『あなたの悩みに、そっと味付けを』

KAORUwithAI

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第25話 茶碗蒸し

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 夜風が路地へそっと吹き込み、
 癒庵(ゆあん)の暖簾が揺れた。
 昼間の喧騒はすっかり消え、
 この一角はどこか時間がゆっくり流れているようだった。

 店内にはほんのりと出汁の香りが漂っていた。
 佐伯は、蒸し器の前で卵液を漉していた。
 細かい網を通すことで、雑味を取り除き、
 滑らかで美しい茶碗蒸しができあがる。

 卵と出汁を合わせると、琥珀色の液体が静かに揺れた。
 その底には、表面からは見えない旨味が沈んでいる。
 まるで、“人の本音”のように。

 ――強火は厳禁。
   急ぐと“す”が入って台無しになる。
   弱火でじっくり、ゆっくり固める。

 佐伯は蒸し器にそっと火を入れながら、
 誰かの影を思い浮かべていた。

 美咲。
 強がりで、不器用で、でも繊細で。
 他人からは“しっかりしている”と思われていたけれど、
 本当は涙もろく、心が折れやすかった少女。

 (あいつも……こういう適度な火加減で
   見守ってやるべきだったな)

 そんな苦い思いを抱いていた時、
 暖簾がふっと揺れた。

 

 「……こんばんは」

 入ってきたのはスーツ姿の女性だった。
 年齢は30代前半だろうか。
 化粧は整い、髪も乱れていない。
 見た目だけなら完璧なのに──
 その目は、どこか限界ぎりぎりのように見えた。

 「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

 女性は軽く頷くと、
 まるで力の抜けた糸のように椅子へ腰掛けた。

 「……熱いもの、ありますか」

 その声が弱々しかった。

 「ありますよ。ゆっくりしていってください」

 佐伯が湯呑みを置くと、
 女性は両手で包み込むように持ち、息を吐いた。

 「はぁ……」

 深く沈んだ溜息。
 心の底から漏れた音だった。

 「私……坂井と言います。
   今日はちょっと、限界で……」

 佐伯は相槌を打つだけで、急かさない。

 坂井は湯呑みを見つめたまま続けた。

 「私……上司にも部下にも“しっかりしろ”って言われるんです。
   強そうに見えるんでしょうね。
   でも……本当は……毎日押しつぶされそうで……」

 声が震えていた。

 「弱音を言える人もいなくて……
   頼れる人もいなくて……
   でも“弱い自分”を見せたくなくて……
   もう、どうしたらいいのか分からないんです……」

 その言葉は、誰かにやっと吐き出した“初めての弱音”のようだった。

 佐伯は静かに聞きながら、
 美咲の面影を重ねていた。

 (美咲も……強がりだったな)

 泣きたいときでも笑って「平気」と言ってしまう。
 苦しいときほど“しっかりしなきゃ”と思い込んでしまう。
 そのせいで、壊れてしまった部分があった。

 

 「……少しお待ちください」

 佐伯はそう言って、蒸し器の前へ戻った。

 

 卵液の表面に、小さな泡が浮いている。
 スプーンでそっとすくい取る。

 泡は“す(巣)”の原因になる。
 つまり、弱さのようでいて、放っておくと傷になるもの。
 茶碗蒸しは、その少しの泡も見逃さないことが大切だ。

 蒸し器のふたを開け、
 温度を確認しながら卵液の入った茶碗をそっと並べる。

 火加減は弱火。
 10分、いや今日は少し温度が高いから8分で様子を見る。

 「表面が揺れてても、
   中には……しっかり芯ができてるもんだ」

 美咲の姿が重なる。
 彼女も表面は震えていたが、
 誰よりも強い芯を持っていた。

 

 蒸し器から立ち昇る優しい蒸気が、
 店内の空気を温かく包んでいく。

 

 やがら蒸しあがった茶碗蒸しを取り出し、
 坂井の前へ静かに置いた。

 

 「どうぞ」

 坂井は驚いたように目を見開いた。

 「……これ、頼んでないです……」

 佐伯は微笑みながら言った。

 「ええ。サービスです。」

 

 坂井は、しばらく器を見つめていた。
 その表面は美しく、つるりとしていて、
 ひとつの乱れもない。

 佐伯はそっと話し始めた。

 「茶碗蒸しって……火加減が難しいんです。
   強火にすると“す”ができて、
   中がぐちゃぐちゃになってしまう。
   弱すぎてもうまく固まらない」

 坂井は息を呑んだような表情をした。

 「でも……
   ちょうどいい温度で、
   時間をかけてあげると──
   表面は揺れていても、中はちゃんと“固まる”んです」

 坂井の目に、涙が浮かんだ。

 佐伯は言葉を続けた。

 「人も同じですよ。
   強く見えても……
   中身は、ゆっくり……ゆっくり固まるんです。
   焦ると壊れてしまう。
   でも、丁寧に扱えば……
   こんなに優しい形になる」

 坂井は唇を震わせて言った。

 「……私……弱くてもいいんでしょうか」

 佐伯は静かに頷く。

 「弱さがある人のほうが、優しくなれます。
   強さだけで生きてる人なんて……どこにもいませんよ」

 坂井はスプーンを取り、茶碗蒸しをそっとすくった。

 すくった瞬間、
 とろりとした滑らかさが伝わってくる。

 口に運ぶと……
 出汁の旨味がふわっと広がり、
 卵の優しい甘みが喉を温めていった。

 坂井は涙を流しながら微笑んだ。

 「……こんなに……優しい味……
   久しぶりです……
   私……もう少し、自分に優しくしてあげます……」

 

 会計を済ませた坂井は、
 出口に向かいながら佐伯を振り返った。

 「明日……
   強くじゃなくて、“丁寧に”生きてみます。
   それでいいですよね?」

 佐伯は深く頷いた。

 「もちろんです」

 暖簾が揺れ、坂井は夜の中へ消えていった。

 

 佐伯はひとり残り、
 静まり返った蒸し器を見つめた。

 「美咲……
   お前も……
   強がりすぎたよな……」

 返事はない。
 だが、蒸気の温かさだけが
 佐伯の胸にそっと寄り添っているようだった。
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