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本編
マハゼ
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夕日は水平線すれすれまで落ちて、燃えるように赤い。
海原に反射した光が目を眩ます。
この海にはふゆくんがいない、観光客の一人もいなかったけど、不思議と悲しくはなかった。
砂と潮の混じった夏風は涼やかで、赤一色に染まった肌と噛み合うように心地が良い。
わたしはローファーと靴下を脱ぎ、素足で柔らかい砂を踏み締める。
指の隙間に砂が入り込む感触が、やたらとリアルだった。
頭上を流れる雲はいつ見ても既視感がある。
わたしは、この世界で冬を迎えたことが無い。
この海岸では夏と秋のみが訪れて、空は朝焼けと夕焼けを交互に繰り返していた。
随分と規則的な夢だと思う。
こんな夢を見たのは、実家の近くに海があったせいかもしれない。
わたしが目覚めて半年余りが経過した頃には、なんとか車椅子無しで歩けるようになった。
付き添いの人が必要で、杖をつかなければフラフラ覚束無い足元だけど、リハビリはおどろくほど順調だ。
両親不在の日曜日の朝九時頃、我が家のキッチンでは通い妻ならぬ通い夫と化したふゆくんがわたしの為に朝ごはんを作ってくれていた。
清潔感のあるシャツに細身のジーパン、黒色のエプロンを後ろで蝶々結びにしている。
トントントンと豆腐を刻む音。
グリルで魚を焼く甘辛い匂い。
コトコトと鍋が煮えている。
「寝てる時の依未ちゃんは、僕の知らない何処か遠い世界に行ってるみたいだった。たまに目を開けたりするから余計に。脊髄反射でそうするらしいけど、等身大のお人形さんみたいだったよ」
ふゆくんは食卓に朝ごはんを並べながら言う。
パリッとツヤツヤした焼き鮭、葱とわかめと豆腐のお味噌汁、ホカホカの白米。
ふゆくんはわたしの分の箸を並べて、グラスに麦茶を注いでから、向き合うように赤茶色のダイニングチェアに座った。
わたしは手を合わせて、「いただきます」をする。
寝たきり状態で筋力がかなり落ちていた為、まだ瓶の蓋は一人じゃ開けられないけど、飲食くらいは自力で出来るようになったのだ。
湯気をたてる温かなお味噌汁に、ふぅふぅと軽く息をかけてから口をつける。
思わず口から「おいしい」という言葉が自然と溢れた。
すっと染み入る優しい味わいに、胸がいっぱいになる。
視線を間近で合せてみると、彼の瞳は深い森林のような色をしていて綺麗だと思った。
ふゆくんは愛おしそうに目を細めて、わたしを見ている。
黒檀色の艶のある髪と褪せない微笑み。
記憶の中で美化されるなんて一切不要な純正の魅力の塊は、七年の月日を経ても健在だった。
惚れた腫れたの贔屓目を抜いても、大半の人間は対面時に彼の美貌に見惚れてしまう。
「もしかしたらずっと目を覚まさないかもしれない。僕はあのまま依未ちゃんがシワシワのおばあちゃんになっても、最期まであなたの傍に居続けようって思ったんだ」
お母さんから聞いた話によると、ふゆくんはわたしが眠っているあいだ、何度もわたしの名前を呼んで、本の読み聞かせをしていたらしい。
動かない肉体の中にも、周囲を感知する意識はあるはずだと信じていたのだという。
「依未ちゃん、愛してるよ。いっとう大好きだ」
わたしの目が覚めたのは、きっとふゆくんが名前を呼び続けたからだ。
夢の中で寂しくなかったのは、現実のわたしの傍にふゆくんが居てくれたからだろう。
ふゆくんはあの一人ぼっちの海岸から、わたしを攫ってくれたのだ。
わたしは再び手を合わせて、「ごちそうさま」をする。
ふゆくんは空になった食器を片付けて、キッチンの食洗機に並べながら、消え入りそうなほど小さな声で呟く。
「本当に……あなたを試す必要なんて無かったんだ。ずっと分かってた。僕があなたを嫌いになれるはず無いって、分かってたよ。だからね、目を覚ましてくれて僕は嬉しいよ、気狂いになるほど嬉しいよ。あなたのためならこの先どんな犠牲を払ったって構わないよ」
リビングに戻ってきたふゆくんは、フローリングに膝をついてわたしの手を取った。
ふゆくんの細長い指が絡まり、わたしの肌を撫でる。
「依未ちゃん、本当にごめんね。愛してる。愛してるよ。何度伝えても言い足りないんだ。僕はどんな依未ちゃんでも好きだよ」
恋人繋ぎのように握り返すと、ふゆくんの顔に泣き笑いに似た表情が浮かぶ。
この半年間、ふゆくんは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
困っている時に助けてくれるほど、彼は優しい人間ではなかったはずなのに。
「来年になったら結婚式を挙げようね。ドレスはいつ見に行きたい?式場はどこが良い?全部あなたがやりたいようにしよう。お金はいくらかけても良いからさ。結婚式が終わったら、新婚旅行だね。何処に行きたい?国内が良いかな、海外が良いかな。それとも両方がいい?僕が依未ちゃんをどこにでも連れていくよ。それからね、新婚旅行が終わったあとは僕と一緒に暮らそう。大丈夫、お義母様とお義父様の許可は頂いてるからさ」
「ねえ、ふゆくん、今もわたしが好き?……ほんとうに、どんなわたしでもいい?」
「うん。そうだよ。僕はあなたが誰よりも好きなんだ。自分より大事だよ、ずっと愛してる」
「……ほんとうはずっときみのお金目当てで、わたしはきみのことをこれっぽっちも愛してなかったとしても?」
「ああ、もうなりふり構っていられないんだ。気狂いでもいい。どうか僕をあなたの傍に居させて。その為なら何をしたっていい。これからは言うことはなんでも聞く。死ぬまで好きに使ってくれよ。あなたが僕を嫌っていても、ただの都合の良い男だと思っていても、そんなのどうだって良くなるくらい。僕はあなたを世界で一番愛してるよ」
「そっか」
強烈な歓喜に震えながら、わたしはずっと笑うことしかできなかった。
今のわたしときたら、一体どんな笑顔を浮かべているのだろう。
きみの為なら何をされたって、何をしたって心が痛まない。
これで、やっと手に入れられたと思った。
心を壊した不器用を呑み干して、世界の誰よりも愛し合って、わたし達はようやく幸せになれる。
あの日の惜しみない甘い朝陽は、確かに望みを叶えてくれたのだ。
残りの生涯をきみの為のおろかな病人に成り下がって過ごすことと引き換えに。
楽園の陶酔から泥梨の悶絶まで、わたしが奪ってきみが与えたものすべてを余さず享受して、ふたりの空っぽを満たすよろこび。
「僕は、あなたがいなくちゃダメなんだって」
きみの依存に生かされる幸福。
かわいそうなわたし達は、えいえんに一緒。
▼ E N D
海原に反射した光が目を眩ます。
この海にはふゆくんがいない、観光客の一人もいなかったけど、不思議と悲しくはなかった。
砂と潮の混じった夏風は涼やかで、赤一色に染まった肌と噛み合うように心地が良い。
わたしはローファーと靴下を脱ぎ、素足で柔らかい砂を踏み締める。
指の隙間に砂が入り込む感触が、やたらとリアルだった。
頭上を流れる雲はいつ見ても既視感がある。
わたしは、この世界で冬を迎えたことが無い。
この海岸では夏と秋のみが訪れて、空は朝焼けと夕焼けを交互に繰り返していた。
随分と規則的な夢だと思う。
こんな夢を見たのは、実家の近くに海があったせいかもしれない。
わたしが目覚めて半年余りが経過した頃には、なんとか車椅子無しで歩けるようになった。
付き添いの人が必要で、杖をつかなければフラフラ覚束無い足元だけど、リハビリはおどろくほど順調だ。
両親不在の日曜日の朝九時頃、我が家のキッチンでは通い妻ならぬ通い夫と化したふゆくんがわたしの為に朝ごはんを作ってくれていた。
清潔感のあるシャツに細身のジーパン、黒色のエプロンを後ろで蝶々結びにしている。
トントントンと豆腐を刻む音。
グリルで魚を焼く甘辛い匂い。
コトコトと鍋が煮えている。
「寝てる時の依未ちゃんは、僕の知らない何処か遠い世界に行ってるみたいだった。たまに目を開けたりするから余計に。脊髄反射でそうするらしいけど、等身大のお人形さんみたいだったよ」
ふゆくんは食卓に朝ごはんを並べながら言う。
パリッとツヤツヤした焼き鮭、葱とわかめと豆腐のお味噌汁、ホカホカの白米。
ふゆくんはわたしの分の箸を並べて、グラスに麦茶を注いでから、向き合うように赤茶色のダイニングチェアに座った。
わたしは手を合わせて、「いただきます」をする。
寝たきり状態で筋力がかなり落ちていた為、まだ瓶の蓋は一人じゃ開けられないけど、飲食くらいは自力で出来るようになったのだ。
湯気をたてる温かなお味噌汁に、ふぅふぅと軽く息をかけてから口をつける。
思わず口から「おいしい」という言葉が自然と溢れた。
すっと染み入る優しい味わいに、胸がいっぱいになる。
視線を間近で合せてみると、彼の瞳は深い森林のような色をしていて綺麗だと思った。
ふゆくんは愛おしそうに目を細めて、わたしを見ている。
黒檀色の艶のある髪と褪せない微笑み。
記憶の中で美化されるなんて一切不要な純正の魅力の塊は、七年の月日を経ても健在だった。
惚れた腫れたの贔屓目を抜いても、大半の人間は対面時に彼の美貌に見惚れてしまう。
「もしかしたらずっと目を覚まさないかもしれない。僕はあのまま依未ちゃんがシワシワのおばあちゃんになっても、最期まであなたの傍に居続けようって思ったんだ」
お母さんから聞いた話によると、ふゆくんはわたしが眠っているあいだ、何度もわたしの名前を呼んで、本の読み聞かせをしていたらしい。
動かない肉体の中にも、周囲を感知する意識はあるはずだと信じていたのだという。
「依未ちゃん、愛してるよ。いっとう大好きだ」
わたしの目が覚めたのは、きっとふゆくんが名前を呼び続けたからだ。
夢の中で寂しくなかったのは、現実のわたしの傍にふゆくんが居てくれたからだろう。
ふゆくんはあの一人ぼっちの海岸から、わたしを攫ってくれたのだ。
わたしは再び手を合わせて、「ごちそうさま」をする。
ふゆくんは空になった食器を片付けて、キッチンの食洗機に並べながら、消え入りそうなほど小さな声で呟く。
「本当に……あなたを試す必要なんて無かったんだ。ずっと分かってた。僕があなたを嫌いになれるはず無いって、分かってたよ。だからね、目を覚ましてくれて僕は嬉しいよ、気狂いになるほど嬉しいよ。あなたのためならこの先どんな犠牲を払ったって構わないよ」
リビングに戻ってきたふゆくんは、フローリングに膝をついてわたしの手を取った。
ふゆくんの細長い指が絡まり、わたしの肌を撫でる。
「依未ちゃん、本当にごめんね。愛してる。愛してるよ。何度伝えても言い足りないんだ。僕はどんな依未ちゃんでも好きだよ」
恋人繋ぎのように握り返すと、ふゆくんの顔に泣き笑いに似た表情が浮かぶ。
この半年間、ふゆくんは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
困っている時に助けてくれるほど、彼は優しい人間ではなかったはずなのに。
「来年になったら結婚式を挙げようね。ドレスはいつ見に行きたい?式場はどこが良い?全部あなたがやりたいようにしよう。お金はいくらかけても良いからさ。結婚式が終わったら、新婚旅行だね。何処に行きたい?国内が良いかな、海外が良いかな。それとも両方がいい?僕が依未ちゃんをどこにでも連れていくよ。それからね、新婚旅行が終わったあとは僕と一緒に暮らそう。大丈夫、お義母様とお義父様の許可は頂いてるからさ」
「ねえ、ふゆくん、今もわたしが好き?……ほんとうに、どんなわたしでもいい?」
「うん。そうだよ。僕はあなたが誰よりも好きなんだ。自分より大事だよ、ずっと愛してる」
「……ほんとうはずっときみのお金目当てで、わたしはきみのことをこれっぽっちも愛してなかったとしても?」
「ああ、もうなりふり構っていられないんだ。気狂いでもいい。どうか僕をあなたの傍に居させて。その為なら何をしたっていい。これからは言うことはなんでも聞く。死ぬまで好きに使ってくれよ。あなたが僕を嫌っていても、ただの都合の良い男だと思っていても、そんなのどうだって良くなるくらい。僕はあなたを世界で一番愛してるよ」
「そっか」
強烈な歓喜に震えながら、わたしはずっと笑うことしかできなかった。
今のわたしときたら、一体どんな笑顔を浮かべているのだろう。
きみの為なら何をされたって、何をしたって心が痛まない。
これで、やっと手に入れられたと思った。
心を壊した不器用を呑み干して、世界の誰よりも愛し合って、わたし達はようやく幸せになれる。
あの日の惜しみない甘い朝陽は、確かに望みを叶えてくれたのだ。
残りの生涯をきみの為のおろかな病人に成り下がって過ごすことと引き換えに。
楽園の陶酔から泥梨の悶絶まで、わたしが奪ってきみが与えたものすべてを余さず享受して、ふたりの空っぽを満たすよろこび。
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▼ E N D
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