『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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十六 進路の提案

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 町役場で地域おこし協力隊の三人に委嘱状が交付されたのは、数日後の月曜日、四月十三日のことだ。

 今日が交付式の日だというのを、千草は税務課長との雑談で知った。課長は、決裁書類を手にしたまま、顔をあげ、机越しに千草を見やった。

「深見さんのトコの彼ら、どう?」
「三人三様にクセがありますよ」

 課長は、千草の返答に不満を持ったようだった。

「そうじゃのうて、ものになりそうかと聞いとる」
「どうでしょう。製藍所では、まだ、畑仕事の段階ですから」

 離れに住まう松葉や神田とは食事のときに顔を合わせるが、須原には会っていない。彼女は極力、深見家に滞在しないようにしている。その日の藍草の植え付けが済むと食事も摂らずに帰っていく。町内で早々と家を見つけたとは聞いているが、千草の持つ情報はそこまでだ。

 千草は肩をすくめて話を切り上げ、与えられた作業に戻る。町・県民税の申告書をめくっては、入力された内容に間違いがないかと、地道にチェックを行う。長い時間が過ぎると、数字がゲシュタルト崩壊して、特殊な図形に見えてくるが、だからといって、終わりにはできない。

 前任者が、この入力作業までやっておいてくれて、ほんとうによかった。端末の使いかたも、申告書の表の見方もおぼつかないのに、入力をしろと指示されたら、きっとお手上げだった。

 扶養調査をして、六月には納税通知書を発送する予定なのだと、山田は言う。何をどう調査するのかはわからないし、専門用語の意味を質問しては、その説明のなかによく意味のわからない単語をちょこちょこと挟まれる。つまづいてばかりだが、新しい業務というのはそうしたものだという覚悟はあった。なかには馴染みの深い単語もあるので、それが唯一の救いだった。

 生命保険料控除は、その筆頭だ。前職では、保険の営業をするために試験を受けた。生命保険料控除は、その試験に出てきた単語だ。試験問題に出てきた単語は、他にもいくつか目にしている。そのたびに安心感を覚えつつ、裏では後悔がちらついた。

 安易に退職などするべきではなかったのではないか。別の支店に異動できないかと、打診してみることもできたのではないか。仕事の関係で取得した資格もある。あれを活かせば、東京で他の業種に転職活動をすることだって、できたかもしれない。

 あのときの千草が、ひとりで将来を考えることができなかったのはわかっている。だが、人口の少ない町村部は働き口が少なく、職にあぶれやすい。高給取りといえば、医師か役人。平均年収も都市部には遠く及ばない。

 しかし、松葉や神田に比べれば、千草の決断はそれほど大きなものでもないと考えなおす。東洋海産は大手食品会社で、加工食品の老舗だ。大会社に正社員で入社しながらも、あっさりと辞めてしまえるほどの思いが、彼らのIターンにはある。須原だって、性格はともかく、藍染めの技術を学ぼうという意欲は感じられた。

 きちんと先を見定めて、何かを手に入れるために徳島へやってきた彼らと、すべてを失い、足掻くこともなく故郷に舞い戻った千草。同じ場所にあっても、状況は大違いだ。

 ──給料は要らないから、やっぱり、土日だけでも蒅づくりを手伝わせてもらおう。

 こころざしなんて、持ち合わせていない。千草を突き動かすのは、焦燥感だ。せっかくいま、祖父が初学者にむけて何かを教えようとしているなら、その場に千草もいたかった。後れをとって劣等感に縮こまるくらいなら、邪魔にされてもいっしょに学びたい。彼らと肩を並べられる自分になりたい。

 表情を引きしめると、向かいの席で山田が小さく笑いを漏らす。視線をあげ、そちらを見ると、彼は面白そうな顔をしていた。

「深見さん。やる気がみなぎりよるところ、申し訳ないけんど、今日はそろそろ上がりの時間やけんね」
「は、はいっ」

 単純作業なのをいいことに、頭のなかではずっと他のことを考えていたことぐらい、お見通しだろう。山田は敢えてかどうか、それには触れずに、帰り支度をするよう、千草を促す。

 手元の紙類をまとめ、個人情報の入った文書は鍵のかかる書棚にしまう。動きまわっていると、課長が事務机から声をかけてくる。

「深見さんは、今年の公務員試験受ける?」
「そう、ですね。考えたこともなかったです」

 その手があったか! 一考の余地あり、だ。立ち止まった千草に、しかつめらしい顔をして、課長は手帳をぱらぱらとめくる。

「申し込みはまだ先やな。八月初旬。よければ、去年、うちの甥っ子が使うたテキスト、譲れるけんね」
「うちの役場で無うても構わんけどね、役所はここらでいちばん大きゅうて安定した『会社』だと思うでよ」

 うなずいて、山田が言い添える。課長は、千草の目を見る。

「転覆することもまあ、ないだろうしね。おじいさんも安心なさるんやないかな。三ヶ月ありゃ、体裁はつくけん、一度考えてみるとええ」

 短く返事をして、退勤のあいさつをする。庁舎を出ると、ぷぁ、と、クラクションが鳴るのが聞こえた。
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