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第一章 バネッサ・リッシュモンは、婚約破棄に怒り怯える悪役令嬢である

第二十六話 悪役令嬢、「引く」を知る

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 バネッサは、殿下の溺愛に目を閉ざしている。


「殿下に捨てられたくない……殿下に捨てられたくない……」


 ソファの上でうずくまって、同じことを唱えつづけていた。


「捨てられませんよ、絶対に」


 少し噴出した分でも、あれだけ感情が重いのだ。
 根元にどれほどの激情が眠っているか、計り知れない。


「大丈夫です。殿下は、バネッサ様並に重くて面倒ですから」


  マリーはメイドの身でおこがましいと思いつつも、訂正する気はなかった。


「わたくし、重くもないし、面倒じゃないですもん…………」

「自分を客観視できないって、こういうことなんですね」

「つまり、殿下もそれなりにはわたくしを愛していただいている……? そうですわね……婚約者で居続けさせてくださっていますもの」

「変なところだけ自己肯定感低いのは、なんなんでしょうね。私の話を聞いてください」


 マリーは、殿下との恋愛話にだけアホになる主が憎くなってくる。


「どうすれば……殿下に捨てられず、もっと、がっつり、しっかり、愛していただけると思うかしら……?」


 悲痛そうに問いをぼやく。

 バネッサは本気で悩んでいるのだから、救いようがなかった。

 長年のネガティブ思考を、すぐ矯正することはできないのだろう。

 根深い課題を感じて、メイドは頭に鈍痛がしだした。

 もうひとまず、その場しのぎでもいいから、この会談を終わらせたい。

 こめかみを抑える姿から、そんな意思が読み取れる。


「……良い方法があります。バネッサ様」

「それは何です?!」


 落ち込みから一転、バネが弾けるように食いつく。


「恋愛の常套句『押して駄目なら引いてみろ』ですよ」

「『押してだめなら引いてみろ』?」


 令嬢が初めて聞くような雰囲気で復唱する。


「東方から伝わる格言です。ぽわぽわなお嬢様にもわかるように翻訳しますと、『ギャップ萌えを駆使しろ』でしょうか」

「ギャップ萌えは把握していますわよ。いつも着込んだ殿下が、剣術の稽古後にシャツ一枚で汗を拭う姿は至高の絵画ですもの」


 バネッサの基準は大抵が殿下である。この些細な話でも、彼女が殿下バカだと察しさせた。


「仰っている通りです。いつもと違う姿は新鮮さを与え、気持ちを好調させます。マンネリを防ぐことができるのです」

「なる、ほど……?」

「バネッサ様はいつも押しすぎなんです。公爵令嬢たるもの淑やかたれ、とまでは言いませんが、多少は自重を覚えましょう」

「…………だって、想いが溢れてしまって…………」


 人差し指と人差し指をくっつけて、いじいじと言い訳する。


 バネッサ様、とマリーが声を潜めた。


「追いかけすぎると、殿方は引きます」


 低い声が令嬢の常識を殴る。


「……ですから、一度引いてみましょうよ」


 こうして、マリーは問題を先延ばしにし、バネッサは絶望に打ちひしがれたのだった。



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