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第10話 ぶりの大根煮
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夕方の空がゆっくりと藍色へ変わり始める頃、癒庵(ゆあん)の暖簾がふわりと揺れた。
店内には鰤(ぶり)の旨みと出汁の香りが穏やかに広がり、静かな夜の予感を漂わせている。
カウンターの内側で、佐伯は大根を分厚く切り、鍋の湯へそっと沈めた。
大根は下茹ですることで、より多くの味を吸い込むようになる。
一方で、隣の鍋では霜降りにしたぶりのアラが湯気を立て、出汁と混ざり合って香りを深くしていく。
「……今日のは、よく染みそうだ」
佐伯は、ふっと独り言をこぼす。
ガララン──。
暖簾が揺れ、やや控えめな声が聞こえた。
「こんばんは……空いてますか?」
入ってきたのは、30代後半の女性・森下だった。
落ち着いた雰囲気を持ち、普段は柔らかい笑顔を見せるが、
今日はその笑顔が少し曇っている。
「どうぞ。お好きな席へ」
森下はカウンターに腰を下ろし、白ワインを注文した。
しかしグラスを受け取っても、ほとんど口をつけずに指で縁を撫でるばかり。
佐伯はその様子を見ながら、声をかけるタイミングを見計らう。
やがて森下はぽつり、と呟いた。
「……私って、いつまで経っても“裏方”なんだなって……
今日、思っちゃったんです」
その言葉は、グラスに落ちる溶けた氷のように小さく沈んだ。
佐伯は急かさず、自然な調子で聞く。
「何か……あったんですか?」
森下はため息をつき、俯いたまま口を開いた。
「今日、後輩がすごく大きな仕事を任されて……
みんなに褒められてたんです。
“すごいね”“さすがだね”って」
少しの間を置き、森下は唇をかみしめる。
「……その子、私がずっと支えてきた子なんです。
資料の作り方も、会議の段取りも、細かいこと全部……
でも、誰も……気づかないんですよね。
私は……ただの裏方」
大きな嫉妬ではない。
ただ、深い寂しさが滲み出ていた。
佐伯は静かに耳を傾けた。
森下は少し自嘲気味に笑う。
「主役はあの子で、私は背景……。
“森下さんのおかげ”なんて言葉、一度もなかったなって……
分かってるんです、期待しちゃいけないって。
でも……ね」
その言葉に、佐伯の胸の奥で、
ふっと“美咲”の姿が重なった。
“私は脇役でいいのよ。あなたが頑張ってるのが一番だから”
笑ってそう言いながらも、
本当は寂しさを抱えていたのだと、今なら分かる。
だが当時は、その寂しさに気づけなかった。
胸が少しだけ痛む。
佐伯は気づかれないように小さく息を吸い、
「少し、お待ちください」と席を立った。
厨房に戻り、ぶりの大根煮の鍋の蓋を静かに開ける。
湯気がふわりと立ち上がる。
ぶりの旨みが解け込んだ出汁は琥珀色に輝き、
その中に沈む大根は、透明感のある黄金色になっていた。
「……いい染み具合だ」
佐伯は木べらで大根を返しながら思う。
──ぶりが主役に見えるが、
旨みを受け取った大根こそ、いちばん深い味になる。
まるで、誰かのために働き、
陰で支える人のように。
佐伯はそっと大根とぶりを器に盛り付け、
上から少しだけ生姜をのせた。
そして、いつものように静かにカウンターへ戻る。
「どうぞ」
目の前に置かれた料理を見て、森下は驚いた。
「……これ……頼んでませんけど……?」
佐伯は優しく微笑んだ。
「ええ、サービスです。
ぶりの大根煮は、一見ぶりが主役に見えます。
でもね……一番おいしくなるのは、
ぶりの旨みを吸った“大根”なんです」
森下のまつげが揺れた。
「あなたのように……
静かに誰かを支えてきた人は、
本当は一番味を持っているんですよ」
その言葉は、森下の胸にすうっと染み込んでいく。
森下は箸を取り、大根をそっと口に運んだ。
じゅわ──
出汁と鰤の旨みが広がり、ほっと目を閉じる。
「……あ……これ……
すごく……沁みます……」
そのまま、一粒涙がこぼれた。
「……私……
誰かの“味”になれてるんでしょうか」
佐伯は静かに頷いた。
「なれていますよ。
今、あなたが支えているその
後輩にも……そしてあなた自身にも」
森下は泣き笑いのような表情で、
何度も頷きながら食べ進めた。
会計を済ませ、帰り際に森下は振り返る。
「……ありがとう……大将。
明日、少し胸を張ってみます」
暖簾が揺れ、森下の背中が夜の中へ消える。
佐伯はひとりになり、カウンターをゆっくり拭きながら
ぶりの大根煮の鍋をちらりと見る。
「……美咲も……俺を支えてくれてたんだよな」
その言葉は湯気のように静かに消えた。
店内には鰤と大根の優しい香りが残り、
癒庵の灯は今日も暗がりの中で穏やかに揺れていた。
店内には鰤(ぶり)の旨みと出汁の香りが穏やかに広がり、静かな夜の予感を漂わせている。
カウンターの内側で、佐伯は大根を分厚く切り、鍋の湯へそっと沈めた。
大根は下茹ですることで、より多くの味を吸い込むようになる。
一方で、隣の鍋では霜降りにしたぶりのアラが湯気を立て、出汁と混ざり合って香りを深くしていく。
「……今日のは、よく染みそうだ」
佐伯は、ふっと独り言をこぼす。
ガララン──。
暖簾が揺れ、やや控えめな声が聞こえた。
「こんばんは……空いてますか?」
入ってきたのは、30代後半の女性・森下だった。
落ち着いた雰囲気を持ち、普段は柔らかい笑顔を見せるが、
今日はその笑顔が少し曇っている。
「どうぞ。お好きな席へ」
森下はカウンターに腰を下ろし、白ワインを注文した。
しかしグラスを受け取っても、ほとんど口をつけずに指で縁を撫でるばかり。
佐伯はその様子を見ながら、声をかけるタイミングを見計らう。
やがて森下はぽつり、と呟いた。
「……私って、いつまで経っても“裏方”なんだなって……
今日、思っちゃったんです」
その言葉は、グラスに落ちる溶けた氷のように小さく沈んだ。
佐伯は急かさず、自然な調子で聞く。
「何か……あったんですか?」
森下はため息をつき、俯いたまま口を開いた。
「今日、後輩がすごく大きな仕事を任されて……
みんなに褒められてたんです。
“すごいね”“さすがだね”って」
少しの間を置き、森下は唇をかみしめる。
「……その子、私がずっと支えてきた子なんです。
資料の作り方も、会議の段取りも、細かいこと全部……
でも、誰も……気づかないんですよね。
私は……ただの裏方」
大きな嫉妬ではない。
ただ、深い寂しさが滲み出ていた。
佐伯は静かに耳を傾けた。
森下は少し自嘲気味に笑う。
「主役はあの子で、私は背景……。
“森下さんのおかげ”なんて言葉、一度もなかったなって……
分かってるんです、期待しちゃいけないって。
でも……ね」
その言葉に、佐伯の胸の奥で、
ふっと“美咲”の姿が重なった。
“私は脇役でいいのよ。あなたが頑張ってるのが一番だから”
笑ってそう言いながらも、
本当は寂しさを抱えていたのだと、今なら分かる。
だが当時は、その寂しさに気づけなかった。
胸が少しだけ痛む。
佐伯は気づかれないように小さく息を吸い、
「少し、お待ちください」と席を立った。
厨房に戻り、ぶりの大根煮の鍋の蓋を静かに開ける。
湯気がふわりと立ち上がる。
ぶりの旨みが解け込んだ出汁は琥珀色に輝き、
その中に沈む大根は、透明感のある黄金色になっていた。
「……いい染み具合だ」
佐伯は木べらで大根を返しながら思う。
──ぶりが主役に見えるが、
旨みを受け取った大根こそ、いちばん深い味になる。
まるで、誰かのために働き、
陰で支える人のように。
佐伯はそっと大根とぶりを器に盛り付け、
上から少しだけ生姜をのせた。
そして、いつものように静かにカウンターへ戻る。
「どうぞ」
目の前に置かれた料理を見て、森下は驚いた。
「……これ……頼んでませんけど……?」
佐伯は優しく微笑んだ。
「ええ、サービスです。
ぶりの大根煮は、一見ぶりが主役に見えます。
でもね……一番おいしくなるのは、
ぶりの旨みを吸った“大根”なんです」
森下のまつげが揺れた。
「あなたのように……
静かに誰かを支えてきた人は、
本当は一番味を持っているんですよ」
その言葉は、森下の胸にすうっと染み込んでいく。
森下は箸を取り、大根をそっと口に運んだ。
じゅわ──
出汁と鰤の旨みが広がり、ほっと目を閉じる。
「……あ……これ……
すごく……沁みます……」
そのまま、一粒涙がこぼれた。
「……私……
誰かの“味”になれてるんでしょうか」
佐伯は静かに頷いた。
「なれていますよ。
今、あなたが支えているその
後輩にも……そしてあなた自身にも」
森下は泣き笑いのような表情で、
何度も頷きながら食べ進めた。
会計を済ませ、帰り際に森下は振り返る。
「……ありがとう……大将。
明日、少し胸を張ってみます」
暖簾が揺れ、森下の背中が夜の中へ消える。
佐伯はひとりになり、カウンターをゆっくり拭きながら
ぶりの大根煮の鍋をちらりと見る。
「……美咲も……俺を支えてくれてたんだよな」
その言葉は湯気のように静かに消えた。
店内には鰤と大根の優しい香りが残り、
癒庵の灯は今日も暗がりの中で穏やかに揺れていた。
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