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四
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紳士は名乗らなかった。捨松も同様にした。
アメリカで学んだこと、感じたこと、日本に戻って考えること、文部省への不満、当面の仕事がないこと。思いつくまま、問われるままに話す捨松のことばに、紳士は時折あいづちを打ちながら、真剣に聞き入った。
「仕事がないのは、お困りでしょうな」
「ええ。いまは、資産家の令嬢相手に英語の個人教師の口を探そうと考えておりますの」
「ほう……」
紳士はこれを聞いて、少々考えるそぶりを見せた。こころあたりでもあるのだろうか。身を乗り出しかけた捨松に、紳士は打ち消すようなしぐさをする。
「いや、うちの娘たちに教えていただこうかと考えたのですが、さすがに幼すぎるので」
「おいくつですの?」
「六つと三つと乳飲み子でして」
紳士は照れたように頭をかいた。ちらりとでも、捨松を娘たちの教師にと考えたことを恥じているようだった。
「まあ! さぞやかわいらしいお子さまがたでしょうね」
口元を手で隠して笑う捨松に、紳士は照れ笑い、そして、最後には素直にうなずいた。
「かわいさゆえに、甘やかさずにきちんと教育を施してやらねばと、から回るばかりです。──夏に産褥で妻を亡くしまして、いまは姉が母代わりをつとめてくれていますが、姉も、おのれの受けてこなかった学問までは、さすがに教えられぬものですから」
「奥様を。それは、お気の毒に」
口にしたところで、馬車が止まった。
「着きもしたな」
秘書が言う。首を伸ばして外をのぞけば、確かに山川家の壁が見える。捨松は名残惜しいような気になりながら、礼を述べ、馬車を降りた。女中と並んで、会釈をすると、紳士は応えて軽く手をあげる。馬車が見えなくなるまで、道ばたにたたずんでいたが、さあ、歩こうというときだ。女中が震えていることを知った。
理由を問いただした捨松に、女中は真っ白になった面を上げ、怒りに燃えた目で馬車の去った方向をにらんだ。
「どうして、あのように親しくなさるのですか。薩摩者ではないですか!」
「さつまもん……?」
「捨松嬢様はずっと英語で話されていて、私にはお話の中身もわからないし、もう、気が気ではなかったですよ」
語気強く言いつのられて、捨松は弱った。叱られたことはわかっても、やはり、同郷のはずの女中の方言は聞きとれない。ただ、薩摩ということばは、よく耳になじんでいた。
それは、仇敵を示す語だ。
いましがた別れたばかりの紳士が、会津の城を落とした薩摩の出身だった。会津育ちの女中が言うからには、ほんとうなのだろう。だが、なぜだろう、あまりしっくりと来ない。
やさしく洗練された紳士だった。美丈夫ではなかったが、立派な風格があった。彼はきっと亡き妻をいまだに愛しており、忘れ形見の娘たちをいつくしむ。彼は、軍人にも見えた。もし、彼が得た地位や財産が、鶴ヶ城を攻め落とした功績によるものだとしたら?
──だとしたら、なんだと言うのだろう。
そう考えてすぐ、捨松は片手で口を覆った。即座に、これは口にしてはならぬ考えだと悟った。決して、この女中にも、母にも兄にも漏らしてはならぬことだと思った。
捨松のしぐさを、女中は薩摩者と話してしまったことへの動揺と見たらしい。表情を和らげ、二言三言、慰めを投げかけてくる。しかしながら、捨松のこころが受けたのは、もっと静かで、とても深いところを揺さぶるような衝撃だった。
明治十六年一月、帰国後一か月も経たずに年が明け、捨松は二十四歳になった。
松が外れて間もない十一日、捨松は瓜生家にいた。ふくれっつらの梅子をいなしながら、いずれも留学経験者の仲間と語らうのは、やはり楽しかった。
「挨拶に来るひと来るひと、『今度、よいお話をお持ちします』って言うのよ! わたしが欲しいのはパートナーより仕事なのに!」
「梅子嬢は相変わらず手厳しいな」
ひげを生やした大学教授が、眼鏡の奥で目を細める。捨松より二つうえの箕作氏は、英国留学を経て、位階を授かることが決まっている。彼に笑われては、梅子も捨松も立つ瀬ない。彼には国から用意されている何もかもが、自分たちにはいっさいないのだから。
梅子がますます鼻にしわを寄せる。怒りを感じとった者が捨松のほかにもあったらしい。仲間のひとりが動いた。
「捨松嬢はいかがです? あなたには、実際に縁談があったことでしょう。僕もこの場で名乗りを上げたいくらいだ」
冗談めかした口調で話題の中心から梅子を逃がし、片目をつぶる。話を振られて、捨松は内容に困惑しながらも、正直に答えた。
「これまでに二件、いただきましたわ。どちらも兄が断りましたけれど」
「二件も? ……ああ、でも、断ったなら、僕にもまだ希望がありそうだ」
捨松は眉を寄せてみせた。
「神田様、お戯れが過ぎますわ」
「アメリカでは、居合わせた女性をほめるのはマナーでしたよ」
たしなめられた神田は肩をすくめ、切れ長の目で捨松を見つめた。
「それに、戯れなんかじゃありません」
どきりとして、捨松は視線から逃れようと席を立った。
「風にあたってまいります」
「やあ、ふられたな」
言い残して場を去ろうとする背に、男性陣の神田をからかう声が聞こえる。捨松は急いで庭へ出て、ふうっと深く息をついた。
吐いた息は白く染まり、肌がひりついた。どの木の枝からも葉は落ち、庭には花のひとつもなかった。冬を感じさせる光景を前に、捨松はその場で立ちつくすはめになった。
彼、神田乃武には、実のところ、捨松も一目置いていた。東京帝国大学の英語とラテン語の教授に任じられている神田は、この場にいる仲間うちでも、ひときわ正しくうつくしい英語を話した。日本語を忘れてしまったあの梅子にだって、引けを取らない語学力に、先日はじめて出会ったときにも捨松は非常に感心したのだ。
彼は梅子が日本語に不自由だと知るや、流暢な英語を用いて、ひねくれ者の彼女からことばを引きだした。笑顔がこぼれた妹分のようすに、繁子や捨松がどれほど安心したことか。梅子は、実の親ともうまく意思疎通が図れていなかった。こころを閉ざしかけていた彼女に、「日本語が話せないなら、英語で話せばいいじゃないか。ここにはこんなに仲間がいる」と言ったのは彼だ。
以来、梅子は英語しか話せないことを、たいして恥じないようになった。それがよい変化だったのかはいまもって疑問だが、彼女のこころにはよい影響を与えたように思う。
元来ほがらかな梅子は、この瓜生家に集まる面々のなかでも人気者だ。もっとも若い彼女の振るまいを、みな、異性としてではなく、家族のように受けとめてきた。そこへ来ての、あの神田のことばだったのだ。
擬似的な家族のようなつながりを、彼のひとことが断ち切ってはしまわないか。
捨松は鳴き声に誘われて、庭の木を仰いだ。水色の長い尾をした鳥が枝に留まっている。
「オナガですね。Azure-Winged Magpie」
「マグパイの仲間? あれが?」
白黒の二色の鳥とは、似ても似つかない。答えてから、隣をふりかえる。さきほど、ふりきってきたはずの神田が、自然にそこにたたずんでいた。
「カササギは、古代中国では、牽牛と織女の橋渡しをする鳥です。僕とあなたのあいだも取り持ってくれると、助かるんですけどね」
あまり意識をしたことはなかったが、神田は美男子だった。すっと通った鼻筋に、くっきりとしたアーモンド形の切れ長の目元。笑いながらオナガを見つめる神田の横顔に、捨松は見とれた。だが、口にされた日本語はよくわからなかった。オナガの話をしていたはずなのに、カササギとはどこから来たのだ?
「"One for sorrow." 残念、あなたは、マグパイには、好かれていません」
カササギを数える童謡を引き合いに出して日本語で応戦し、捨松は先にきびすを返す。ふたりきりなんて、とんでもない。
「お先に失礼」
冷ややかに言い捨てて、捨松はまたもや逃げるように、仲間の待つ部屋へと引き取った。
「おや、捨松嬢。早いお帰りで」
箕作氏が片眉を上げる。繁子の夫の瓜生氏も弟の益田氏も、捨松を目にするや、にやにやとしていた顔をさっと引き締めた。
──さては、彼らがそそのかしたのか。
「不道徳です」
「はて、いったい、なんのことやら」
とぼけた箕作氏にあきれ、瓜生氏に目を転じる。目をそらされ、確信する。
だれもかれも、捨松をそこらにいる女性と同じようにしか見ていない。自分たちと同様に留学し、学士号を得た相手だとは、同等の会話ができる相手だとは思っていない。だから平気で神田氏をそそのかして、捨松の尻を追わせようとした。
──許せない。
「ねえ、梅子? ここにいらっしゃるかたがたの英語って、あなたからみて、どの程度かしら」
「──そうね、日常会話には不自由しないよ。わたしの日本語くらいじゃないかしら? ああ、でも、神田様は別ね。彼はとてもネイティブに近いわ」
このあけすけな発言に、居並ぶ留学経験者らが軒並み渋い顔になる。ふんいきが悪くなったのを見て困り顔の繁子をよそに、捨松はわざと場を煽りたてる。
「梅子と同じレベルで話すには、もっと研鑽を積まなくてはね。英語や西洋文化の勉強にもなるし、英文学の朗読会でもいたしませんこと?」
「朗読より演劇がいいな。スティマツ、ヴァッサーでクラブに入っていたそうじゃない」
梅子が無邪気に言う。捨松は、狙いどおりの流れに満足して、にこやかに仲間へと視線を配る。
「ええ、シェークスピア・クラブに入っていたわ。すてきよ、英語演劇って。──そうですわ、みなさまでシェークスピアを演りましょう。どの作品も非常に道徳的ですばらしいとは思いませんか?」
道徳的で、と強調し、微笑むと、こころあたりのあるだろう面々は、それぞれに堅い笑顔を返してくる。シェークスピアといわれても、作品名も上がらないところを見ると、彼らにはあまりなじみがないらしい。
思う存分やりこめて爽快な気分になっていると、捨松の背後でドアが開いた。
「みなさん、どうかしたんですか?」
自分にいくぶん恨めしそうな視線が集まったのをいぶかしみながら、神田は説明を求めてすぐそばの捨松を見下ろした。
「……英語力の向上と道徳教育のために、シェークスピア劇をやることになりましたの」
まっすぐに彼の顔をみられずに、少し目を背けがちに言うと、神田はぱっと華やかに笑い、うなずいた。
「ああ、それは実にいい案だ。『リア王』などの悲劇は人の心情を見事に描く名作揃いですが、『夏の夜の夢』などの喜劇も風刺がきいていて、観ても読んでもおもしろい」
「さすが、英語の教授でいらっしゃるわ」
こころの入らない褒めことばにも、気にすることなく、神田は捨松と目をあわせようとする。それを捨松は避け続けた。
「どうせ演るなら、僕は『ヴェニスの商人』がよいですね」
「そうだね、わたしもあれ、好き!」
諸手を挙げて賛成する梅子をよそに、捨松は首をかしげた。
「大団円で小気味よい筋だとは思いますけれど、なぜ『ヴェニスの商人』なんですの?」
問いかける捨松に、神田はいたずらっぽく笑うだけで、答えを言おうとはしない。
「あなたなら、打てば響くような返事が得られるかと思いましたが、そううまくは転びませんね。次の会合までに読み返されたらいかがですか」
ほんの少しのいじわるに、顔を上げる。ぱちりと視線が合って、やられたと思った。
「い、家には本がありませんの」
どうにか返したが、神田は余裕たっぷりに笑うばかりだ。
「では、僕のをお貸しします。あとでお宅に届けましょう」
目的を見つけた会合はその後、ぐだぐだとしたおしゃべりばかりになり、やがて、散会となった。だが、そのあいだじゅう、捨松は投げかけられた謎が解けず、ただひたすらに時が過ぎるのを──家に帰ってからは、神田の持つ『ヴェニスの商人』が届くのを──そわそわと待ちわびる羽目になった。
アメリカで学んだこと、感じたこと、日本に戻って考えること、文部省への不満、当面の仕事がないこと。思いつくまま、問われるままに話す捨松のことばに、紳士は時折あいづちを打ちながら、真剣に聞き入った。
「仕事がないのは、お困りでしょうな」
「ええ。いまは、資産家の令嬢相手に英語の個人教師の口を探そうと考えておりますの」
「ほう……」
紳士はこれを聞いて、少々考えるそぶりを見せた。こころあたりでもあるのだろうか。身を乗り出しかけた捨松に、紳士は打ち消すようなしぐさをする。
「いや、うちの娘たちに教えていただこうかと考えたのですが、さすがに幼すぎるので」
「おいくつですの?」
「六つと三つと乳飲み子でして」
紳士は照れたように頭をかいた。ちらりとでも、捨松を娘たちの教師にと考えたことを恥じているようだった。
「まあ! さぞやかわいらしいお子さまがたでしょうね」
口元を手で隠して笑う捨松に、紳士は照れ笑い、そして、最後には素直にうなずいた。
「かわいさゆえに、甘やかさずにきちんと教育を施してやらねばと、から回るばかりです。──夏に産褥で妻を亡くしまして、いまは姉が母代わりをつとめてくれていますが、姉も、おのれの受けてこなかった学問までは、さすがに教えられぬものですから」
「奥様を。それは、お気の毒に」
口にしたところで、馬車が止まった。
「着きもしたな」
秘書が言う。首を伸ばして外をのぞけば、確かに山川家の壁が見える。捨松は名残惜しいような気になりながら、礼を述べ、馬車を降りた。女中と並んで、会釈をすると、紳士は応えて軽く手をあげる。馬車が見えなくなるまで、道ばたにたたずんでいたが、さあ、歩こうというときだ。女中が震えていることを知った。
理由を問いただした捨松に、女中は真っ白になった面を上げ、怒りに燃えた目で馬車の去った方向をにらんだ。
「どうして、あのように親しくなさるのですか。薩摩者ではないですか!」
「さつまもん……?」
「捨松嬢様はずっと英語で話されていて、私にはお話の中身もわからないし、もう、気が気ではなかったですよ」
語気強く言いつのられて、捨松は弱った。叱られたことはわかっても、やはり、同郷のはずの女中の方言は聞きとれない。ただ、薩摩ということばは、よく耳になじんでいた。
それは、仇敵を示す語だ。
いましがた別れたばかりの紳士が、会津の城を落とした薩摩の出身だった。会津育ちの女中が言うからには、ほんとうなのだろう。だが、なぜだろう、あまりしっくりと来ない。
やさしく洗練された紳士だった。美丈夫ではなかったが、立派な風格があった。彼はきっと亡き妻をいまだに愛しており、忘れ形見の娘たちをいつくしむ。彼は、軍人にも見えた。もし、彼が得た地位や財産が、鶴ヶ城を攻め落とした功績によるものだとしたら?
──だとしたら、なんだと言うのだろう。
そう考えてすぐ、捨松は片手で口を覆った。即座に、これは口にしてはならぬ考えだと悟った。決して、この女中にも、母にも兄にも漏らしてはならぬことだと思った。
捨松のしぐさを、女中は薩摩者と話してしまったことへの動揺と見たらしい。表情を和らげ、二言三言、慰めを投げかけてくる。しかしながら、捨松のこころが受けたのは、もっと静かで、とても深いところを揺さぶるような衝撃だった。
明治十六年一月、帰国後一か月も経たずに年が明け、捨松は二十四歳になった。
松が外れて間もない十一日、捨松は瓜生家にいた。ふくれっつらの梅子をいなしながら、いずれも留学経験者の仲間と語らうのは、やはり楽しかった。
「挨拶に来るひと来るひと、『今度、よいお話をお持ちします』って言うのよ! わたしが欲しいのはパートナーより仕事なのに!」
「梅子嬢は相変わらず手厳しいな」
ひげを生やした大学教授が、眼鏡の奥で目を細める。捨松より二つうえの箕作氏は、英国留学を経て、位階を授かることが決まっている。彼に笑われては、梅子も捨松も立つ瀬ない。彼には国から用意されている何もかもが、自分たちにはいっさいないのだから。
梅子がますます鼻にしわを寄せる。怒りを感じとった者が捨松のほかにもあったらしい。仲間のひとりが動いた。
「捨松嬢はいかがです? あなたには、実際に縁談があったことでしょう。僕もこの場で名乗りを上げたいくらいだ」
冗談めかした口調で話題の中心から梅子を逃がし、片目をつぶる。話を振られて、捨松は内容に困惑しながらも、正直に答えた。
「これまでに二件、いただきましたわ。どちらも兄が断りましたけれど」
「二件も? ……ああ、でも、断ったなら、僕にもまだ希望がありそうだ」
捨松は眉を寄せてみせた。
「神田様、お戯れが過ぎますわ」
「アメリカでは、居合わせた女性をほめるのはマナーでしたよ」
たしなめられた神田は肩をすくめ、切れ長の目で捨松を見つめた。
「それに、戯れなんかじゃありません」
どきりとして、捨松は視線から逃れようと席を立った。
「風にあたってまいります」
「やあ、ふられたな」
言い残して場を去ろうとする背に、男性陣の神田をからかう声が聞こえる。捨松は急いで庭へ出て、ふうっと深く息をついた。
吐いた息は白く染まり、肌がひりついた。どの木の枝からも葉は落ち、庭には花のひとつもなかった。冬を感じさせる光景を前に、捨松はその場で立ちつくすはめになった。
彼、神田乃武には、実のところ、捨松も一目置いていた。東京帝国大学の英語とラテン語の教授に任じられている神田は、この場にいる仲間うちでも、ひときわ正しくうつくしい英語を話した。日本語を忘れてしまったあの梅子にだって、引けを取らない語学力に、先日はじめて出会ったときにも捨松は非常に感心したのだ。
彼は梅子が日本語に不自由だと知るや、流暢な英語を用いて、ひねくれ者の彼女からことばを引きだした。笑顔がこぼれた妹分のようすに、繁子や捨松がどれほど安心したことか。梅子は、実の親ともうまく意思疎通が図れていなかった。こころを閉ざしかけていた彼女に、「日本語が話せないなら、英語で話せばいいじゃないか。ここにはこんなに仲間がいる」と言ったのは彼だ。
以来、梅子は英語しか話せないことを、たいして恥じないようになった。それがよい変化だったのかはいまもって疑問だが、彼女のこころにはよい影響を与えたように思う。
元来ほがらかな梅子は、この瓜生家に集まる面々のなかでも人気者だ。もっとも若い彼女の振るまいを、みな、異性としてではなく、家族のように受けとめてきた。そこへ来ての、あの神田のことばだったのだ。
擬似的な家族のようなつながりを、彼のひとことが断ち切ってはしまわないか。
捨松は鳴き声に誘われて、庭の木を仰いだ。水色の長い尾をした鳥が枝に留まっている。
「オナガですね。Azure-Winged Magpie」
「マグパイの仲間? あれが?」
白黒の二色の鳥とは、似ても似つかない。答えてから、隣をふりかえる。さきほど、ふりきってきたはずの神田が、自然にそこにたたずんでいた。
「カササギは、古代中国では、牽牛と織女の橋渡しをする鳥です。僕とあなたのあいだも取り持ってくれると、助かるんですけどね」
あまり意識をしたことはなかったが、神田は美男子だった。すっと通った鼻筋に、くっきりとしたアーモンド形の切れ長の目元。笑いながらオナガを見つめる神田の横顔に、捨松は見とれた。だが、口にされた日本語はよくわからなかった。オナガの話をしていたはずなのに、カササギとはどこから来たのだ?
「"One for sorrow." 残念、あなたは、マグパイには、好かれていません」
カササギを数える童謡を引き合いに出して日本語で応戦し、捨松は先にきびすを返す。ふたりきりなんて、とんでもない。
「お先に失礼」
冷ややかに言い捨てて、捨松はまたもや逃げるように、仲間の待つ部屋へと引き取った。
「おや、捨松嬢。早いお帰りで」
箕作氏が片眉を上げる。繁子の夫の瓜生氏も弟の益田氏も、捨松を目にするや、にやにやとしていた顔をさっと引き締めた。
──さては、彼らがそそのかしたのか。
「不道徳です」
「はて、いったい、なんのことやら」
とぼけた箕作氏にあきれ、瓜生氏に目を転じる。目をそらされ、確信する。
だれもかれも、捨松をそこらにいる女性と同じようにしか見ていない。自分たちと同様に留学し、学士号を得た相手だとは、同等の会話ができる相手だとは思っていない。だから平気で神田氏をそそのかして、捨松の尻を追わせようとした。
──許せない。
「ねえ、梅子? ここにいらっしゃるかたがたの英語って、あなたからみて、どの程度かしら」
「──そうね、日常会話には不自由しないよ。わたしの日本語くらいじゃないかしら? ああ、でも、神田様は別ね。彼はとてもネイティブに近いわ」
このあけすけな発言に、居並ぶ留学経験者らが軒並み渋い顔になる。ふんいきが悪くなったのを見て困り顔の繁子をよそに、捨松はわざと場を煽りたてる。
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「朗読より演劇がいいな。スティマツ、ヴァッサーでクラブに入っていたそうじゃない」
梅子が無邪気に言う。捨松は、狙いどおりの流れに満足して、にこやかに仲間へと視線を配る。
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道徳的で、と強調し、微笑むと、こころあたりのあるだろう面々は、それぞれに堅い笑顔を返してくる。シェークスピアといわれても、作品名も上がらないところを見ると、彼らにはあまりなじみがないらしい。
思う存分やりこめて爽快な気分になっていると、捨松の背後でドアが開いた。
「みなさん、どうかしたんですか?」
自分にいくぶん恨めしそうな視線が集まったのをいぶかしみながら、神田は説明を求めてすぐそばの捨松を見下ろした。
「……英語力の向上と道徳教育のために、シェークスピア劇をやることになりましたの」
まっすぐに彼の顔をみられずに、少し目を背けがちに言うと、神田はぱっと華やかに笑い、うなずいた。
「ああ、それは実にいい案だ。『リア王』などの悲劇は人の心情を見事に描く名作揃いですが、『夏の夜の夢』などの喜劇も風刺がきいていて、観ても読んでもおもしろい」
「さすが、英語の教授でいらっしゃるわ」
こころの入らない褒めことばにも、気にすることなく、神田は捨松と目をあわせようとする。それを捨松は避け続けた。
「どうせ演るなら、僕は『ヴェニスの商人』がよいですね」
「そうだね、わたしもあれ、好き!」
諸手を挙げて賛成する梅子をよそに、捨松は首をかしげた。
「大団円で小気味よい筋だとは思いますけれど、なぜ『ヴェニスの商人』なんですの?」
問いかける捨松に、神田はいたずらっぽく笑うだけで、答えを言おうとはしない。
「あなたなら、打てば響くような返事が得られるかと思いましたが、そううまくは転びませんね。次の会合までに読み返されたらいかがですか」
ほんの少しのいじわるに、顔を上げる。ぱちりと視線が合って、やられたと思った。
「い、家には本がありませんの」
どうにか返したが、神田は余裕たっぷりに笑うばかりだ。
「では、僕のをお貸しします。あとでお宅に届けましょう」
目的を見つけた会合はその後、ぐだぐだとしたおしゃべりばかりになり、やがて、散会となった。だが、そのあいだじゅう、捨松は投げかけられた謎が解けず、ただひたすらに時が過ぎるのを──家に帰ってからは、神田の持つ『ヴェニスの商人』が届くのを──そわそわと待ちわびる羽目になった。
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