『総理になった男』

KAORUwithAI

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第4部:政権奪取 - 総理就任

第179話 一票の重さ

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 官邸の控室は、驚くほど静かだった。
 壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 坂本健人は、ネクタイの結び目に指をかけたまま、しばらく動けずにいた。
 鏡に映る自分の顔は、これまで何度も街頭に立ってきた「坂本健人」と変わらないはずなのに、どこかよそよそしい。

 ――首班指名選挙。

 その言葉を思い浮かべるたび、胸の奥がじんわりと重くなる。
 勝ったという実感よりも、「引き受けてしまった」という感覚の方が、はるかに強かった。

 あの日の国会議事堂は、いつも以上に張りつめていた。
 議場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わるのがはっきりと分かった。

 赤じゅうたん。
 高い天井。
 無数の視線。

 かつては、その空間の端に座り、誰にも気づかれず、発言すら許されなかった場所だ。
 今は、その中心に、自分の名前がある。

 健人は議席に座りながら、ふと昔のことを思い出していた。

 初めて本会議に出た日。
 議事録の読み方も分からず、周囲の動きを必死で真似していた自分。
 手を挙げても指名されず、「空気」で順番が決まることを知った日の悔しさ。

 原稿を握る手が震え、声が裏返った初質疑。
 誰も耳を傾けない演説。
 あくびをされた瞬間、頬が焼けるように熱くなったこと。

 ――どうせ一度きりだ。

 あの言葉が、何度も頭の中で反響した。

 それでも、立つことをやめなかった。
 聞かれなくても、言葉を出し続けた。

 健人は、議場の天井を見上げながら思う。
 自分がここまで来られた理由は、才能でも、戦略でもない。

 ただ、逃げなかっただけだ。

 首班指名選挙が始まったとき、健人は不思議なほど落ち着いていた。
 名前が呼ばれる前の、あの一瞬の静寂。
 議場全体が息を潜める、独特の間。

 最初の一票が読み上げられたとき、健人は反射的にペンを握り直した。
 票が増えていくにつれ、喜びではなく、別の感情が胸を満たしていく。

 恐れだ。

 この一票は、期待だ。
 同時に、不安でもある。

 「本当に任せていいのか」
 「他に選択肢はなかったのか」

 そうした無言の問いが、一票一票に重なっているように感じられた。

 健人は知っている。
 全員が自分を信じて投じたわけではない。

 だが、それでいい。
 政治は、満場一致で始まるものではない。

 名前が呼ばれ続け、やがて結果が確定した瞬間。
 議場に広がったざわめきと拍手。

 健人は、その音を真正面から受け止めることができなかった。
 視線は自然と、机の上に落ちていた。

 そこには、何も書かれていない白い紙があった。
 まるで、これから書き込まれるべき未来を待っているかのように。

 控室に戻ったあとも、健人の頭はぼんやりとしていた。
 現実感が、どうしても追いつかない。

 「総理、おめでとうございます」

 その言葉を聞くたびに、健人は小さく会釈するしかなかった。
 祝福されているはずなのに、心のどこかで「まだ早い」と思っている自分がいる。

 田島は、そんな健人を見て、いつものように肩を叩いた。

 「なあ健人。喜べよ。すげぇことだぞ、これ」

 健人は苦笑しながら答えた。

 「分かってる。でもさ……」

 言葉に詰まる。
 何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。

 真田は、少し距離を取って二人を見ていたが、やがて静かに口を開いた。

 「今、実感がないのは当然です。
 これは“到達点”ではありませんから」

 健人は、その言葉にゆっくりとうなずいた。

 首班指名選挙は、ゴールではない。
 むしろ、これまで積み上げてきたものが、試される場所だ。

 国民は、完成品を選んだわけではない。
 「まだ未完成だが、逃げなかった人間」を、もう一度だけ信じてみようとしたのだ。

 だから、この椅子は重い。
 だから、この肩書きは、誇りである前に責任だ。

 健人は、控室の窓から再び国会議事堂を見つめる。
 あの場所で、何度も心を折られ、何度も立ち上がった。

 そして今、同じ建物が、別の顔を見せている。

 だが、建物は変わらない。
 変わるのは、人の姿勢だけだ。

 健人は、机の上の白い紙にペンを走らせる。

 「逃げない」
 「誤魔化さない」
 「聞き続ける」

 それは、総理としての誓いである前に、
 無所属だった頃から変わらない、自分自身との約束だった。

 首班指名の一票は、終わりではない。
 始まりでもない。

 それは、国民が差し出した――
 「続けてみろ」という、静かな合図だ。

 健人はペンを置き、深く息を吸った。

 まだ、やるべきことは山ほどある。
 だが、もう一人ではない。



 ”首班指名の一票は、
 信任ではない。

 それは、
 「もう一度だけ、見てみよう」という
 国民の猶予だ。

 だから私は、
 この重さから逃げない。
 この問いから、目を逸らさない“
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