壁のシミを育ててみたら 203号室の怪物

猫森満月

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第2話 守護者の食卓

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 シミーとの生活が始まって、一週間が経った。

「ただいま、シミー。今日は店長に怒られちゃってさ」

 僕はコンビニの廃棄弁当をちゃぶ台に置き、壁に向かって話しかけるのが日課になっていた。
 シミーは、出会った頃より二回りほど大きくなっていた。
 最初は親指の先ほどだったのが、今は卵くらいのサイズになっている。色も濃くなり、まるでタールを塗りたくったような艶(つや)が出てきた。

 何よりの変化は、その「表情」だ。
 僕が話しかけると、シミーは壁の上を数ミリ単位でモゾモゾと動く。
 愚痴をこぼせば「口」をへの字に曲げて同情し、真由美さんの話をすれば「目」を細めてニヤニヤする(ように見える)。

「聞いてよ。今日、ゴミ捨て場で真由美さんの声が聞こえたんだ。誰かと電話してたんだけど……『実家の猫が心配』だって」

 僕はコンビニで買ってきた牛乳パックを開け、綿棒に浸した。
 シミーの口元へ持っていく。

「優しい人だよな。動物を大事にする人に、悪い人はいないって言うだろ?」

 スゥッ……。
 シミーは牛乳を一瞬で吸い込んだ。
 最近は吸い込みが早い。綿棒一本じゃ足りないようだ。僕はスプーンに牛乳を注ぎ、直接壁に垂らしてみた。
 壁を伝って落ちる前に、シミーの黒い体がアメーバのように広がり、液体を受け止める。そして、あっという間に飲み干してしまった。

『もっと』
 そんな声が聞こえた気がした。

「すごい食欲だな。育ち盛りか?」
 僕は目を細めた。
 こうして誰かの食事の世話をしていると、自分が「必要とされている」実感が湧いてくる。
 孤独という病には、これ以上ない特効薬だった。

 その夜のことだ。

 深夜二時。
 ヘッドホンを外して寝ようとした僕は、部屋の隅で「カサカサ」という乾いた音がするのを耳にした。

「……!」

 全身の毛が逆立った。
 このボロアパートに住んで三年、幾度となく僕を恐怖のどん底に叩き落としてきた、あの音だ。

 カサッ、カサカサッ……。

 音の発生源は、タンスの裏。
 僕は恐る恐るスマホのライトを向けた。
 そこにいたのは、黒光りする悪魔——ゴキブリだった。しかも、親指大の特大サイズだ。

「う、わぁぁぁぁっ!」

 僕は情けない悲鳴を上げて飛び退いた。
 虫は大の苦手だ。殺すどころか、視界に入れるだけで心臓が止まりそうになる。
 殺虫スプレーは……切らしていたんだった。丸めた雑誌? 無理だ、近づけない。潰した感触なんて想像しただけで吐き気がする。

「あっち行け! 出てけよ!」

 僕がバタバタと暴れると、ゴキブリは興奮したのか、あろうことか壁を這い上がり始めた。
 向かう先は——シミーがいる場所だ。

「あっ……!」

 まずい。シミーは壁に張り付いたままだ。逃げられない。
 もしあんな汚い虫に触られたら、シミーが病気になってしまうかもしれない。

「やめろ! そっちに行くな!」

 僕は枕を投げつけたが、見当違いの方向に飛んでいった。
 ゴキブリは触覚を揺らしながら、シミーへと一直線に迫る。
 シミーは動かない。いや、恐怖で竦(すく)んでいるのか?

「シミー!」

 ゴキブリが、シミーの黒い体の上に乗り上げた、その瞬間だった。

 ジュポッ。

「……え?」

 奇妙な音がした。
 泥沼に足を取られたような、湿った音。

 次の瞬間、ゴキブリの姿が消えていた。
 いや、正確には「半分」消えていた。
 シミーの体が、まるでゴムのようにぐにゃりと伸びて、ゴキブリの下半身を飲み込んでいたのだ。

 ジジジジジッ!
 ゴキブリが必死に足をばたつかせる。
 だが、シミーの粘液は逃がさない。じわじわと、ゆっくりと、獲物を体内へと引きずり込んでいく。

「た、食べてる……のか?」

 僕は呆然と立ち尽くした。
 それは捕食だった。
 圧倒的な弱者だと思っていた僕のペットが、僕の天敵を一方的に蹂躙(じゅうりん)している。

 数分後。
 ゴキブリは完全にシミーの中に消えた。
 シミーは満足げに少し膨らみ、壁の上でじっとしていた。

「す、すげえ……」

 僕は恐る恐る近づいた。
 牛乳しか飲まないと思っていたシミーが、肉(虫だけど)を食べた。
 本来なら「気味悪い」と思うべき光景かもしれない。
 けれど、僕の心に湧き上がったのは、強烈な感動だった。

「僕を、守ってくれたのか?」

 僕が怖がっていたから。僕が手出しできなかったから。
 シミーが代わりにやってくれたんだ。

「ありがとう……シミー」

 僕は震える指で、シミーの体を撫でた。
 いつもより温かく、そして微かに硬かった。消化活動をしているのだろうか。

「いい子だ。本当にお前はいい子だよ」

 翌朝。
 目が覚めると、シミーの足元(?)に、乾燥した「何か」がポロリと落ちていた。
 ゴキブリの羽と、硬い脚の部分だけの抜け殻だった。中身は完全に吸い尽くされている。

 僕はティッシュでそれを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。
 不思議と汚いとは思わなかった。シミーが僕のために戦った勲章のように思えたからだ。

「そうか……牛乳じゃ足りなかったんだな」

 僕は冷蔵庫を開け、中身を確認した。
 もう賞味期限切れの牛乳を与えるのはやめよう。
 あの子は僕の「守護者(ナイト)」だ。もっと栄養のあるものをあげなくちゃ。

「肉、か……」

 僕はスーパーのチラシを広げた。
 特売のひき肉。鶏のササミ。
 シミーはどっちが好きだろうか。

 壁のシミーが、期待するように小刻みに震えた気がした。
 隣の部屋からは、今日も荒川の怒鳴り声が聞こえてくる。
 でも、もう怖くなかった。

 僕にはシミーがいる。
 いざとなれば、シミーが食べてくれる。
 そんな妄想じみた安心感が、僕の歪んだ日常を支え始めていた。
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