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第2話 守護者の食卓
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シミーとの生活が始まって、一週間が経った。
「ただいま、シミー。今日は店長に怒られちゃってさ」
僕はコンビニの廃棄弁当をちゃぶ台に置き、壁に向かって話しかけるのが日課になっていた。
シミーは、出会った頃より二回りほど大きくなっていた。
最初は親指の先ほどだったのが、今は卵くらいのサイズになっている。色も濃くなり、まるでタールを塗りたくったような艶(つや)が出てきた。
何よりの変化は、その「表情」だ。
僕が話しかけると、シミーは壁の上を数ミリ単位でモゾモゾと動く。
愚痴をこぼせば「口」をへの字に曲げて同情し、真由美さんの話をすれば「目」を細めてニヤニヤする(ように見える)。
「聞いてよ。今日、ゴミ捨て場で真由美さんの声が聞こえたんだ。誰かと電話してたんだけど……『実家の猫が心配』だって」
僕はコンビニで買ってきた牛乳パックを開け、綿棒に浸した。
シミーの口元へ持っていく。
「優しい人だよな。動物を大事にする人に、悪い人はいないって言うだろ?」
スゥッ……。
シミーは牛乳を一瞬で吸い込んだ。
最近は吸い込みが早い。綿棒一本じゃ足りないようだ。僕はスプーンに牛乳を注ぎ、直接壁に垂らしてみた。
壁を伝って落ちる前に、シミーの黒い体がアメーバのように広がり、液体を受け止める。そして、あっという間に飲み干してしまった。
『もっと』
そんな声が聞こえた気がした。
「すごい食欲だな。育ち盛りか?」
僕は目を細めた。
こうして誰かの食事の世話をしていると、自分が「必要とされている」実感が湧いてくる。
孤独という病には、これ以上ない特効薬だった。
その夜のことだ。
深夜二時。
ヘッドホンを外して寝ようとした僕は、部屋の隅で「カサカサ」という乾いた音がするのを耳にした。
「……!」
全身の毛が逆立った。
このボロアパートに住んで三年、幾度となく僕を恐怖のどん底に叩き落としてきた、あの音だ。
カサッ、カサカサッ……。
音の発生源は、タンスの裏。
僕は恐る恐るスマホのライトを向けた。
そこにいたのは、黒光りする悪魔——ゴキブリだった。しかも、親指大の特大サイズだ。
「う、わぁぁぁぁっ!」
僕は情けない悲鳴を上げて飛び退いた。
虫は大の苦手だ。殺すどころか、視界に入れるだけで心臓が止まりそうになる。
殺虫スプレーは……切らしていたんだった。丸めた雑誌? 無理だ、近づけない。潰した感触なんて想像しただけで吐き気がする。
「あっち行け! 出てけよ!」
僕がバタバタと暴れると、ゴキブリは興奮したのか、あろうことか壁を這い上がり始めた。
向かう先は——シミーがいる場所だ。
「あっ……!」
まずい。シミーは壁に張り付いたままだ。逃げられない。
もしあんな汚い虫に触られたら、シミーが病気になってしまうかもしれない。
「やめろ! そっちに行くな!」
僕は枕を投げつけたが、見当違いの方向に飛んでいった。
ゴキブリは触覚を揺らしながら、シミーへと一直線に迫る。
シミーは動かない。いや、恐怖で竦(すく)んでいるのか?
「シミー!」
ゴキブリが、シミーの黒い体の上に乗り上げた、その瞬間だった。
ジュポッ。
「……え?」
奇妙な音がした。
泥沼に足を取られたような、湿った音。
次の瞬間、ゴキブリの姿が消えていた。
いや、正確には「半分」消えていた。
シミーの体が、まるでゴムのようにぐにゃりと伸びて、ゴキブリの下半身を飲み込んでいたのだ。
ジジジジジッ!
ゴキブリが必死に足をばたつかせる。
だが、シミーの粘液は逃がさない。じわじわと、ゆっくりと、獲物を体内へと引きずり込んでいく。
「た、食べてる……のか?」
僕は呆然と立ち尽くした。
それは捕食だった。
圧倒的な弱者だと思っていた僕のペットが、僕の天敵を一方的に蹂躙(じゅうりん)している。
数分後。
ゴキブリは完全にシミーの中に消えた。
シミーは満足げに少し膨らみ、壁の上でじっとしていた。
「す、すげえ……」
僕は恐る恐る近づいた。
牛乳しか飲まないと思っていたシミーが、肉(虫だけど)を食べた。
本来なら「気味悪い」と思うべき光景かもしれない。
けれど、僕の心に湧き上がったのは、強烈な感動だった。
「僕を、守ってくれたのか?」
僕が怖がっていたから。僕が手出しできなかったから。
シミーが代わりにやってくれたんだ。
「ありがとう……シミー」
僕は震える指で、シミーの体を撫でた。
いつもより温かく、そして微かに硬かった。消化活動をしているのだろうか。
「いい子だ。本当にお前はいい子だよ」
翌朝。
目が覚めると、シミーの足元(?)に、乾燥した「何か」がポロリと落ちていた。
ゴキブリの羽と、硬い脚の部分だけの抜け殻だった。中身は完全に吸い尽くされている。
僕はティッシュでそれを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。
不思議と汚いとは思わなかった。シミーが僕のために戦った勲章のように思えたからだ。
「そうか……牛乳じゃ足りなかったんだな」
僕は冷蔵庫を開け、中身を確認した。
もう賞味期限切れの牛乳を与えるのはやめよう。
あの子は僕の「守護者(ナイト)」だ。もっと栄養のあるものをあげなくちゃ。
「肉、か……」
僕はスーパーのチラシを広げた。
特売のひき肉。鶏のササミ。
シミーはどっちが好きだろうか。
壁のシミーが、期待するように小刻みに震えた気がした。
隣の部屋からは、今日も荒川の怒鳴り声が聞こえてくる。
でも、もう怖くなかった。
僕にはシミーがいる。
いざとなれば、シミーが食べてくれる。
そんな妄想じみた安心感が、僕の歪んだ日常を支え始めていた。
「ただいま、シミー。今日は店長に怒られちゃってさ」
僕はコンビニの廃棄弁当をちゃぶ台に置き、壁に向かって話しかけるのが日課になっていた。
シミーは、出会った頃より二回りほど大きくなっていた。
最初は親指の先ほどだったのが、今は卵くらいのサイズになっている。色も濃くなり、まるでタールを塗りたくったような艶(つや)が出てきた。
何よりの変化は、その「表情」だ。
僕が話しかけると、シミーは壁の上を数ミリ単位でモゾモゾと動く。
愚痴をこぼせば「口」をへの字に曲げて同情し、真由美さんの話をすれば「目」を細めてニヤニヤする(ように見える)。
「聞いてよ。今日、ゴミ捨て場で真由美さんの声が聞こえたんだ。誰かと電話してたんだけど……『実家の猫が心配』だって」
僕はコンビニで買ってきた牛乳パックを開け、綿棒に浸した。
シミーの口元へ持っていく。
「優しい人だよな。動物を大事にする人に、悪い人はいないって言うだろ?」
スゥッ……。
シミーは牛乳を一瞬で吸い込んだ。
最近は吸い込みが早い。綿棒一本じゃ足りないようだ。僕はスプーンに牛乳を注ぎ、直接壁に垂らしてみた。
壁を伝って落ちる前に、シミーの黒い体がアメーバのように広がり、液体を受け止める。そして、あっという間に飲み干してしまった。
『もっと』
そんな声が聞こえた気がした。
「すごい食欲だな。育ち盛りか?」
僕は目を細めた。
こうして誰かの食事の世話をしていると、自分が「必要とされている」実感が湧いてくる。
孤独という病には、これ以上ない特効薬だった。
その夜のことだ。
深夜二時。
ヘッドホンを外して寝ようとした僕は、部屋の隅で「カサカサ」という乾いた音がするのを耳にした。
「……!」
全身の毛が逆立った。
このボロアパートに住んで三年、幾度となく僕を恐怖のどん底に叩き落としてきた、あの音だ。
カサッ、カサカサッ……。
音の発生源は、タンスの裏。
僕は恐る恐るスマホのライトを向けた。
そこにいたのは、黒光りする悪魔——ゴキブリだった。しかも、親指大の特大サイズだ。
「う、わぁぁぁぁっ!」
僕は情けない悲鳴を上げて飛び退いた。
虫は大の苦手だ。殺すどころか、視界に入れるだけで心臓が止まりそうになる。
殺虫スプレーは……切らしていたんだった。丸めた雑誌? 無理だ、近づけない。潰した感触なんて想像しただけで吐き気がする。
「あっち行け! 出てけよ!」
僕がバタバタと暴れると、ゴキブリは興奮したのか、あろうことか壁を這い上がり始めた。
向かう先は——シミーがいる場所だ。
「あっ……!」
まずい。シミーは壁に張り付いたままだ。逃げられない。
もしあんな汚い虫に触られたら、シミーが病気になってしまうかもしれない。
「やめろ! そっちに行くな!」
僕は枕を投げつけたが、見当違いの方向に飛んでいった。
ゴキブリは触覚を揺らしながら、シミーへと一直線に迫る。
シミーは動かない。いや、恐怖で竦(すく)んでいるのか?
「シミー!」
ゴキブリが、シミーの黒い体の上に乗り上げた、その瞬間だった。
ジュポッ。
「……え?」
奇妙な音がした。
泥沼に足を取られたような、湿った音。
次の瞬間、ゴキブリの姿が消えていた。
いや、正確には「半分」消えていた。
シミーの体が、まるでゴムのようにぐにゃりと伸びて、ゴキブリの下半身を飲み込んでいたのだ。
ジジジジジッ!
ゴキブリが必死に足をばたつかせる。
だが、シミーの粘液は逃がさない。じわじわと、ゆっくりと、獲物を体内へと引きずり込んでいく。
「た、食べてる……のか?」
僕は呆然と立ち尽くした。
それは捕食だった。
圧倒的な弱者だと思っていた僕のペットが、僕の天敵を一方的に蹂躙(じゅうりん)している。
数分後。
ゴキブリは完全にシミーの中に消えた。
シミーは満足げに少し膨らみ、壁の上でじっとしていた。
「す、すげえ……」
僕は恐る恐る近づいた。
牛乳しか飲まないと思っていたシミーが、肉(虫だけど)を食べた。
本来なら「気味悪い」と思うべき光景かもしれない。
けれど、僕の心に湧き上がったのは、強烈な感動だった。
「僕を、守ってくれたのか?」
僕が怖がっていたから。僕が手出しできなかったから。
シミーが代わりにやってくれたんだ。
「ありがとう……シミー」
僕は震える指で、シミーの体を撫でた。
いつもより温かく、そして微かに硬かった。消化活動をしているのだろうか。
「いい子だ。本当にお前はいい子だよ」
翌朝。
目が覚めると、シミーの足元(?)に、乾燥した「何か」がポロリと落ちていた。
ゴキブリの羽と、硬い脚の部分だけの抜け殻だった。中身は完全に吸い尽くされている。
僕はティッシュでそれを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。
不思議と汚いとは思わなかった。シミーが僕のために戦った勲章のように思えたからだ。
「そうか……牛乳じゃ足りなかったんだな」
僕は冷蔵庫を開け、中身を確認した。
もう賞味期限切れの牛乳を与えるのはやめよう。
あの子は僕の「守護者(ナイト)」だ。もっと栄養のあるものをあげなくちゃ。
「肉、か……」
僕はスーパーのチラシを広げた。
特売のひき肉。鶏のササミ。
シミーはどっちが好きだろうか。
壁のシミーが、期待するように小刻みに震えた気がした。
隣の部屋からは、今日も荒川の怒鳴り声が聞こえてくる。
でも、もう怖くなかった。
僕にはシミーがいる。
いざとなれば、シミーが食べてくれる。
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