【完結】淋しいなら側に

サイ

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7騒乱

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「毅旺様!」
 執務室の扉を勢いよく開け放つ。誰もいない。
 窓に腰掛け、ただ黒王だけがいつものようにそこにいた。
「———千」
 来るのが分かっていたような言い方だ。
「どうした。ひどい格好だな」
 いつもと変わらない感情の読めない顔をしていた。ただ静かに。
「毅旺様……何故逃げないのですか」
「無駄だ」
 黒王は目を通していた書籍を興味なさげに床に落とし、千の側へ歩み寄った。黒く汚れた千の顔を、すっと一撫でする。
「朱国のものも反乱兵も、私を殺そうと躍起になっている。逃げる場所などもうどこにもない。———逃げるつもりもないがな」
「どうしてそんなに落ち着いていられるのです?自分が死ぬかもしれないというのに」
「死など恐ろしくはない。生きる苦痛に比べれば。———私はこの時を待ちわびていた」
 黒王はうっすらと笑った。とても死を間近にしている男の表情とは思えなかった。
「思ったよりも遅かったな」
「何がですか」
「世が乱れればそれを糺そうとする物好きな輩が現れるものだ。私は賭をしていた。世を乱したまま次へ引き継がれるか、物好きが現れるか」
 千はもう聞きたくない、と首を振った。
「分からない。俺には毅旺様の考えていることは分かりません」
「———そうだな、お前には分かるまい」
 火の手が、すぐ側まで来ていた。部屋の温度がどんどん上昇している。
 もう辺りは静まりかえっていた。みんな逃げ出したのだろう。
「稀千君!」
 息を切らし、駆け込むようにして郭が入ってきた。ずっと千を探していたのだろうか。
 二人を見ると血相を変え、背中の剣を抜きざま一振り、王に斬りかかった。一分の乱れもない、ぴっ、と線を描くような一太刀だった。
 王はそれをひらりと交わすと、またふっと笑った。
「不破家懐刀の由井は健在か」
 郭は黒王を睨み据え、剣をまた構えた。
「この時を想い、ひたすら剣を研いで来たのだ。我が剣は錆びてはおらぬ」
「郭……政尚」
 黒王は不適な笑みを崩さなかった。
「そんな名だったか。———お前、不用意に刀を動かすなよ。知らぬ訳では無かろう。千の腕にある呪を」
「くっ……」
 切っ先が、揺らいだ。政尚の動揺を表すかのようだった。
 その心を見抜き毅旺はすっと目を細めた。
「まだまだだな。その程度の覚悟で、主君を弑せると思ったか。殺さずにおいたというのに、つまらん。」
 後ろから、首を捕まれた。政尚が唇を噛むのが見える。
「毅旺さま……」
 そのまま首を絞められるのではないかと思った。だが、毅旺の力は強まらなかった。代わりにもう一方の手が、千の腕輪に触れた。どきりと身を固くする。
 何をするつもりなのか、毅旺の考えていることが読めない。顔が見えないからなおさらだった。
「千、私と共に滅びるか?かつて不破家は家臣筆頭として、主君が斃れる時には常に殉じたものだ」
 すっ、と毅旺の手が千の腕を撫でる。千はごくりとのどを鳴らした。
 顔が見えないから、毅旺が何を考えているのかいつも以上に分からない。見えるのはただ、絶望的な顔をした政尚だけだった。
 今さら、どうして毅旺はそんなことを言うのだろうか。
 有無を言わさず、自分を殺してしまえばいい。いつでもそうやって周囲の者の命を奪ってきた王である。だからこそ起きた、反乱。
 王はもう、ずいぶん前から狂っていたのだ。
 千は、朱国へ行って帰ってきて、そのことを思った。時暁が教えてくれたのだ。
 毅旺は壊したがっていた。様々な者を。自分に関わるすべての者を。極めつけが、この国と自分自身である。
 この王は、孤独で———弱い。
 そうだ、孤独なのだ。毅旺と時暁の違いを挙げるなら、何よりこの王は孤独だった。時暁には彼の周囲に、彼を支える暖かな人達が居た。だが、毅旺の周りには、彼を懼れ、彼の顔色を窺う者ばかりである。
 時暁は以前、「黒王は病にかかっている」と表現していた。その通りと思う。毅旺は猜疑心に捕らわれ、それ故の孤独に蝕まれていた。決して傍らから剣を放さず、人を寄せ付けず。———だから終焉を望んだのだ。その孤独を終わらせてくれる、誰かを。生きることを苦しみといって。
 そんなのは———。
「毅旺様は……卑怯です」
 千は自分の手のひらを毅旺の腕に重ねた。
「ご自分のことは何一つ言わないで、本心は言わない。———それじゃあ俺には、毅旺様が何を考えているのか、どうしてほしいのか、何一つ分からない!」
 自然、手に力が入る。驚いたのか、毅旺の手が緩む。その隙に千は毅旺に向き直った。王の顔はやはり無表情だったが、怒りは感じられなかった。
「そもそも、破滅したいならどうして初めに俺に言わなかったんですか。こんなに多くの人を巻き込んで、戦争を起こして、一体今日、何人が死んだと思っているんです。毅旺様の身勝手で、何人犠牲に……!」
 毅旺が黙っているのに意気をくじかれる。次第に声音は小さくなった。
「どうして何も言わないんですか?ご自分の思いを、気持ちを言わないんですか。———俺は、初めに言ったはずです。精一杯、お仕えすると。俺は自分で決めてここまで来たんです。自分で決めたからには後戻りはしない。毅旺様が共に死ねと言うなら、俺は迷わないのに!」
 次の瞬間、千は自分の目を疑った。
 毅旺が、笑っていた。
「毅旺……さま?」
 しかも今は、笑うような場面ではないはずだ。
「何がおかしいんですか」
「———私はつくづく、よい拾い者をしたものだ。退屈しのぎのつもりが、こうもおもしろいものを得るとは」
「おもしろい、って」
「お前の母親の絹は、私を懼れていた。その子も同じだろうと思っていたが、お前はいつでも物怖じせず、それでも結局は私の言うことを聞く。表情もよく動き、見ていて飽きなかったものだ。まさか、私を怒鳴りつけるとは」
「……………」
「お前、本当に私と死ねるのか?城の外では『時暁』が目を血走らせてお前を探しているだろう」
 時暁の名を出され、千はぐっと返事に詰まる。
 鮮明に思い出せる。時暁の手、視線、愛撫も。けれど、それはもう、置いてきたもの。
「言ったはずです。俺は毅旺様の臣下です。正確には側室だけど」
 毅旺はふっと笑った。死を前にしてようやく、何かから解き放たれたようだ。
「やはり嘘でも私を愛しているとは言わないのだな。———お前は本当に、正直者だ」
 毅旺の手が、千の頬に触れる。
「緋王を愛しているか」
「———はい」
 隠すことなど、できない。毅旺はとうに知っているのだ。何より、彼を愛していると死ぬ前に誰かに言っておきたかった。
「それで私と死ねるのか」
「死ねます。そのくらいの覚悟で、お仕えしていたつもりです」
 毅旺の顔が、千に近づいた。
「良かろう。———千、最期の口付けだ」
 千は、ゆっくりと目を閉じた。毅旺の唇が重なり、舌が割って入ってくる。蹂躙しようとする様な、いつもの荒々しさは無かった。ただ、味わうように千の舌を絡め取る。
「———ん、う」
 苦しくなって息が漏れる。すると毅旺は少しだけ唇を離した。
「———千」
 熱い吐息が、直接唇にかかる。
「痛いだろうが、耐えよ」
 どきりとするまもなく、目の前が、真っ赤に染まった。
 何が起きたのか、分からなかった。毅旺の剣がこの身を貫いたのか。そう思ったが、次の瞬間、身を灼かれる激痛に声も出せず身体を硬直させた。
「稀千君!」
 政尚の叫びが、遠くに聞こえた。
「うっ、あ、ああああああ!」
 今まで感じたこともないような激痛が、全身を駆けめぐった。どこからの痛みなのかも分からない。その場に倒れ込むのを、政尚に抱え込まれる。熱くて、全身が燃えて無くなりそうだ。
 何も考えられない。痛い。熱い。苦しい……。
 息もできず、千の意識は次第に遠のいていった。
 赤く染まった視界の隅で、毅旺がただ、静かに自分を見下ろしていた。
 ああ、一緒に死ぬならせめて、この手を……この手を、握っていてほしいのに。
 伸ばした手に触れるものは、ついに何もなかった。
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