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本編
スズキ
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わたしは制服のスカートから針金を二本取り出して、前日練習した通りに鍵穴に挿し込む。
口に咥えた小型のLEDライトで手元を照らしながら慎重に針金を動かして、屋上の扉を解錠する。
夏休み明けの学校の屋上は温い微風だらけで、早朝の日射しはまだ秋度が低い、夏気味の仕様だ。
キョロキョロと辺りに誰もいないことを確認してから、ローファーと靴下を脱いで、隅っこに寄せる。
裸足になってから、網目に手をかけてフェンスをよじ登った。
着地する時に、人差し指が金属と強く擦れてしまい、赤い直線からわずかな血液が滲んだ。
ぺろりと舐めておいた。不味い。
網目を背にして足元は見ないように、正面の青空を眺めながら、ふゆくんの言葉を思い出した。
「でもきっとさぁ。依未ちゃんは、依存できるなら誰でも良かったんだろ。そんな薄っぺらい感情を、僕は愛とは思わない」
確かに、その通りだ。
正直、魚野依未は依存できるなら誰でも良かった。
ふゆくんを選んだ理由は強いて言えば、実家がお金持ちで本人も成績優秀で容姿端麗だったからだろうか。
つまり、ふゆくんが嫌っている、ふゆくんの上っ面しか見ていない有象無象と何も変わらない。
「でも……ふゆくんだって、メンヘラで可哀想で見下せるなら誰でも良かったんだ。ずっと、知ってたんだよ。だってわたしのこと、一度だって信じてくれなかったじゃない」
わたしの感情が、愛じゃなかったら悪いのか。
依存の何がそんなにいけないんだ。
誰かと一緒に居たいって、ただその想いだけは本当なのに、なんでそんなに疑うの。
愛という言葉は神様と同じくらい存在が曖昧だ。
彼は他者からの愛情の有無にどうしてそこまで拘るのだろう。
頭がおかしくなるくらい寂しいのなら、もっとわたしを見てたら良いのに。
余計なものばかり見てるから悲しくなるんだ。
わたしが一緒にいるんだから良いじゃない。
お前が狂ってる?頭がおかしい?
分かってるよ、それくらい。
わたしを通過した空気の群れは、穏やかに熱が籠っている。
わたしはフェンスからゆっくり手を離して、空中に一歩を踏み出した。
重心が前に傾き、重力に逆らわず肉体は地上まで落下していく。
ふゆくんがわたしの好意を疑っていたことは知っている。
わたしはふゆくんや世間に自分の愛情が受け入れられないことを嘆いて、学校の屋上から飛び降りたのではない。
フェンスを越えた辺りで「あ、誰かのために死ぬのって案外怖くないのかも」と、まるで消費期限前のプリンに気づくように閃いてしまった。
ただ、それだけの事だ。
わたし達の関係に世間一般の認める愛が無かったとしても、魚野依未は舟橋雪緒の為に死ねる。
それだけで、充分だろう。
わたしは海の見える街で、善良な小市民のお母さんとお父さんのあいだに生まれた。
お母さんはどこかぼんやりしており時々びっくりするくらい子供っぽい人で、お父さんは無口で何を考えているか良く分からない人だ。
お父さんは小料理屋の板前さんで、お母さんは結婚してからずっと専業主婦をしている。
わたしの人生には精神を脅かすような出来事も、命の危機に晒されるような大きな事件もない。
何の不自由もない生活をしていたはずだ。
しかし、いつからかわたしの世界には闇を凝縮させたかのような暗がりが満ちていた。
この世は、息をするのがどうしても苦しい。
痛いくらいに突き刺さる夕焼けが、教室を照らしていた。
教室の外には人が疎らにいて、校庭からは悲鳴にも似た歓声が上がっている。
目の前の男を見つめたとき、わたしはいつも自分の要領の悪さを恥じた。
見知らぬ誰かの心を打つような才能はない、人並みにもなれないわたしという人間。
彼はわたしをとても惨めな気持ちにさせる。
机の上には、赤い水溜りとカッターナイフ。
わたしの手首の傷からは生臭い魚のような匂いが漂う。
彼は大きな身体を屈めて、わたしの手首をそうっと掴む。
「かわいそう」
彼は悲しそうで、少し嬉しそうな顔をしている。
「どうした。一人で寂しいのかよ」
「分かんない……ずっと、息が苦しいの、暗い場所にいるみたいで……」
「かわいそうに」
わたしは大声で泣き出した。
翡翠色の目がわたしを窺うように覗き込んでくる。
きみを殺したらわたしはある意味解放されるのかもしれない。
目の前の男がムカつくし憎いし、大嫌いだしさっさと消えろって言いたいのに。
開いた口からは嗚咽だけが、まったく言葉にならない厭悪や憤怒や悲愴や孤独が、堰を切ったように流れ続けた。
わたしのことを何一つ知らない癖に知っていた彼は、もう一度だけ「そうか、かわいそうだな」と言う。
涙で何も見えない。
初めて会った人間に可哀想かどうかなんて分かるのだろうかと考えて、分かるくらいわたしは可哀想なのだろうと納得してしまう。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
わたしは本当のわたしと分離しちゃってて、クラスメイトや大人と話すときのわたしはバカっぽいんだけど、それを遠くから冷静に見てる別のわたしがいる。
いま泣いてるのはどっちだろう。
泣き止んでからも彼はわたしの手首を握ったままで、傷口に触れないように優しく撫で続けている。
苛立ち憎みながらも、自分の頬が嬉しさに染まるのを感じていた。
ここまで自分を気にかけてくれる男の子には会ったことがない。
「なにがそんなに辛いんだよ」
「ぜんぶ……ぜんぶつらいの。自分でも、よくわからないけど、ずっと心にぽっかり穴が空いてるみたいで……なんでだろう。なんで」
「なるほどなあ。あー、僕は舟橋雪緒。隣のクラスだから、多分同じ一年生かな」
「舟橋雪緒……じゃあ、ふゆくんだ!」
「はァ?……まあ、いいけど……初対面であだ名呼びって……あなたは意外と距離の詰め方がエグイな……」
「ふゆくん!」
わたしは彼に満面の笑みを向けた。
これは走馬灯というものだろうか。
目まぐるしく頭の中に去来する記憶を慌ただしく受け止めながら、瞼を閉じる。
これは魚野依未、一世一代の賭けだ。
わたしは舟橋雪緒を信じている。
彼がわたしの愛情をいくら疑おうとも、わたしはずっと彼のことを信じていた。
わたしは彼のことを好きだと言いながら、同時に憐れみながら憎んでいたのだ。
そんなわたしの感情は、愛と呼ぶにはあまりにも歪なのかもしれない。
それでも、舟橋雪緒がどうしても欲しかった。
その為なら、わたしの全てをあげる。
わたしは、ほかには、なにもいらない。
口に咥えた小型のLEDライトで手元を照らしながら慎重に針金を動かして、屋上の扉を解錠する。
夏休み明けの学校の屋上は温い微風だらけで、早朝の日射しはまだ秋度が低い、夏気味の仕様だ。
キョロキョロと辺りに誰もいないことを確認してから、ローファーと靴下を脱いで、隅っこに寄せる。
裸足になってから、網目に手をかけてフェンスをよじ登った。
着地する時に、人差し指が金属と強く擦れてしまい、赤い直線からわずかな血液が滲んだ。
ぺろりと舐めておいた。不味い。
網目を背にして足元は見ないように、正面の青空を眺めながら、ふゆくんの言葉を思い出した。
「でもきっとさぁ。依未ちゃんは、依存できるなら誰でも良かったんだろ。そんな薄っぺらい感情を、僕は愛とは思わない」
確かに、その通りだ。
正直、魚野依未は依存できるなら誰でも良かった。
ふゆくんを選んだ理由は強いて言えば、実家がお金持ちで本人も成績優秀で容姿端麗だったからだろうか。
つまり、ふゆくんが嫌っている、ふゆくんの上っ面しか見ていない有象無象と何も変わらない。
「でも……ふゆくんだって、メンヘラで可哀想で見下せるなら誰でも良かったんだ。ずっと、知ってたんだよ。だってわたしのこと、一度だって信じてくれなかったじゃない」
わたしの感情が、愛じゃなかったら悪いのか。
依存の何がそんなにいけないんだ。
誰かと一緒に居たいって、ただその想いだけは本当なのに、なんでそんなに疑うの。
愛という言葉は神様と同じくらい存在が曖昧だ。
彼は他者からの愛情の有無にどうしてそこまで拘るのだろう。
頭がおかしくなるくらい寂しいのなら、もっとわたしを見てたら良いのに。
余計なものばかり見てるから悲しくなるんだ。
わたしが一緒にいるんだから良いじゃない。
お前が狂ってる?頭がおかしい?
分かってるよ、それくらい。
わたしを通過した空気の群れは、穏やかに熱が籠っている。
わたしはフェンスからゆっくり手を離して、空中に一歩を踏み出した。
重心が前に傾き、重力に逆らわず肉体は地上まで落下していく。
ふゆくんがわたしの好意を疑っていたことは知っている。
わたしはふゆくんや世間に自分の愛情が受け入れられないことを嘆いて、学校の屋上から飛び降りたのではない。
フェンスを越えた辺りで「あ、誰かのために死ぬのって案外怖くないのかも」と、まるで消費期限前のプリンに気づくように閃いてしまった。
ただ、それだけの事だ。
わたし達の関係に世間一般の認める愛が無かったとしても、魚野依未は舟橋雪緒の為に死ねる。
それだけで、充分だろう。
わたしは海の見える街で、善良な小市民のお母さんとお父さんのあいだに生まれた。
お母さんはどこかぼんやりしており時々びっくりするくらい子供っぽい人で、お父さんは無口で何を考えているか良く分からない人だ。
お父さんは小料理屋の板前さんで、お母さんは結婚してからずっと専業主婦をしている。
わたしの人生には精神を脅かすような出来事も、命の危機に晒されるような大きな事件もない。
何の不自由もない生活をしていたはずだ。
しかし、いつからかわたしの世界には闇を凝縮させたかのような暗がりが満ちていた。
この世は、息をするのがどうしても苦しい。
痛いくらいに突き刺さる夕焼けが、教室を照らしていた。
教室の外には人が疎らにいて、校庭からは悲鳴にも似た歓声が上がっている。
目の前の男を見つめたとき、わたしはいつも自分の要領の悪さを恥じた。
見知らぬ誰かの心を打つような才能はない、人並みにもなれないわたしという人間。
彼はわたしをとても惨めな気持ちにさせる。
机の上には、赤い水溜りとカッターナイフ。
わたしの手首の傷からは生臭い魚のような匂いが漂う。
彼は大きな身体を屈めて、わたしの手首をそうっと掴む。
「かわいそう」
彼は悲しそうで、少し嬉しそうな顔をしている。
「どうした。一人で寂しいのかよ」
「分かんない……ずっと、息が苦しいの、暗い場所にいるみたいで……」
「かわいそうに」
わたしは大声で泣き出した。
翡翠色の目がわたしを窺うように覗き込んでくる。
きみを殺したらわたしはある意味解放されるのかもしれない。
目の前の男がムカつくし憎いし、大嫌いだしさっさと消えろって言いたいのに。
開いた口からは嗚咽だけが、まったく言葉にならない厭悪や憤怒や悲愴や孤独が、堰を切ったように流れ続けた。
わたしのことを何一つ知らない癖に知っていた彼は、もう一度だけ「そうか、かわいそうだな」と言う。
涙で何も見えない。
初めて会った人間に可哀想かどうかなんて分かるのだろうかと考えて、分かるくらいわたしは可哀想なのだろうと納得してしまう。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
わたしは本当のわたしと分離しちゃってて、クラスメイトや大人と話すときのわたしはバカっぽいんだけど、それを遠くから冷静に見てる別のわたしがいる。
いま泣いてるのはどっちだろう。
泣き止んでからも彼はわたしの手首を握ったままで、傷口に触れないように優しく撫で続けている。
苛立ち憎みながらも、自分の頬が嬉しさに染まるのを感じていた。
ここまで自分を気にかけてくれる男の子には会ったことがない。
「なにがそんなに辛いんだよ」
「ぜんぶ……ぜんぶつらいの。自分でも、よくわからないけど、ずっと心にぽっかり穴が空いてるみたいで……なんでだろう。なんで」
「なるほどなあ。あー、僕は舟橋雪緒。隣のクラスだから、多分同じ一年生かな」
「舟橋雪緒……じゃあ、ふゆくんだ!」
「はァ?……まあ、いいけど……初対面であだ名呼びって……あなたは意外と距離の詰め方がエグイな……」
「ふゆくん!」
わたしは彼に満面の笑みを向けた。
これは走馬灯というものだろうか。
目まぐるしく頭の中に去来する記憶を慌ただしく受け止めながら、瞼を閉じる。
これは魚野依未、一世一代の賭けだ。
わたしは舟橋雪緒を信じている。
彼がわたしの愛情をいくら疑おうとも、わたしはずっと彼のことを信じていた。
わたしは彼のことを好きだと言いながら、同時に憐れみながら憎んでいたのだ。
そんなわたしの感情は、愛と呼ぶにはあまりにも歪なのかもしれない。
それでも、舟橋雪緒がどうしても欲しかった。
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