輪を外すことも千の身を灼く事もできるのだと言われた。
着物の袖でそれを見えないように隠して、千は小さく溜息をこぼした。
名を稀千丸から稀千と改めた。もう子供ではなくなった。
心の底で望んでいたはずの世界に、こんな形で出ることになるなんて。
馬車は国境から更に二日かけて、大きな城にたどり着いた。
城と言えば烏城しか見たことがなかった千は、朱国の城を見ても驚いた。黒国が黒い城なら、朱国は赤い城かと想像していた。しかし、朱国の城はちょっとした屋敷の延長のようなものだった。
「これが、……城?」
思わず呟いた台詞に、同行していた郭がわずかに頭を下げた。
「この城は先王の世で建てられたものです。先王の世は内乱もほとんど無く、烏城と違い戦を重視した造りにはなっていません。また先王は贅沢を嫌い、今のような形になったとか」
「これでは、まるでただの屋敷だね」
「二階以上がございませぬ故。されど土地に恵まれた朱国。屋敷は広く、庭園もさぞ見事でしょう」
「郭は……物知りだな」
馬車に乗ってからというもの、郭とたくさん話をした。それぞれの土地の名前、風土、特産。城の監視の目がない分、郭は自由に話せる。長い旅の間、千は姉からも聞いていなかった色々な事を教えてもらった。
「郭はいくつだったの?———父が死んだ時」
ふと、郭のことを聞いてみたくなった。郭は一瞬表情を硬くしたが、すぐにまた元の顔に戻った。
「稀千君は三つでございましたね。私は十二でした」
十二と言えば、由井家跡取りとして一通りの教育は済んでいたはずだ。
「———本当の名は、何だったの」
「……政尚と申します」
間はあったが、静かな返答だった。恨んでいないのだろうか。この世を、この国を———千を。
その思いを察するかのように、郭はふわりと笑った。
「私は十二、成人をすませ、嫡子である私は父とともに従軍する予定でした。しかし戦の数日前、主自らが我が館までおはこび下されたのです」
「父上が、郭の家へ?」
「はい。主は、我が父へ、従軍には及ばぬと説得に来られたのです。死ぬのは自分一人で良いからと。しかし父は頑として首を縦には振らなかった。今でも覚えています」
郭は思い出すようにして笑った。
「最後にはほとんど掴み合うようにして、二人は話し合っていました。主は根負けして、父に従軍を許してくださいました。しかし、私を巻き込むなと、父に言われたのです。次代を担う子供達を、決して従軍させてはならぬ、と。そして私に言われました」
郭は急に改まって千の前に両手をついた。
「生きて、千丸君の御身をお守りするようにと。———申し訳ありませんでした」
突然頭を下げられ、千はぎょっとした。
「な、何で?」
「片時も側を離れず、お守り申し上げるとお約束申し上げました。しかし……由井家は没落し、それに伴い私は千丸君をお守りする術を失いました。この身一つで、お守りすることも叶わずに、こうしてただ城に入ることしか」
郭の手が、ぎゅっと握られる。血の気を失った手の色が、郭の思いを伝えているようだった。
「今また、私は稀千君をお守りすることもできず、お見送りするのみ。———この身の不甲斐なさが憎まれます。いっそ……」
「郭!」
千は慌てて郭の手を握った。
「郭、———政尚。謝るのは俺の方だ。主は家臣を守るものだろう?俺は政尚に守られてばかりで、少しも守ってやれてない。不甲斐ないなんて言わないでくれ。貴方の存在が、あの城の中で、どれほど心の支えになったことか。———教えてくれて、ありがとう。父上の事を聞くのは、とても嬉しい」
「稀千君……」
やがて馬車は城に到着する。千は郭の手を両手で握って、笑った。心配をかけないように、できるだけ明るく。
「行ってくるよ、政尚。今までありがとう。どうか自分の身を、大切にしてほしい」
そこは趣のある屋敷で、風情ある造りだった。先王は文化人だったのかもしれない。
通された回廊から見える庭も、木々や池の配置など、素朴ながら細部にまで気が遣われているのが分かる。黒国の無機質で人工的な城とは大きく違っていた。
案内されるまま一室に通される。朱国の文化はある程度聞いていたが、隣の国だというのに黒国とは大分違う。この城はすべての部屋が畳だった。机と椅子もない。藺草のいい香りがどこへ行っても漂っていた。
千は通された一室で両手をついて、王の来訪を待った。程なくして王は現れる。
王の足音が聞こえて、衣擦れの音が聞こえる。すとん、と腰掛けたのが気配で分かる。
「帰ってもらおう」
はっと、礼儀も忘れ思わず顔を上げる。まさか何の挨拶もなしに、そんなことを言われるとは思わなかったのだ。
初めて見る緋王は、予想以上に若かった。
そう言えば、毅旺が若造と呼んでいた。彼より若いとなると、もしかするとまだ三十にもなっていないのかもしれない。
黒国の王とは天と地のように違う。毅旺はこのように強くはっきりした声ではなく、もっと静かに、落ちるように話す。肌の色も透けるように白く、この王の健康的な肌の色とは対照的だ。顔立ちもはっきりとしていて、妙に人の目を引きつけるような雰囲気を持っている。
千は王と呼ばれる男を黒国の王しか知らなかったため、王とはああいったものなのだとなぜか勝手に思っていた。だから朱国の王を見ても、それが王なのかと半ば信じられない思いだった。
緋王のそばには何人かの臣下が控えているが、緋王に対して少しも怯える風はない。それどころか、王の左へ控えていた若い男はあからさまに緋王に対して眉を寄せた。
「緋王陛下。彼は黒国の正式な使者。無下に帰す事は、徒に戦を引き起こすことになります」
緋王は鼻で笑った。如何にも武人といった力強い威厳がある。
「だから何だ。我が妹の首を撥ねた時より、戦というなら始まっている。———むしろ、黒国の民は両手を打って喜ぶであろう。聞けば秋であるというのに、黒国の領土は荒れ地が広がるばかりとか。朱国の領地となれば豊かな暮らしが叶うものを」
「いい加減にされよ、王!使者の前で!」
声を低くしてはいるが、十分に怒気を孕んでいる。諫めると言うより、掴みかからんばかりだ。
その様子を見ていた反対側の臣下が、溜め息混じりに言った。こちらは動作も言葉遣いも、とても穏やかである。
「とにかく、部屋は用意させてあるのです。今さらお返しするわけにもいきません。案内させましょう。陛下、大臣。使者の前で口論はお控えになってくださいね。それ若者揃いの朝廷はやはり未熟よと馬鹿にされたいのですか」
その言葉に、王はとうとう耐えきれなくなったように玉座を立った。
その後を追うように数人の臣下が後を追った。
後に残った先ほどの穏やかな青年に促されて、千は混乱したまま部屋へと通された。
馬車からのぞく平原は、どこも緑にあふれ活気に満ちていた。黒国にないすべてのものが、この国にはある。話には聞いていたものの、その違いには心底驚いた。
千はそっと左腕の腕輪に触れた。銀細工のそれは溶接されており、もう自分では外すことはできない。外せるのは毅旺だけ。彼だけがこの腕輪を外すことも千の身を灼く事もできるのだと言われた。
着物の袖でそれを見えないように隠して、千は小さく溜息をこぼした。
名を稀千丸から稀千と改めた。もう子供ではなくなった。
心の底で望んでいたはずの世界に、こんな形で出ることになるなんて。
馬車は国境から更に二日かけて、大きな城にたどり着いた。
城と言えば烏城しか見たことがなかった千は、朱国の城を見ても驚いた。黒国が黒い城なら、朱国は赤い城かと想像していた。しかし、朱国の城はちょっとした屋敷の延長のようなものだった。
「これが、……城?」
思わず呟いた台詞に、同行していた郭がわずかに頭を下げた。
「この城は先王の世で建てられたものです。先王の世は内乱もほとんど無く、烏城と違い戦を重視した造りにはなっていません。また先王は贅沢を嫌い、今のような形になったとか」
「これでは、まるでただの屋敷だね」
「二階以上がございませぬ故。されど土地に恵まれた朱国。屋敷は広く、庭園もさぞ見事でしょう」
「郭は……物知りだな」
馬車に乗ってからというもの、郭とたくさん話をした。それぞれの土地の名前、風土、特産。城の監視の目がない分、郭は自由に話せる。長い旅の間、千は姉からも聞いていなかった色々な事を教えてもらった。
「郭はいくつだったの?———父が死んだ時」
ふと、郭のことを聞いてみたくなった。郭は一瞬表情を硬くしたが、すぐにまた元の顔に戻った。
「稀千君は三つでございましたね。私は十二でした」
十二と言えば、由井家跡取りとして一通りの教育は済んでいたはずだ。
「———本当の名は、何だったの」
「……政尚と申します」
間はあったが、静かな返答だった。恨んでいないのだろうか。この世を、この国を———千を。
その思いを察するかのように、郭はふわりと笑った。
「私は十二、成人をすませ、嫡子である私は父とともに従軍する予定でした。しかし戦の数日前、主自らが我が館までおはこび下されたのです」
「父上が、郭の家へ?」
「はい。主は、我が父へ、従軍には及ばぬと説得に来られたのです。死ぬのは自分一人で良いからと。しかし父は頑として首を縦には振らなかった。今でも覚えています」
郭は思い出すようにして笑った。
「最後にはほとんど掴み合うようにして、二人は話し合っていました。主は根負けして、父に従軍を許してくださいました。しかし、私を巻き込むなと、父に言われたのです。次代を担う子供達を、決して従軍させてはならぬ、と。そして私に言われました」
郭は急に改まって千の前に両手をついた。
「生きて、千丸君の御身をお守りするようにと。———申し訳ありませんでした」
突然頭を下げられ、千はぎょっとした。
「な、何で?」
「片時も側を離れず、お守り申し上げるとお約束申し上げました。しかし……由井家は没落し、それに伴い私は千丸君をお守りする術を失いました。この身一つで、お守りすることも叶わずに、こうしてただ城に入ることしか」
郭の手が、ぎゅっと握られる。血の気を失った手の色が、郭の思いを伝えているようだった。
「今また、私は稀千君をお守りすることもできず、お見送りするのみ。———この身の不甲斐なさが憎まれます。いっそ……」
「郭!」
千は慌てて郭の手を握った。
「郭、———政尚。謝るのは俺の方だ。主は家臣を守るものだろう?俺は政尚に守られてばかりで、少しも守ってやれてない。不甲斐ないなんて言わないでくれ。貴方の存在が、あの城の中で、どれほど心の支えになったことか。———教えてくれて、ありがとう。父上の事を聞くのは、とても嬉しい」
「稀千君……」
やがて馬車は城に到着する。千は郭の手を両手で握って、笑った。心配をかけないように、できるだけ明るく。
「行ってくるよ、政尚。今までありがとう。どうか自分の身を、大切にしてほしい」
そこは趣のある屋敷で、風情ある造りだった。先王は文化人だったのかもしれない。
通された回廊から見える庭も、木々や池の配置など、素朴ながら細部にまで気が遣われているのが分かる。黒国の無機質で人工的な城とは大きく違っていた。
案内されるまま一室に通される。朱国の文化はある程度聞いていたが、隣の国だというのに黒国とは大分違う。この城はすべての部屋が畳だった。机と椅子もない。藺草のいい香りがどこへ行っても漂っていた。
千は通された一室で両手をついて、王の来訪を待った。程なくして王は現れる。
王の足音が聞こえて、衣擦れの音が聞こえる。すとん、と腰掛けたのが気配で分かる。
「帰ってもらおう」
はっと、礼儀も忘れ思わず顔を上げる。まさか何の挨拶もなしに、そんなことを言われるとは思わなかったのだ。
初めて見る緋王は、予想以上に若かった。
そう言えば、毅旺が若造と呼んでいた。彼より若いとなると、もしかするとまだ三十にもなっていないのかもしれない。
黒国の王とは天と地のように違う。毅旺はこのように強くはっきりした声ではなく、もっと静かに、落ちるように話す。肌の色も透けるように白く、この王の健康的な肌の色とは対照的だ。顔立ちもはっきりとしていて、妙に人の目を引きつけるような雰囲気を持っている。
千は王と呼ばれる男を黒国の王しか知らなかったため、王とはああいったものなのだとなぜか勝手に思っていた。だから朱国の王を見ても、それが王なのかと半ば信じられない思いだった。
緋王のそばには何人かの臣下が控えているが、緋王に対して少しも怯える風はない。それどころか、王の左へ控えていた若い男はあからさまに緋王に対して眉を寄せた。
「緋王陛下。彼は黒国の正式な使者。無下に帰す事は、徒に戦を引き起こすことになります」
緋王は鼻で笑った。如何にも武人といった力強い威厳がある。
「だから何だ。我が妹の首を撥ねた時より、戦というなら始まっている。———むしろ、黒国の民は両手を打って喜ぶであろう。聞けば秋であるというのに、黒国の領土は荒れ地が広がるばかりとか。朱国の領地となれば豊かな暮らしが叶うものを」
「いい加減にされよ、王!使者の前で!」
声を低くしてはいるが、十分に怒気を孕んでいる。諫めると言うより、掴みかからんばかりだ。
その様子を見ていた反対側の臣下が、溜め息混じりに言った。こちらは動作も言葉遣いも、とても穏やかである。
「とにかく、部屋は用意させてあるのです。今さらお返しするわけにもいきません。案内させましょう。陛下、大臣。使者の前で口論はお控えになってくださいね。それ若者揃いの朝廷はやはり未熟よと馬鹿にされたいのですか」
その言葉に、王はとうとう耐えきれなくなったように玉座を立った。
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