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7騒乱
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千が黒国へ戻り数月経った。
書記官の仕事には、すぐ慣れた。国政に携わるのが本来の役目だが、千にはさほど大きな仕事はなかった。大臣の持ってきた書類に判を押す毎日。それでも国政の様々なことを学びながら知れるのはうれしかった。
貞興はあれからぱたりと来ることはなくなった。少し胸は痛むが、今まで通りの、退屈な日々。少しほっとする。退屈でも、まだ仕事があるだけましだ。
郭とは話を交わすことはできないが、視線を交わすだけで気にかけてくれていることも分かる。それが随分心の支えになった。
そんな中“その日”は突然やってきた。
朝からなにやら張りつめたような空気が肌をぴりぴりと刺激していた。昼を過ぎ、急にざわざわと、館が騒がしくなった。
黒王が来たのだろうか?いや、それにしては騒ぎが大きい。時折怒号と共に悲鳴のようなものも聞こえる。物の壊れる音、幾人もの激しい足音。胸がざわついた。
千は書き物をしていた手を止め、扉に手をかけた。
「何事?」
問いかけようとしても、扉に控える者が一人もいない。
千は眉を寄せた。後宮の中でも千の部屋は少し離れたところにある。ここまで聞こえてくるのだから、余程の騒ぎだ。
「若君!」
郭が、向こうから駆けてくるのが分かる。
「稀千君、お逃げください!敵襲でございます!」
「敵襲?」
「朱国のもの数百名、城下を取り囲み、火を放ち城門は次々に破られております!」
「朱国……まさか、そんな」
「身内に手引きするものがおります。ここももうもちません。共にお逃げください!」
嫌な予感がする。
この城には、王に憎しみを持った人間があまりに多い。だからこそ毅旺は常に手元から剣を放さないのだ。
「若!」
「そんな、急に……朱国の軍勢が来ているなんて、何の予兆もなかったのに。数百の軍が関所に気づかれずどうやってここまで来たって言うんだ」
混乱する千の両肩を、郭はしっかりと掴んだ。急速に現実に引き戻される様にして、千は郭の目を見る。
「しっかりなさってください。若君。この時を待っていたのです。このために、我々は何年も準備を重ねて参りました」
「準備?我々って……郭、お前何を」
呼び方にも違和感があり、訳が分からなくて混乱する。
「不破一門だけではありません。同じような目に遭い、理不尽なお家取りつぶしを余儀なくされた一族は数多くありました。我らは今やっと、時を得たのです」
「———お前達の仕業という訳か。この戦は。朱国を手引きしたのも?」
「朱国とのつながりを得たのは若君のおかげです。佳枝姫のお力をお借りし、緋王の軍勢を借りたのです」
「黒国を朱国へ明け渡すのか」
どんな不遇にあっても黒国こそ祖国、とあくまで黒国の民であるという信念を崩さなかった姉が朱国にこの国を明け渡すとは考えにくかった。時が心を変えたのか、それとも千が黒王のもとに仕えているからか。緋王の人となりを知っているからなのかもしれない。
まだ実感がもてない。だが、焦った表情の郭は嘘を言ってはいないのだろう。
「郭、お前が指揮しているのか?」
「いいえ。筆頭は貞興様です」
「貞興?」
「お仲間になられたのは最近です。しかし、この奇襲の計画も実行も、すべて貞興様がお考えになりました。城はほぼ壊滅。もはや黒王に逃げ場はありません。さあ、火が回らぬうちにお逃げください」
「そんな……急に、言われても」
「何を迷われるのです!若君!ここで勝利し、不破家を真に再興なさってください!」
待ってくれ。そんな急に言われても。———さっきまで、いつも通りの生活だった。籠の鳥だった。こんな、あまりにも急にそれが終わろうとするなんて。
「若君。さあ、おいでください!火が回ります。———緋王が来られているのですよ!」
「時暁様が……」
千は、一歩、二歩と後ずさった。郭が怪訝な表情をする。
「若君」
「ごめん……先に行ってて!」
千は走り出した。
「若君!」
郭の叫びを背中で受けて、それでも千は止まらなかった。
人の逃げる波に逆い、正殿の方へ走る。
正殿はすでに炎に包まれていた。時折、逃げ遅れた人が横たわっている。もう息はしていないのだろう。ひょっとすると、火付けの計略に来た者に殺されたのかもしれない。こんな内部に火をつけたのはどう考えても城内部の者だろう。
業火の中、千は走った。城はあちこちが燃えている。燃え尽くされるのも時間の問題だろう。戦向きに作られたこの城を落とすのは無理と判断したのか。本来なら火も回らないよう設計されているのだが、さすがは将軍の貞興。火が回るよう計算して火をつけているようだ。
全身から吹き出るように汗が出る。汗と煙で息苦しい。咳き込みながら、それでも千は走り続けた。
王のいる場所は分かっている。行かなくてはいけない。
行かなくては……?
本当は、毅旺のもとへ行く必要など無い。見捨てて時暁の元へ行けばいい。分かっていても何故か、身体が向かっていた。
何かを置いてきたような、忘れ物をしているような気がする。
書記官の仕事には、すぐ慣れた。国政に携わるのが本来の役目だが、千にはさほど大きな仕事はなかった。大臣の持ってきた書類に判を押す毎日。それでも国政の様々なことを学びながら知れるのはうれしかった。
貞興はあれからぱたりと来ることはなくなった。少し胸は痛むが、今まで通りの、退屈な日々。少しほっとする。退屈でも、まだ仕事があるだけましだ。
郭とは話を交わすことはできないが、視線を交わすだけで気にかけてくれていることも分かる。それが随分心の支えになった。
そんな中“その日”は突然やってきた。
朝からなにやら張りつめたような空気が肌をぴりぴりと刺激していた。昼を過ぎ、急にざわざわと、館が騒がしくなった。
黒王が来たのだろうか?いや、それにしては騒ぎが大きい。時折怒号と共に悲鳴のようなものも聞こえる。物の壊れる音、幾人もの激しい足音。胸がざわついた。
千は書き物をしていた手を止め、扉に手をかけた。
「何事?」
問いかけようとしても、扉に控える者が一人もいない。
千は眉を寄せた。後宮の中でも千の部屋は少し離れたところにある。ここまで聞こえてくるのだから、余程の騒ぎだ。
「若君!」
郭が、向こうから駆けてくるのが分かる。
「稀千君、お逃げください!敵襲でございます!」
「敵襲?」
「朱国のもの数百名、城下を取り囲み、火を放ち城門は次々に破られております!」
「朱国……まさか、そんな」
「身内に手引きするものがおります。ここももうもちません。共にお逃げください!」
嫌な予感がする。
この城には、王に憎しみを持った人間があまりに多い。だからこそ毅旺は常に手元から剣を放さないのだ。
「若!」
「そんな、急に……朱国の軍勢が来ているなんて、何の予兆もなかったのに。数百の軍が関所に気づかれずどうやってここまで来たって言うんだ」
混乱する千の両肩を、郭はしっかりと掴んだ。急速に現実に引き戻される様にして、千は郭の目を見る。
「しっかりなさってください。若君。この時を待っていたのです。このために、我々は何年も準備を重ねて参りました」
「準備?我々って……郭、お前何を」
呼び方にも違和感があり、訳が分からなくて混乱する。
「不破一門だけではありません。同じような目に遭い、理不尽なお家取りつぶしを余儀なくされた一族は数多くありました。我らは今やっと、時を得たのです」
「———お前達の仕業という訳か。この戦は。朱国を手引きしたのも?」
「朱国とのつながりを得たのは若君のおかげです。佳枝姫のお力をお借りし、緋王の軍勢を借りたのです」
「黒国を朱国へ明け渡すのか」
どんな不遇にあっても黒国こそ祖国、とあくまで黒国の民であるという信念を崩さなかった姉が朱国にこの国を明け渡すとは考えにくかった。時が心を変えたのか、それとも千が黒王のもとに仕えているからか。緋王の人となりを知っているからなのかもしれない。
まだ実感がもてない。だが、焦った表情の郭は嘘を言ってはいないのだろう。
「郭、お前が指揮しているのか?」
「いいえ。筆頭は貞興様です」
「貞興?」
「お仲間になられたのは最近です。しかし、この奇襲の計画も実行も、すべて貞興様がお考えになりました。城はほぼ壊滅。もはや黒王に逃げ場はありません。さあ、火が回らぬうちにお逃げください」
「そんな……急に、言われても」
「何を迷われるのです!若君!ここで勝利し、不破家を真に再興なさってください!」
待ってくれ。そんな急に言われても。———さっきまで、いつも通りの生活だった。籠の鳥だった。こんな、あまりにも急にそれが終わろうとするなんて。
「若君。さあ、おいでください!火が回ります。———緋王が来られているのですよ!」
「時暁様が……」
千は、一歩、二歩と後ずさった。郭が怪訝な表情をする。
「若君」
「ごめん……先に行ってて!」
千は走り出した。
「若君!」
郭の叫びを背中で受けて、それでも千は止まらなかった。
人の逃げる波に逆い、正殿の方へ走る。
正殿はすでに炎に包まれていた。時折、逃げ遅れた人が横たわっている。もう息はしていないのだろう。ひょっとすると、火付けの計略に来た者に殺されたのかもしれない。こんな内部に火をつけたのはどう考えても城内部の者だろう。
業火の中、千は走った。城はあちこちが燃えている。燃え尽くされるのも時間の問題だろう。戦向きに作られたこの城を落とすのは無理と判断したのか。本来なら火も回らないよう設計されているのだが、さすがは将軍の貞興。火が回るよう計算して火をつけているようだ。
全身から吹き出るように汗が出る。汗と煙で息苦しい。咳き込みながら、それでも千は走り続けた。
王のいる場所は分かっている。行かなくてはいけない。
行かなくては……?
本当は、毅旺のもとへ行く必要など無い。見捨てて時暁の元へ行けばいい。分かっていても何故か、身体が向かっていた。
何かを置いてきたような、忘れ物をしているような気がする。
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