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序章 堕ちた赤い月
02話◆桜散る
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暖かく柔らかな風に花びらが舞い、アスファルトに薄い絨毯を作る。
儚ささえ感じさせるその景観はとても美しいが、自分には忌まわしいものに思えてならなかった。
桜とは、自分にとって死者の花。
「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け……か」
口をついて出たのは、平安の歌人である上野岑雄が詠んだ歌。
亡くなった親友を悼み、桜に向けて歌ったところ、本当に桜が色褪せて咲いたという逸話がある。
また、西行法師は「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」という歌を詠んだ。
その歌の通り、彼は陰暦二月十六日、花盛り満月の時に亡くなっている。
それ以外にも、桜が美しく咲くのはその下に死体が埋まっているからだと囁かれる辺り、何らかの因縁があるのだろう。
「……陰鬱だな」
そこはかとなく暗い。
この桜に映えるのは陽気に花見をして騒ぐ人間達ではなく血染めの姿だ。
桜から通りへと視線を戻した青年は思わず足を止める。
その先にいたのは、幻想ともこの世のものとも区別のつかない者だった。
後方から吹き付ける風に黒髪が波のように緩くなびく。
白い肌は一点の曇りさえなく透けるようで、唇はほんのりと赤い。
長い睫毛と憂いを宿した大きな瞳に、単に痩せているというにはあまりに華奢な体。
白い日傘を差し、薄い桃色の着物に身を包んだ十五、六歳の少女だ。
見た目の美しさもさることながら彼が最も着目したのは彼女の魂の清純さ──。
欲望に満ちた現世におおよそ似つかわしくない、桜の精か或いは人の姿を借りた神の御使いか──。
だが、彼女は間違いなく穢れに満ちた人間という種族だった。
心臓が不快感を伴いながら疼く。無意識に刀袋を強く握りしめていた。
手にした刀を抜き放ち、その白い肌を血で染め上げたいという狂った衝動が突き上げてくる。
手に提げている刀が、その存在を主張するかのように急に重く感じられた。
(バカなことを考えるな。これは人間を斬るためにあるんじゃないだろ)
言い聞かせるように心の中で呟くが、ざわついた気持ちは一向に落ち着かなかった。
この美しい桜に毒されたか、或いは狐にでも化かされたか。
見極めるように黙視する。
視線に気付いたのか、少女が顔を上げてこちらを向いた。
目が合った瞬間、たった一度ではあるが発作かと錯覚するほど心臓が大きく跳ねる。
己の内で沸き上がっていく感情の正体を確かめようとしていると、桜の花びらが強い風と共に顔に吹き付ける。
反射的に腕で顔を庇い、風が治まるのを待つ。
緩くなった風に腕を下ろすと、ゆるりと舞い落ちる花びらの先にはすでに誰の姿もなかった。
妖に幻覚を見せられていただけだったのだろうか。
彼女のいた場所まで歩を進める。
そこには美しい魂の放つ馥郁が残されていた。
気の遠くなるほどの時を重ねてきたが、これほどまでに芳しい香りは初めてだ。
この自分でさえも揺らいでしまうほどなのだから、格下の魔なら自我が崩壊してしまうだろう。
よく無事に年頃まで生き長らえることができたものだ。
悪運強いのか、あるいは誰かの庇護のもとにあるのか──。
どちらでもいい、自分には関係ないことだ。
青年は再び桜並木を歩き出した。
駆ける足に着物の裾が絡み付く。誰も追い掛けてくる者がないのは幸いだった。
呼吸は乱れ、心臓は警鐘を鳴らすように早鐘を打つ。
早く、少しでもアレから遠いところへ──。
安全な場所に戻らねば。明るいうちはそこまで危険はないだろうと判断して外に出たのは迂闊だった。
基本的に、それらは暗いところや不浄の地に溜まるものだ。
だが昼間でも遭遇する時は遭遇するのだということを思い知らされる。
ようやくたどり着いた病院の敷地を一歩踏み越えると、彼女は上体を僅かに倒して息を整えた。
春だというのに体は冷えきり、背は冷たい汗で濡れている。
細かく震える手と足が情けなくて唇を噛む。
彼女は気持ちを奮い立たせると病院の入口に向かった。
儚ささえ感じさせるその景観はとても美しいが、自分には忌まわしいものに思えてならなかった。
桜とは、自分にとって死者の花。
「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け……か」
口をついて出たのは、平安の歌人である上野岑雄が詠んだ歌。
亡くなった親友を悼み、桜に向けて歌ったところ、本当に桜が色褪せて咲いたという逸話がある。
また、西行法師は「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」という歌を詠んだ。
その歌の通り、彼は陰暦二月十六日、花盛り満月の時に亡くなっている。
それ以外にも、桜が美しく咲くのはその下に死体が埋まっているからだと囁かれる辺り、何らかの因縁があるのだろう。
「……陰鬱だな」
そこはかとなく暗い。
この桜に映えるのは陽気に花見をして騒ぐ人間達ではなく血染めの姿だ。
桜から通りへと視線を戻した青年は思わず足を止める。
その先にいたのは、幻想ともこの世のものとも区別のつかない者だった。
後方から吹き付ける風に黒髪が波のように緩くなびく。
白い肌は一点の曇りさえなく透けるようで、唇はほんのりと赤い。
長い睫毛と憂いを宿した大きな瞳に、単に痩せているというにはあまりに華奢な体。
白い日傘を差し、薄い桃色の着物に身を包んだ十五、六歳の少女だ。
見た目の美しさもさることながら彼が最も着目したのは彼女の魂の清純さ──。
欲望に満ちた現世におおよそ似つかわしくない、桜の精か或いは人の姿を借りた神の御使いか──。
だが、彼女は間違いなく穢れに満ちた人間という種族だった。
心臓が不快感を伴いながら疼く。無意識に刀袋を強く握りしめていた。
手にした刀を抜き放ち、その白い肌を血で染め上げたいという狂った衝動が突き上げてくる。
手に提げている刀が、その存在を主張するかのように急に重く感じられた。
(バカなことを考えるな。これは人間を斬るためにあるんじゃないだろ)
言い聞かせるように心の中で呟くが、ざわついた気持ちは一向に落ち着かなかった。
この美しい桜に毒されたか、或いは狐にでも化かされたか。
見極めるように黙視する。
視線に気付いたのか、少女が顔を上げてこちらを向いた。
目が合った瞬間、たった一度ではあるが発作かと錯覚するほど心臓が大きく跳ねる。
己の内で沸き上がっていく感情の正体を確かめようとしていると、桜の花びらが強い風と共に顔に吹き付ける。
反射的に腕で顔を庇い、風が治まるのを待つ。
緩くなった風に腕を下ろすと、ゆるりと舞い落ちる花びらの先にはすでに誰の姿もなかった。
妖に幻覚を見せられていただけだったのだろうか。
彼女のいた場所まで歩を進める。
そこには美しい魂の放つ馥郁が残されていた。
気の遠くなるほどの時を重ねてきたが、これほどまでに芳しい香りは初めてだ。
この自分でさえも揺らいでしまうほどなのだから、格下の魔なら自我が崩壊してしまうだろう。
よく無事に年頃まで生き長らえることができたものだ。
悪運強いのか、あるいは誰かの庇護のもとにあるのか──。
どちらでもいい、自分には関係ないことだ。
青年は再び桜並木を歩き出した。
駆ける足に着物の裾が絡み付く。誰も追い掛けてくる者がないのは幸いだった。
呼吸は乱れ、心臓は警鐘を鳴らすように早鐘を打つ。
早く、少しでもアレから遠いところへ──。
安全な場所に戻らねば。明るいうちはそこまで危険はないだろうと判断して外に出たのは迂闊だった。
基本的に、それらは暗いところや不浄の地に溜まるものだ。
だが昼間でも遭遇する時は遭遇するのだということを思い知らされる。
ようやくたどり着いた病院の敷地を一歩踏み越えると、彼女は上体を僅かに倒して息を整えた。
春だというのに体は冷えきり、背は冷たい汗で濡れている。
細かく震える手と足が情けなくて唇を噛む。
彼女は気持ちを奮い立たせると病院の入口に向かった。
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