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後編:写し出される魂
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夜の廃病院は、昼間の陽気な公園とはまるで違う、死の匂いが満ちていた。割れた窓ガラスが、まるで亡者の歯のように月光を反射し、風が吹き抜けるたびに、廊下の奥から誰かの呻き声のような音が聞こえてくる。だが、僕の心は、恐怖よりも「最高の写真が撮れるかもしれない」という、不謹さんな興奮に支配されていた。
僕は、懐中電灯の光を頼りに、手術室、霊安室、そして院長室と、院内のあらゆる場所でシャッターを切り続けた。カシャッ、というシャッター音が響くたび、カメラ本体から、びり、と微かな振動と、誰かの低い唸り声のようなものが聞こえる気がした。
翌日、急いで現像に出した写真を見て、僕は言葉を失った。
そこに写っていたのは、僕が想像していたものを、遥かに超える光景だった。
無数の、半透明の人影。手術台の上で苦悶の表情を浮かべる患者の霊。廊下の隅でうずくまる看護師の霊。院長室の椅子に座り、こちらを睨みつける医師の霊。写真の、ありとあらゆる場所に、この病院で命を落としたであろう死者たちが、ぎっしりとひしめき合っていたのだ。
そして、最も恐ろしかったのは、その全ての霊が、レンズのこちら側──つまり、カメラを構えている僕自身の存在に、気づいているように見えたことだった。
写真を一枚一枚、時系列に沿って見比べていくうちに、僕はさらに背筋が凍るような事実に気づいた。撮影場所が進むにつれて、霊たちの様子が変化しているのだ。最初は、遠くからこちらを窺うように見ていただけの霊たちが、後の写真になるにつれて、だんだんと、じりじりと、僕に近づいてきている。
そして、最後に撮影した一枚。院長室の鏡を撮ったその写真には、僕のすぐ真後ろ、その肩に手を置こうとする、血塗れの白衣を着た医師の霊が、はっきりと写り込んでいた。
その夜から、僕の日常は悪夢に変わった。
誰もいないはずの部屋から、かすかな足音が聞こえる。閉め切った窓が、激しくガタガタと揺れる。そして、風呂場の鏡に、一瞬だけ、見知らぬ老婆の顔が映り込む。
写真に写っていた霊たちが、僕についてきてしまったのだ。
僕は、パニックに陥り、あのカメラをリサイクルショップに叩き返そうとした。だが、店主は首を横に振るだけだった。
「だから言ったろ。そいつは縁起が悪いんだ。何度戻ってきても、俺はもう買い取らねえよ」
他の店を回っても、結果は同じだった。このカメラは、すでに業界では札付きの呪物として有名になっているらしかった。ゴミとして捨てても、翌朝には必ずアパートの玄関先に戻ってきている。ハンマーで叩き割ろうとしても、なぜか傷一つ付かない。まるで、カメラ自体が、僕から離れることを拒絶しているかのようだった。
そしてある夜、決定的な出来事が起きた。
真夜中にふと目を覚ますと、クローゼットの奥深くに封印したはずのカメラが、僕の枕元に置かれていた。そして、そのファインダーが、月光を反射して、妖しくこちらを覗き込んでいる。
僕は、まるで金縛りにあったように動けなかった。カメラのファインダーを覗くと、そこには、軍服を着た若い男の姿が映っていた。松本一也。彼が、血の気の失せた顔で、僕を見つめている。
『君も、こちらの仲間になるんだ』
脳内に、直接、彼の声が響いた。『このカメラで、死者を撮り続けろ。そうすれば、君の魂も、やがて我々の世界に辿り着ける』
僕は、ようやく全てを理解した。このカメラは、持ち主を撮影者から「被写体」へと変え、死者の世界に引きずり込むための、呪われた罠なのだ。
翌朝、僕はベトナム行きの航空券を予約していた。この呪いを断ち切るには、全ての元凶である、松本一也の魂を解放するしかない。僕は、彼の遺骨を探し出し、きちんと供養することを決意したのだ。
数週間にわたる現地での調査の末、僕は奇跡的にも、古い戦場の跡地で、彼のものと思われる遺骨と認識票を発見することができた。
遺骨を日本に持ち帰り、彼の故郷の墓に納め、静かに手を合わせた。その瞬間、僕の肩にずしりと重くのしかかっていた何かが、ふっと軽くなるのを感じた。バッグの中のカメラから、白い煙のようなものが、一筋だけ立ち上るのが見えた。
それ以来、カメラで写真を撮っても、霊が写ることはなくなった。家の中の怪奇現象も、嘘のようにぴたりと止んだ。
だが、僕はもう二度と、あのカメラのシャッターを切ることはできなかった。ファインダーを覗くたびに、あの無数の死者たちの視線を思い出してしまうからだ。
結局、僕はそのカメラを、戦争資料を専門とする博物館に寄贈した。戦場カメラマン・松本一也の悲劇的な遺品として、静かに眠りについてもらうのが一番だと思ったからだ。
ただ、一つだけ、展示の条件を付けさせてもらった。
『このカメラのファインダーは、決して覗き込まないでください。あなたの魂が、写し取られてしまう恐れがあります』
笑い話のように聞こえるかもしれない。だが、もしあなたが、古いカメラを手にすることがあったなら。
そのレンズが、かつて何を写してきたのか、少しだけ想像してみてほしい。
そのカメラが写したがっているのは、本当に、目の前にある現実の風景だけなのだろうか。
僕は、懐中電灯の光を頼りに、手術室、霊安室、そして院長室と、院内のあらゆる場所でシャッターを切り続けた。カシャッ、というシャッター音が響くたび、カメラ本体から、びり、と微かな振動と、誰かの低い唸り声のようなものが聞こえる気がした。
翌日、急いで現像に出した写真を見て、僕は言葉を失った。
そこに写っていたのは、僕が想像していたものを、遥かに超える光景だった。
無数の、半透明の人影。手術台の上で苦悶の表情を浮かべる患者の霊。廊下の隅でうずくまる看護師の霊。院長室の椅子に座り、こちらを睨みつける医師の霊。写真の、ありとあらゆる場所に、この病院で命を落としたであろう死者たちが、ぎっしりとひしめき合っていたのだ。
そして、最も恐ろしかったのは、その全ての霊が、レンズのこちら側──つまり、カメラを構えている僕自身の存在に、気づいているように見えたことだった。
写真を一枚一枚、時系列に沿って見比べていくうちに、僕はさらに背筋が凍るような事実に気づいた。撮影場所が進むにつれて、霊たちの様子が変化しているのだ。最初は、遠くからこちらを窺うように見ていただけの霊たちが、後の写真になるにつれて、だんだんと、じりじりと、僕に近づいてきている。
そして、最後に撮影した一枚。院長室の鏡を撮ったその写真には、僕のすぐ真後ろ、その肩に手を置こうとする、血塗れの白衣を着た医師の霊が、はっきりと写り込んでいた。
その夜から、僕の日常は悪夢に変わった。
誰もいないはずの部屋から、かすかな足音が聞こえる。閉め切った窓が、激しくガタガタと揺れる。そして、風呂場の鏡に、一瞬だけ、見知らぬ老婆の顔が映り込む。
写真に写っていた霊たちが、僕についてきてしまったのだ。
僕は、パニックに陥り、あのカメラをリサイクルショップに叩き返そうとした。だが、店主は首を横に振るだけだった。
「だから言ったろ。そいつは縁起が悪いんだ。何度戻ってきても、俺はもう買い取らねえよ」
他の店を回っても、結果は同じだった。このカメラは、すでに業界では札付きの呪物として有名になっているらしかった。ゴミとして捨てても、翌朝には必ずアパートの玄関先に戻ってきている。ハンマーで叩き割ろうとしても、なぜか傷一つ付かない。まるで、カメラ自体が、僕から離れることを拒絶しているかのようだった。
そしてある夜、決定的な出来事が起きた。
真夜中にふと目を覚ますと、クローゼットの奥深くに封印したはずのカメラが、僕の枕元に置かれていた。そして、そのファインダーが、月光を反射して、妖しくこちらを覗き込んでいる。
僕は、まるで金縛りにあったように動けなかった。カメラのファインダーを覗くと、そこには、軍服を着た若い男の姿が映っていた。松本一也。彼が、血の気の失せた顔で、僕を見つめている。
『君も、こちらの仲間になるんだ』
脳内に、直接、彼の声が響いた。『このカメラで、死者を撮り続けろ。そうすれば、君の魂も、やがて我々の世界に辿り着ける』
僕は、ようやく全てを理解した。このカメラは、持ち主を撮影者から「被写体」へと変え、死者の世界に引きずり込むための、呪われた罠なのだ。
翌朝、僕はベトナム行きの航空券を予約していた。この呪いを断ち切るには、全ての元凶である、松本一也の魂を解放するしかない。僕は、彼の遺骨を探し出し、きちんと供養することを決意したのだ。
数週間にわたる現地での調査の末、僕は奇跡的にも、古い戦場の跡地で、彼のものと思われる遺骨と認識票を発見することができた。
遺骨を日本に持ち帰り、彼の故郷の墓に納め、静かに手を合わせた。その瞬間、僕の肩にずしりと重くのしかかっていた何かが、ふっと軽くなるのを感じた。バッグの中のカメラから、白い煙のようなものが、一筋だけ立ち上るのが見えた。
それ以来、カメラで写真を撮っても、霊が写ることはなくなった。家の中の怪奇現象も、嘘のようにぴたりと止んだ。
だが、僕はもう二度と、あのカメラのシャッターを切ることはできなかった。ファインダーを覗くたびに、あの無数の死者たちの視線を思い出してしまうからだ。
結局、僕はそのカメラを、戦争資料を専門とする博物館に寄贈した。戦場カメラマン・松本一也の悲劇的な遺品として、静かに眠りについてもらうのが一番だと思ったからだ。
ただ、一つだけ、展示の条件を付けさせてもらった。
『このカメラのファインダーは、決して覗き込まないでください。あなたの魂が、写し取られてしまう恐れがあります』
笑い話のように聞こえるかもしれない。だが、もしあなたが、古いカメラを手にすることがあったなら。
そのレンズが、かつて何を写してきたのか、少しだけ想像してみてほしい。
そのカメラが写したがっているのは、本当に、目の前にある現実の風景だけなのだろうか。
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