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第18話 筍の土佐煮
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春の匂いがわずかに混じる夜風が、路地裏を抜ける。
季節は確かに冬の名残りを残しているが、
空気の底には土が目覚め始める柔らかい匂いがあった。
癒庵(ゆあん)の小さな灯りがともった頃、
店内には鰹出汁の香りが漂っていた。
佐伯は、大きな鍋を前にして筍の皮を
むいていた。
厚い皮を何枚も剥ぐと、白い身がようやく顔を出す。
指先に触れたそれは少し硬く、そしてどこか荒々しい。
「……まだ、えぐいな」
呟きながら、佐伯は米ぬかを入れた別鍋を火にかけ、
筍をそっと沈める。
沸騰しすぎない火加減で、じんわりとアクを抜いていく。
下処理こそが、筍のすべてを決める。
“急いではいけない”。
“雑に触れてはいけない”。
筍とは、そういう食材だ。
まるで誰かみたいだ──
そんな想いがふと頭をよぎる。
そのときだった。
ガラッ。
乱暴に暖簾が揺れた。
「……空いてます?」
入ってきたのは20代後半ほどの女性だった。
ショートボブで、会社帰りのスーツ。
だがその表情は、仕事の疲れというより
“心の苛立ち” を帯びているように見えた。
「いらっしゃい。どうぞ」
佐伯が声をかけると、女性──香澄は肩を落としながら
重い足取りでカウンターに座った。
「強い酒……ロックで」
短く、刺々しい言い方だった。
佐伯がグラスにウイスキーを注ぐと、
香澄はそれを掴むように持ち、ひと息に飲んだ。
そして、低く呟いた。
「……また、嫌われた」
佐伯は何も言わず、ただ相槌の準備だけをした。
香澄はグラスの氷を揺らしながら、少し笑った。
しかしその笑いは乾いた音だった。
「私、言い方がキツいんですって。
冷たいとか、刺々しいとか……。
悪気、ないんですよ?
でも……気づいたらいつも人を遠ざけちゃう」
“えぐみ”のような性格。
彼女自身がそう思い込んでいるのが、伝わってきた。
「今日も職場で……先輩とちょっと言い合いになって。
私としては普通に意見しただけなんですけど……
『またお前か』って言われて。
はは……もう、疲れちゃいました」
香澄の目は強がっていたが、奥底には弱さが滲んでいた。
それは“誰かに否定され続けた人”の目だった。
佐伯の胸に、あの名前が浮かぶ。
──美咲。
不器用で、素直じゃなくて、
でも本当は誰よりも繊細だった彼女。
自分はその“えぐみ”を理解しきれず、
誤解したまま距離を置いてしまった。
向き合うべきだったのだ。
丁寧に、時間をかけて。
筍のように。
胸が少しだけ痛くなった。
「……少しお待ちください」
佐伯は優しく告げ、厨房へ向かった。
米ぬかで下茹でした筍を水にさらすと、
ほんのりと甘い香りが立ち上る。
それでもまだ少しえぐみは残っていた。
筍の下処理は、
“相手を知る” という行為に似ている。
急いでなにもかも剥がそうとしてもダメだ。
丁寧に、じっくりと、
時間をかけてアクを抜く。
佐伯は鰹出汁を火にかけ、
筍を切り分けて鍋へ落とした。
ふつふつと煮える音。
香りが深まり、えぐみが柔らかさに変わっていく。
筍が“本来の味”を取り戻す瞬間だ。
佐伯は器に盛り、
最後に削り鰹を軽く散らして香りを立たせた。
「どうぞ」
香澄の前に皿を置くと、彼女は目を丸くした。
「……頼んでないですよ?」
佐伯は穏やかに微笑んだ。
「ええ。サービスです。」
香澄は戸惑ったように筍を見つめている。
佐伯は静かに言葉を続けた。
「筍って、しっかり下処理をしないと
えぐみが残ってしまうんです。
でも時間をかけて向き合えば──
こんなにも優しい味になる」
香澄の眉が揺れる。
「人も……同じなんですよ。
尖って見える人ほど、
中には確かな優しさがある。
誤解されてしまうだけなんです」
香澄は息を呑んだ。
震える手で箸を取り、
筍の土佐煮をひと口食べる。
出汁のやさしい香りと、
ほろっと崩れる柔らかい食感。
鰹節の風味が、筍の奥にあった旨みを引き出す。
その瞬間──
香澄は目を見開いた。
そして泣いた。
ポロッ、と大粒の涙が頬を伝い、
彼女は慌てて目を拭った。
「……私……
本当は……優しくしたいんです。
でも、うまく出来なくて……
誤解ばっかりで……
誰か……私の“えぐみ”を分かってくれる人……
本当は……欲しかった」
佐伯は深く頷いた。
「大丈夫です。
ちゃんと向き合ってくれる人は……必ずいます」
その言葉に、香澄は小さく笑った。
「……明日……
一人だけ……話してみます。
誤解されてもいいから……
ちゃんと向き合ってみたい人が、いるんです」
香澄は払いきれない涙を袖で拭い、
ゆっくりと席を立った。
「ごちそうさまです……大将。
こんな味……初めてです」
暖簾が揺れ、香澄の姿が夜に溶けていく。
店内にひとり残され、
佐伯は筍の土佐煮の鍋を見つめた。
「……美咲……
お前の“えぐみ”も……
俺が丁寧に向き合えていれば……
結果は変わっていたのかな……」
湯気がゆらゆらと立ち上り、
その香りの温かさだけが、静かに佐伯を包んだ。
季節は確かに冬の名残りを残しているが、
空気の底には土が目覚め始める柔らかい匂いがあった。
癒庵(ゆあん)の小さな灯りがともった頃、
店内には鰹出汁の香りが漂っていた。
佐伯は、大きな鍋を前にして筍の皮を
むいていた。
厚い皮を何枚も剥ぐと、白い身がようやく顔を出す。
指先に触れたそれは少し硬く、そしてどこか荒々しい。
「……まだ、えぐいな」
呟きながら、佐伯は米ぬかを入れた別鍋を火にかけ、
筍をそっと沈める。
沸騰しすぎない火加減で、じんわりとアクを抜いていく。
下処理こそが、筍のすべてを決める。
“急いではいけない”。
“雑に触れてはいけない”。
筍とは、そういう食材だ。
まるで誰かみたいだ──
そんな想いがふと頭をよぎる。
そのときだった。
ガラッ。
乱暴に暖簾が揺れた。
「……空いてます?」
入ってきたのは20代後半ほどの女性だった。
ショートボブで、会社帰りのスーツ。
だがその表情は、仕事の疲れというより
“心の苛立ち” を帯びているように見えた。
「いらっしゃい。どうぞ」
佐伯が声をかけると、女性──香澄は肩を落としながら
重い足取りでカウンターに座った。
「強い酒……ロックで」
短く、刺々しい言い方だった。
佐伯がグラスにウイスキーを注ぐと、
香澄はそれを掴むように持ち、ひと息に飲んだ。
そして、低く呟いた。
「……また、嫌われた」
佐伯は何も言わず、ただ相槌の準備だけをした。
香澄はグラスの氷を揺らしながら、少し笑った。
しかしその笑いは乾いた音だった。
「私、言い方がキツいんですって。
冷たいとか、刺々しいとか……。
悪気、ないんですよ?
でも……気づいたらいつも人を遠ざけちゃう」
“えぐみ”のような性格。
彼女自身がそう思い込んでいるのが、伝わってきた。
「今日も職場で……先輩とちょっと言い合いになって。
私としては普通に意見しただけなんですけど……
『またお前か』って言われて。
はは……もう、疲れちゃいました」
香澄の目は強がっていたが、奥底には弱さが滲んでいた。
それは“誰かに否定され続けた人”の目だった。
佐伯の胸に、あの名前が浮かぶ。
──美咲。
不器用で、素直じゃなくて、
でも本当は誰よりも繊細だった彼女。
自分はその“えぐみ”を理解しきれず、
誤解したまま距離を置いてしまった。
向き合うべきだったのだ。
丁寧に、時間をかけて。
筍のように。
胸が少しだけ痛くなった。
「……少しお待ちください」
佐伯は優しく告げ、厨房へ向かった。
米ぬかで下茹でした筍を水にさらすと、
ほんのりと甘い香りが立ち上る。
それでもまだ少しえぐみは残っていた。
筍の下処理は、
“相手を知る” という行為に似ている。
急いでなにもかも剥がそうとしてもダメだ。
丁寧に、じっくりと、
時間をかけてアクを抜く。
佐伯は鰹出汁を火にかけ、
筍を切り分けて鍋へ落とした。
ふつふつと煮える音。
香りが深まり、えぐみが柔らかさに変わっていく。
筍が“本来の味”を取り戻す瞬間だ。
佐伯は器に盛り、
最後に削り鰹を軽く散らして香りを立たせた。
「どうぞ」
香澄の前に皿を置くと、彼女は目を丸くした。
「……頼んでないですよ?」
佐伯は穏やかに微笑んだ。
「ええ。サービスです。」
香澄は戸惑ったように筍を見つめている。
佐伯は静かに言葉を続けた。
「筍って、しっかり下処理をしないと
えぐみが残ってしまうんです。
でも時間をかけて向き合えば──
こんなにも優しい味になる」
香澄の眉が揺れる。
「人も……同じなんですよ。
尖って見える人ほど、
中には確かな優しさがある。
誤解されてしまうだけなんです」
香澄は息を呑んだ。
震える手で箸を取り、
筍の土佐煮をひと口食べる。
出汁のやさしい香りと、
ほろっと崩れる柔らかい食感。
鰹節の風味が、筍の奥にあった旨みを引き出す。
その瞬間──
香澄は目を見開いた。
そして泣いた。
ポロッ、と大粒の涙が頬を伝い、
彼女は慌てて目を拭った。
「……私……
本当は……優しくしたいんです。
でも、うまく出来なくて……
誤解ばっかりで……
誰か……私の“えぐみ”を分かってくれる人……
本当は……欲しかった」
佐伯は深く頷いた。
「大丈夫です。
ちゃんと向き合ってくれる人は……必ずいます」
その言葉に、香澄は小さく笑った。
「……明日……
一人だけ……話してみます。
誤解されてもいいから……
ちゃんと向き合ってみたい人が、いるんです」
香澄は払いきれない涙を袖で拭い、
ゆっくりと席を立った。
「ごちそうさまです……大将。
こんな味……初めてです」
暖簾が揺れ、香澄の姿が夜に溶けていく。
店内にひとり残され、
佐伯は筍の土佐煮の鍋を見つめた。
「……美咲……
お前の“えぐみ”も……
俺が丁寧に向き合えていれば……
結果は変わっていたのかな……」
湯気がゆらゆらと立ち上り、
その香りの温かさだけが、静かに佐伯を包んだ。
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