36 / 179
第1部:序章 - 無名の挑戦
第36話 名刺が足りない
しおりを挟む
国会での初めての会合の日、坂本健人は、議員バッジを胸に付けたまま、長い廊下を歩いていた。廊下の両側には分厚い木の扉が並び、どこからか資料を抱えた秘書や議員が出入りしている。初めて訪れたばかりの場所なのに、もうすっかり慌ただしい戦場の空気が漂っていた。
会場に足を踏み入れた途端、名刺交換の嵐に巻き込まれた。与党のベテラン議員が次々と近づき、秘書たちが手際よく名刺を差し出していく。健人も慌ててポケットから名刺入れを取り出し、両手で差し出した。
「無所属、新人の坂本健人です。よろしくお願いします」
相手はちらりと名刺に目を落としただけで、あとは惰性のようにポケットに入れて去っていく。握手もなければ言葉もない。その背中があっという間に遠ざかるのを見て、健人は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
名刺入れを覗くと、すでに半分以上がなくなっている。最初から印刷費を抑えるために最小限しか刷っていなかったのだ。白地に黒文字で、ただ名前と「無所属」と書いただけのシンプルな名刺。豪華な装飾や金の箔押しを施した他の議員の名刺と比べると、どうしても見劣りしてしまう。
「名刺なんて形だけだよ」
後ろで田島が、あっけらかんとした声で言った。高校時代からの同級生であり、今は健人の陣営を支える仲間だ。
「形だけでも必要なんだ」
健人は苦笑いで返した。どんなに形だけと言われても、この世界では“形式”が入口になる。名刺一枚がなければ、そもそも会話が始まらない。自分の存在を相手に刻むためには、どうしても必要なものだった。
秘書会合に出席した真田は、さらに苦い思いをした。彼は事務処理の補佐に長けており、会合の場で他の議員秘書たちと顔を合わせることになったのだ。そこで「新人議員の名刺はどこも豪華に作るのに」と小馬鹿にするように笑われた。真田は悔しさを飲み込みながら、「豪華さより中身で勝負だ」と心の中で繰り返した。
名刺が切れかけたその日の午後、廊下で立ち話をしていた与党の若手議員が健人に言った。
「名刺が足りないと紹介も広がらないぞ。結局は顔を覚えてもらえない」
冷たい指摘だったが、正しかった。名刺がなければ、自分の名前はすぐに忘れられてしまう。この国会の中で、ただの一人の無所属議員にすぎないのだから。
夜、事務所に戻った健人は、机の上に残った数枚の名刺を見つめていた。真田が提案する。
「今すぐ増刷しましょう。印刷所に頼めば一晩でできます」
しかし田島が現実を突きつけた。
「でも金が……。豪華な名刺にすれば一箱で数万円はかかる。今の資金繰りじゃ、そこに回す余裕はない」
静まり返った空気の中で、健人は自分の名刺を一枚取り上げた。粗末に見える白地の紙切れ。しかし――。
「豪華さよりも、俺の名前を伝えることが大事だ」
その夜、健人は決意を固め、翌朝にはコンビニに向かった。再び自作で印刷を始める。インクが少しにじみ、裁断も粗い。それでも一枚一枚を手で切り揃え、角を整えながら胸を張った。
「これが俺の名刺だ」
昼休み、国会の食堂で偶然隣になった同僚議員にその名刺を渡すと、相手は目を細めた。
「手作りか? 逆に本気を感じるな」
思いがけない言葉に、健人の胸が温かくなる。豪華さではなく、真剣さを見抜いてくれる人もいるのだ。
「見栄えより中身を信じてもらえる名刺にしましょう」
真田が励ます。田島も「質より数だ! どんどん配れ」と背中を押した。
数日後、SNSでは「手作り名刺の新人議員」という小さな話題が広がっていた。写真付きで拡散され、「庶民的で親しみやすい」「逆に好感度が高い」と好意的に受け止められている。
健人は思い返す。「形だけでも必要」と言った自分の言葉。だが今は違った。
「形は魂を映す鏡でもあるんだ」
名刺を配り歩きながら、健人は確信した。これはただの紙切れじゃない。一枚一枚が、市民と政治をつなぐ最初の橋なのだ。
”名刺はただの紙切れじゃない。
それは、声を届けるための最初の橋だ。“
会場に足を踏み入れた途端、名刺交換の嵐に巻き込まれた。与党のベテラン議員が次々と近づき、秘書たちが手際よく名刺を差し出していく。健人も慌ててポケットから名刺入れを取り出し、両手で差し出した。
「無所属、新人の坂本健人です。よろしくお願いします」
相手はちらりと名刺に目を落としただけで、あとは惰性のようにポケットに入れて去っていく。握手もなければ言葉もない。その背中があっという間に遠ざかるのを見て、健人は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
名刺入れを覗くと、すでに半分以上がなくなっている。最初から印刷費を抑えるために最小限しか刷っていなかったのだ。白地に黒文字で、ただ名前と「無所属」と書いただけのシンプルな名刺。豪華な装飾や金の箔押しを施した他の議員の名刺と比べると、どうしても見劣りしてしまう。
「名刺なんて形だけだよ」
後ろで田島が、あっけらかんとした声で言った。高校時代からの同級生であり、今は健人の陣営を支える仲間だ。
「形だけでも必要なんだ」
健人は苦笑いで返した。どんなに形だけと言われても、この世界では“形式”が入口になる。名刺一枚がなければ、そもそも会話が始まらない。自分の存在を相手に刻むためには、どうしても必要なものだった。
秘書会合に出席した真田は、さらに苦い思いをした。彼は事務処理の補佐に長けており、会合の場で他の議員秘書たちと顔を合わせることになったのだ。そこで「新人議員の名刺はどこも豪華に作るのに」と小馬鹿にするように笑われた。真田は悔しさを飲み込みながら、「豪華さより中身で勝負だ」と心の中で繰り返した。
名刺が切れかけたその日の午後、廊下で立ち話をしていた与党の若手議員が健人に言った。
「名刺が足りないと紹介も広がらないぞ。結局は顔を覚えてもらえない」
冷たい指摘だったが、正しかった。名刺がなければ、自分の名前はすぐに忘れられてしまう。この国会の中で、ただの一人の無所属議員にすぎないのだから。
夜、事務所に戻った健人は、机の上に残った数枚の名刺を見つめていた。真田が提案する。
「今すぐ増刷しましょう。印刷所に頼めば一晩でできます」
しかし田島が現実を突きつけた。
「でも金が……。豪華な名刺にすれば一箱で数万円はかかる。今の資金繰りじゃ、そこに回す余裕はない」
静まり返った空気の中で、健人は自分の名刺を一枚取り上げた。粗末に見える白地の紙切れ。しかし――。
「豪華さよりも、俺の名前を伝えることが大事だ」
その夜、健人は決意を固め、翌朝にはコンビニに向かった。再び自作で印刷を始める。インクが少しにじみ、裁断も粗い。それでも一枚一枚を手で切り揃え、角を整えながら胸を張った。
「これが俺の名刺だ」
昼休み、国会の食堂で偶然隣になった同僚議員にその名刺を渡すと、相手は目を細めた。
「手作りか? 逆に本気を感じるな」
思いがけない言葉に、健人の胸が温かくなる。豪華さではなく、真剣さを見抜いてくれる人もいるのだ。
「見栄えより中身を信じてもらえる名刺にしましょう」
真田が励ます。田島も「質より数だ! どんどん配れ」と背中を押した。
数日後、SNSでは「手作り名刺の新人議員」という小さな話題が広がっていた。写真付きで拡散され、「庶民的で親しみやすい」「逆に好感度が高い」と好意的に受け止められている。
健人は思い返す。「形だけでも必要」と言った自分の言葉。だが今は違った。
「形は魂を映す鏡でもあるんだ」
名刺を配り歩きながら、健人は確信した。これはただの紙切れじゃない。一枚一枚が、市民と政治をつなぐ最初の橋なのだ。
”名刺はただの紙切れじゃない。
それは、声を届けるための最初の橋だ。“
2
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる