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05 そっちの趣味はなかったはずなのに

株仲間奨励の道は険しく

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02

 王都、飲食店街、シーフードの店“潮音”。
 「はああ…」
 イレーヌはフォークに刺したトマトとにらめっこになりながら大きく嘆息する。
 「あの…イレーヌ様、お口に合いませんか…?」
 向かいの席に座るエクレールが気まずそうに問う。
 「ああ…ごめんなさい。そういうわけじゃないの。とても美味しいわ」
 イレーヌはそう言ってトマトを口に運ぶ。
 実際この店は安い割りには美味しい。
 前菜はワインビネガーを効かせた魚介類のマリネ。
 スープは暑いので冷製のジャガイモのポタージュ。
 主菜はちょっと奮発して伊勢エビの塩ゆで。
 どれも舌鼓を打つに充分だった。
 イレーヌのため息の原因はそこではない。
 「やっぱり先ほどのことをお気になさって?
 その…お食事のときくらいお仕事のことをお忘れになってもいいのでは?」
 「それはそうなのだけど…」
 エクレールの言うとおりとは思うが、イレーヌの頭にはどうしても昼間の会議のことが浮かんでしまうのだ。

 その日は王都や地方の商人を集めての連絡会だった。
 商工会の会議室を借用して、イレーヌが主催となって商人たちと会議を行っていた。
 エクレールも同席している。塩の卸で生計を立てているレジェンヌ伯爵家の娘としての実績を買われたのだ。
 「財務卿補佐閣下のお考えは斬新とは思いますが…」
 「我々の言い分もお聞き頂きたい。
 お客様の反発は怖いのです」
 商人たちはイレーヌが配布したレジュメを読んで渋面を浮かべるばかりだった。
 「ですから、くどいようですが独占や値段のつり上げが目的ではありません。
 流通の活性化のためだと申し上げています。
 現状では塩ひとつ取っても、北部では値段が王都の二倍もします。
 王都では塩が余っているのに、北部では不足しているからこういうことが起きるのです。
 解決すべきとは思われませんか?」
 必死のイレーヌの言葉は、列席する商人たちに届いている様子はなかった。
 イレーヌが貨幣改鋳、灰吹法による金銀の確保に続いて放とうとする三の矢は、株仲間の奨励。ようするに同業者の商人たちを集めてのカルテルの促進だった。
 現状、王国の流通は円滑とは言いがたい。
 中部に険しい山岳地帯を抱えている上に、川を使った移動が活発でない(王国には海がほとんどない立地条件のために、造船や航川のノウハウに乏しい)ため、物が長い距離を移動しにくいのだ。
 それに加え、商人たちがどうにも情弱なのだ。自分の見える範囲でしか商売をしようとしないため、少し離れたところにある需要を見逃してしまっている。
 畢竟、物の相場が北部では南部の倍という事態が起きる。
 流通が活発でなければ商売の規模も利益も当然小さくなる。
 重商主義政策を取り、商人たちから商業税を徴収したい政府財務省にとっては非常にまずいことだった。
 解決策としてイレーヌが考案したのが、株仲間を奨励し、同業者同士で物や情報を共有することで流通の活性化を図ることだった。
 街道の整備や、川を用いた流通の促進とセットで行われる。
 例えば。
 「○○地方で塩が不足してるんですけど」
 「××地方なら塩は余っている。そこから廻そう。値段は…」
 と言う風に、情報や物を共有して蓄積できるメリットは大きいのだ。
 それに加えて、悪質な商人を示し合わせて市場から閉め出すことも期待できる。不正や犯罪を行えば商売ができなくなるとなれば、商人たちの倫理観の保持にも資するのだ。
 前世で歴女だった記憶を元に、イレーヌなりに考えた策だ。

 株仲間は日本においては江戸時代中期に自然発生的に組織されたカルテルで、やがて市場を席巻する規模になった。
 江戸幕府と株仲間の関係は時代によって大きく異なった。
 株仲間黎明期の将軍徳川吉宗は、消極的だが容認。質素倹約路線を取っていた上に、物価の乱高下に悩んでいた吉宗の政権の下では、カルテルは物価の安定にそこそこ有効だったのだ。
 老中田沼意次は、停滞気味の株仲間を積極的に奨励する策に出た。税収の元を農業税から商業税にシフトする政策のためには、流通を活性化させて商人たちに利益を上げてもらわなければならなかったからだ。
 改革の失敗者として悪名高い松平定信や水野忠邦は、経済の仕組みをろくに理解しないままに株仲間の解散を強行。結果、流通を停滞させて混乱と不況を引き起こしている。
 イレーヌが実行しようとしているのは、上記の内、田沼意次の時代の政策を真似たものだ。
 田沼意次は、従前は評価が低かった。
 幕府の税収のことだけ考えて物価のつり上げを容認した。
 賄賂政治を引き起こし、世の中を腐敗させた。などなど。
 しかし、田沼の悪評は彼の失脚後に政敵であった松平定信らによって流布された可能性が高い。実は賄賂政治を批判した松平定信をして、贈収賄の当事者だったのだ。
 また、田沼時代には災害が立て続けに日本を襲っている。当時、災害が起こるのは政治が不徳だからと信じられていた。それが田沼の評価を不当に下げていた面はある。
 実際、田沼時代は景気は悪くなかったし、幕府の現金での貯蓄は田沼時代に大きく増えている。
 それを真似して、うまいこと景気を上昇させ、国庫を豊かにしようというわけだ。

 だが、肝心の商人たちが思った以上に石頭だった。
 商工会や商業組合の人間たちでさえ、自由競争の信奉者が圧倒的多数だったのだ。
 まあ無理もない。
 商人にとって最大の目的は自分の店の利益の追求だ。
 王国では大規模なカルテルなど前例がないから、そのメリットがぴんとこないのもわかる。
 加えて、商品の値段をつり上げたと客からの反発を買うことを、極端に怖れているのだ。
 確かに、21世紀の日本であれば、消費者から反発を買うのはもちろん、三日にして公取委が飛んでくるだろう。
 だが、独占禁止法は貨幣経済と流通が充分に成熟した社会でこそ意味がある。
 戦前の日本が財閥の独占によって貧富の格差を引き起こし、労働者の困窮が太平洋戦争の一因となった反省による。
 現状の王国のように、まだ流通網が整備され始めた段階では、自由競争の過度な信奉は返って経済全体や、なにより消費者のためにならないのだ。
 だが、それを商人たちに説明することは難しそうだった。
 (歴女には限界がありますか…)
 前世で歴史には詳しくとも、経済や財政を本格的に勉強したことはないイレーヌの限界と言えた。

 「美味しい」
 伊勢エビの塩ゆでを噛みしめたイレーヌは思わずつぶやいていた。
 いい伊勢エビなのだろう。ソースをつけなくともいけるくらいだった。
 なにより、暑い日が続くので塩がよく効いているのが嬉しい。恐らくシェフが気候に会わせて塩の量を変えているのだろう。
 「暑いから塩はよく売れる。
 今が好機。今が好機なのですけどね…」
 イレーヌの思考を読んだかのようにエクレールがつぶやく。
 夏が暑ければ塩の需要は増える。
 汗とともに塩分はどんどん身体から逃げていく。塩を補給せずに水を飲み続ければ、下痢やめまいなどの症状が出る。最悪の場合死ぬ。
 エクレールも、今を逃すのは惜しいと思っているのだ。塩の流通が活性化すれば商人は儲かるし、消費者は塩の相場の安定という恩恵を受けられる。
 塩の卸で食べているレジェンヌ伯爵家も他人事ではない。
 「仕方ありません。
 少々強引に行きます」
 伊勢エビの最後の切れ端を良く噛んで呑み込んだイレーヌが切り出す。
 「エクレールさん、あなたの家は塩商人とのつき合いはありますわね?」
 「え…?はい。もちろん。我が家が卸して塩商人の皆さんが売る形になっていますから」
 エクレールの返答に、イレーヌがにやりとする。
 久々に悪役令嬢らしく振る舞ってみるのも悪くない。
 「最高です。
 その塩商人の方々を集めて下さい。
 まず塩座を結成して王国全域で流通網を形成します。
 塩座の組合長はエクレールさんにお願いしましょう」
 エクレールは目を丸くする。
 「で…でも、株仲間への参加を強制することはできないでしょう?
 誰も株仲間に入ってくれなかったらまずいことになるのではなくて?」
 エクレールは困り顔になる。
 株仲間の奨励を強行しようとして空振りに終われば、イレーヌの面目に関わることはもちろん、イレーヌ財政自体が危機に瀕するかも知れなかった。
 「わたくしも立ち会って、株仲間のメリットを説明します。
 情報や流通の面で、株仲間に参加した方が得だとみなさんが思うようになってもらわなければ。
 そのためにまず塩座が利益を出してみせるのです」
 そのためであれば、自分の名前を出して強権を発動してもかまわない。
 最初の段階であれば多少の採算割れやダンピングも認めるとまでイレーヌは言った。
 「わかりました。
 イレーヌ様がそこまでの覚悟をお持ちであるなら。
 でも、私にできるでしょうか?卸には関わっても、直接営業や販売を行ったことはありませんが?」
 エクレールに取ってそこが不安材料のようだった。
 だが、イレーヌはちっちっと舌を鳴らす。
 「恐らくあなたが適役。
 というよりあなたにしかできないでしょう。
 御願いできますわね?」
 エクレールが花が開くような笑顔になる。「あなたにしかできない」というのは殺し文句だったのだ。
 それに、イレーヌなりの考えがあることは察したらしい。
 「イレーヌ様の期待に、このエクレール全力でお応え致します。
 お任せ下さい!」
 エクレールの元気のいい返事に、イレーヌも笑顔になる。
 先ほどまでのため息交じりの雰囲気はどこへやら。
 デザートのジェラートを頂く二人の表情は明るかった。
 
 数ヶ月後。
 結果としては、塩座は大成功を収めた。
 安く買って高く売るという商売の大原則を、非常に容易に実践することができたのだ。
 塩が安いところで買い入れ、高いところで売る。
 言うは易しの話ではあったが、株仲間の流通網と情報網がそれを可能としたのだ。
 塩の相場は王国中を通じて上がり気味だったが、それでも乱高下するよりはまし、と市井の理解もそれなりに得られた。
 そして、競争力に乏しい塩商人が店をたたみ始めるのを見て、多くの塩商人が株仲間に加わることを望んだ。
 流通網と情報網はさらに大きく緻密になって行くのである。

 なお。
 「情報遅い!
 ラヴァン州の塩を買い付けるのに間に合わなかったではないですか!
 もっと早く、早くです!」
 塩座の本拠地である王都の事務所には、組合長であるエクレールの怒鳴り声がひっきりなしに響くのだった。
 おしとやかでのんびりしたお嬢様という印象だったエクレールが、突如できる女にして鬼上司に豹変したことに誰もが戸惑った。
 だが、“かつてのおしとやかなあなたはどこに?”などとは誰も怖くて聞けないのだった。
 なにより、誰もがエクレールの手腕と人脈に信頼寄せていたのだ。
 まして、日の出の勢いのイレーヌ財務卿補佐の後ろ盾があるとなれば、怖いものはない。
 今日もエクレールを中心に、塩座は大忙しなのだった。

 この後、株仲間は塩だけでなく、麦や野菜、砂糖から金銀に至るまで、王国に流通するあらゆる物について結成されていくことになる。
 それまで自由競争こそ正義と信じていた商人たちは、こぞって株仲間に参加する。
 カルテルは大きくなり、流通はさらに加速していくのである。
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