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第8話:逃避の肯定と甘い毒
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麗子が屋敷から逃げ去った後、応接間には再び静寂が戻った。春臣の心には、麗子の去ったことによる明確な解放感が広がっていた。数年にわたる金銭的、そして性的な支配の予感から、彼はついに逃れられたのだ。
「春臣くん」
蒼司は、散らかった応接間を眺めながら、静かに春臣に話しかけた。
「あの俗物は、二度とここへは来ないだろう。透夜の存在が、彼女にとっての異界の恐怖として認識された」
蒼司は、透夜を見た。透夜は春臣の腰に抱きついたまま、無色の瞳で蒼司を見つめている。
「彼は君を守った。だが、その手段は、生者としての倫理に則ったものではない」
蒼司の言葉は、透夜の本質を正確に突いていた。透夜の行動原理は、春臣の安全と、春臣への依存を満たすことだけ。そこには、人間社会のルールや善悪の概念は存在しない。
春臣は透夜の銀色の髪を優しく撫でた。
「でも、僕を救ってくれたのは、事実です。伯母さんがいた現実は、僕にとっての地獄でした」
蒼司は春臣の言葉に反論しなかった。蒼司自身、麗子のような俗物を心底嫌悪しており、春臣が彼女から解放されたことは、望むところだった。だが、その代償として春臣が禁忌の領域へと深く足を踏み入れていることを知っている。
「君は、その異質な存在を、狂気の美として受け入れている。それは、君のアーティストとしての本能か、それとも…」
「愛です」
春臣は即座に、しかし静かに答えた。
「麗子伯母さんの愛は、僕を搾取する毒でした。でも、透夜の依存は、僕の孤独を満たしてくれる。たとえそれが僕の命を削る毒だとしても、僕は彼のそばにいたい」
透夜は春臣の言葉を聞くと、満足したように春臣の指に頬を擦り付けた。その行為は、昨夜よりもさらに人間らしく、春臣の心臓を強く打った。
蒼司はため息をついた。これ以上、春臣の意思に反して透夜を繭に戻すことは、かえって春臣の精神を破綻させるだろう。
「わかった。だが、工房へは近づくな。君の侵食を少しでも遅らせる方法を、私は探す」
蒼司の顔には、師としての責任感と、春臣への密かな情愛が滲んでいた。彼は春臣の才能を愛し、その中性的な美しさを守りたいと願っていた。
麗子の来訪と排除の騒動が収まり、屋敷には以前よりも一層、濃密で湿った静けさが満ちるようになった。
春臣は人形制作を再開したが、透夜は以前よりもさらに、春臣から離れようとしなかった。春臣が座れば隣に座り、歩けば一歩遅れてついてくる。まるで、春臣という生命の灯火から、一瞬でも目を離せば消えてしまうと恐れているかのようだった。
その夜。
春臣が寝台に入ると、透夜は躊躇なく隣に潜り込み、春臣を抱きしめた。
「お兄様、僕から、離れないで」
「離れないよ、透夜」
春臣は透夜の銀色の髪に口付けた。その唇は冷たかったが、春臣の皮膚に触れる場所だけ、春臣自身の熱で微かに温まり始める。
透夜は春臣の肌を求めるように首筋に顔を寄せた。
「もっと、お兄様の全部が欲しい」
その言葉は、まるで春臣の心の声と共鳴するかのように響いた。麗子に全てを奪われそうになった春臣は、今、自らの全てを、この無垢な少年へと献上する喜びを感じていた。
透夜の唇が、春臣の首筋の、白い糸の紋様の上を滑る。そして、昨夜よりも少し強く、春臣の皮膚を吸った。
春臣は甘い痛みに息を呑んだ。体内の温かい生命力が、ゆっくりと引き出されていく感覚。それは紛れもなく、彼自身が**「人間」でなくなっていく過程**だった。
春臣の身体の白い侵食は、目に見えて進行していた。翌朝、鏡を見た春臣は、自分の右手の甲を覆う、繊細すぎる絹糸の紋様に気づいた。それは、まるで彼自身が、蒼司の工房にある人形の素材へと変貌していくプロセスのようだった。
しかし、春臣の表情には、恐怖よりも、この変質を望む背徳的な陶酔が浮かんでいた。
麗子という**「血と金」の現実から、透夜という「糸と狂気」**の美しさへの逃避――春臣は、破滅へと向かうその道筋を、自らの意思で肯定し始めたのだ。
「春臣くん」
蒼司は、散らかった応接間を眺めながら、静かに春臣に話しかけた。
「あの俗物は、二度とここへは来ないだろう。透夜の存在が、彼女にとっての異界の恐怖として認識された」
蒼司は、透夜を見た。透夜は春臣の腰に抱きついたまま、無色の瞳で蒼司を見つめている。
「彼は君を守った。だが、その手段は、生者としての倫理に則ったものではない」
蒼司の言葉は、透夜の本質を正確に突いていた。透夜の行動原理は、春臣の安全と、春臣への依存を満たすことだけ。そこには、人間社会のルールや善悪の概念は存在しない。
春臣は透夜の銀色の髪を優しく撫でた。
「でも、僕を救ってくれたのは、事実です。伯母さんがいた現実は、僕にとっての地獄でした」
蒼司は春臣の言葉に反論しなかった。蒼司自身、麗子のような俗物を心底嫌悪しており、春臣が彼女から解放されたことは、望むところだった。だが、その代償として春臣が禁忌の領域へと深く足を踏み入れていることを知っている。
「君は、その異質な存在を、狂気の美として受け入れている。それは、君のアーティストとしての本能か、それとも…」
「愛です」
春臣は即座に、しかし静かに答えた。
「麗子伯母さんの愛は、僕を搾取する毒でした。でも、透夜の依存は、僕の孤独を満たしてくれる。たとえそれが僕の命を削る毒だとしても、僕は彼のそばにいたい」
透夜は春臣の言葉を聞くと、満足したように春臣の指に頬を擦り付けた。その行為は、昨夜よりもさらに人間らしく、春臣の心臓を強く打った。
蒼司はため息をついた。これ以上、春臣の意思に反して透夜を繭に戻すことは、かえって春臣の精神を破綻させるだろう。
「わかった。だが、工房へは近づくな。君の侵食を少しでも遅らせる方法を、私は探す」
蒼司の顔には、師としての責任感と、春臣への密かな情愛が滲んでいた。彼は春臣の才能を愛し、その中性的な美しさを守りたいと願っていた。
麗子の来訪と排除の騒動が収まり、屋敷には以前よりも一層、濃密で湿った静けさが満ちるようになった。
春臣は人形制作を再開したが、透夜は以前よりもさらに、春臣から離れようとしなかった。春臣が座れば隣に座り、歩けば一歩遅れてついてくる。まるで、春臣という生命の灯火から、一瞬でも目を離せば消えてしまうと恐れているかのようだった。
その夜。
春臣が寝台に入ると、透夜は躊躇なく隣に潜り込み、春臣を抱きしめた。
「お兄様、僕から、離れないで」
「離れないよ、透夜」
春臣は透夜の銀色の髪に口付けた。その唇は冷たかったが、春臣の皮膚に触れる場所だけ、春臣自身の熱で微かに温まり始める。
透夜は春臣の肌を求めるように首筋に顔を寄せた。
「もっと、お兄様の全部が欲しい」
その言葉は、まるで春臣の心の声と共鳴するかのように響いた。麗子に全てを奪われそうになった春臣は、今、自らの全てを、この無垢な少年へと献上する喜びを感じていた。
透夜の唇が、春臣の首筋の、白い糸の紋様の上を滑る。そして、昨夜よりも少し強く、春臣の皮膚を吸った。
春臣は甘い痛みに息を呑んだ。体内の温かい生命力が、ゆっくりと引き出されていく感覚。それは紛れもなく、彼自身が**「人間」でなくなっていく過程**だった。
春臣の身体の白い侵食は、目に見えて進行していた。翌朝、鏡を見た春臣は、自分の右手の甲を覆う、繊細すぎる絹糸の紋様に気づいた。それは、まるで彼自身が、蒼司の工房にある人形の素材へと変貌していくプロセスのようだった。
しかし、春臣の表情には、恐怖よりも、この変質を望む背徳的な陶酔が浮かんでいた。
麗子という**「血と金」の現実から、透夜という「糸と狂気」**の美しさへの逃避――春臣は、破滅へと向かうその道筋を、自らの意思で肯定し始めたのだ。
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