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霧の中の空戦

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 07
 ロランセア大陸北方500キロ、コフ諸島沖海域。
 反乱部隊である“新世界の羅針盤”の艦隊10隻と、追撃する“菊”機動部隊10隻は、にらみ合いの段階を終え、いよいよ相互に敵の姿を認め交戦の準備に入りつつあった。
 「艦長、心配ですね。ノモトー大佐以下の艦隊が脱走し、彼らについたとなると」
 「だからこそです。ノモトー艦長が反乱を起こした場所と時間からして、“新世界の羅針盤”に合流するまでに後2日はかかります。
 その前にできるだけダメージを与えておく。できれば“遼寧”を撃沈できれば理想的」
 空母“ほうしょう”のブリッジの中、飛行長である橋本由紀保三等海佐の言葉に、艦長である伊藤文一等海佐は言葉を選びながら応じる。
 殲滅という言葉を伊藤は使わなかった。現状の戦力では“遼寧”に攻撃を集中させて敵航空戦力の無力化を図る以外の戦術はなかった。しかも、パイロットたちの練度の差を考えるとそれさえも可能か怪しい。
 まして、上層部はなにを考えているのか、艦隊司令部を置かず、“ほうしょう”艦長である伊藤に隊司令を兼任させる形としたのだ。
 艦長と艦隊司令ではやることも視点も全く異なる。本来なら1人で兼任できるようなものではないが、伊藤はそれを承諾した。意志決定の迅速化のためにはむしろプラスになるかも知れないと考えたのだ。
 女房役として、優秀な飛行長である橋本が控えているからなおのことだ。
 なにはともあれ、気に入らなくともめんどうでも、任務である以上はやるしかないのが伊藤や橋本の立場だった。

 「じゃ、ちょっくら行ってくるわ」
 「おう、お土産買ってきてくれよ」
 一方こちらは飛行甲板上。
 周辺はこの季節の北の海らしく、霧が立ちこめてほとんどなにも見えない。
 出撃体勢を取る6機のF-15JSで構成されるシグルド隊。木ノ原は、今回は予備部隊として待機を命じられたSu-57の部隊、ディース隊の隊長である、イワン・オヤマーノフ大尉に声をかける。オヤマーノフは冗談めかして応じる。
 「悪いな、今回はお前さんが留守番だ」
 「別にかまわんが、貴様の部隊で大丈夫かな?」
 同じく出撃の準備をするF-35CJの部隊、オーズ隊隊長西郷敬望一等階位は、甲板上で待機する8機のラファールMで構成されるフレイ隊隊長のルイ・カーツ・コ・ゴール大尉に皮肉めかして言う。ゴールは出撃できない悔しさを憎まれ口に変えて返答する。
 戦力の集中投入は戦の定石だが、空母艦載機の場合全部の機体を出すというわけにはいかない。一度飛んだ航空機は必ず燃料が尽きて降りる時が来る。空母の場合、一度に着艦させられる機体の数には限りがあるから、着艦するときに順番待ちで渋滞してしまうだけの数を上げるわけにはいかないからだ。
また、敵が予想外の方向から奇襲をかけてきたときなどに備えて、予備兵力を残しておく必要性もあった。
 結局の所、出撃組と留守番組が出るのは致し方ないことなのである。

 一方、ヘリ搭載護衛艦“かつらぎ”からも、航空機が続々と飛び立っていた。
 「クヴァシル隊、予定通り全機発艦よし。攻撃隊のバックアップにつきます」
 6機のF-35Bで構成される戦闘攻撃隊であるクヴァシル隊副隊長の、アン・タイス・ボードフェンス中尉が“かつらぎ”に向けて状況報告をし、“ほうしょう”から飛び立った部隊に合流する。
 機体の調子は上々。もう数合わせとは言わせない。ボードフェンスはそう思う。STOVL機であるF-35Bだが、攻撃機としてだけでなく、一線級の戦闘機としても使えることを証明して見せる。そう心に決めた。
 背後では、スペイン軍のAV-8Bマタドールが四苦八苦しながら発艦しているのが目に入る。この辺は問題だな。とボードフェンスは思う。
 “かつらぎ”は従前の軽空母とはことなり、スキージャンプ甲板ではなくリニアカタパルトで固定翼機を発艦させる構造となっている。
 水平離陸も可能なF-35Bはリニアカタパルトで発艦できるが、水平離陸ができないマタドールなど、ハリアー攻撃機系統の機体はリニアカタパルトでの発艦が不可能なのだ。
 完全に自力で発艦しなければならないとなると、発艦時の重量制限も下げざるを得ない。
 要するに、従前の軽空母に比べて“かつらぎ”は、F-35Bの運用能力こそ向上しているが、ハリアー系統の機体の運用能力はむしろ下がっているのだ。
 ハリアー系統の機体はいまだ世界の少なくない国が運用しているから、これは後々問題になってくるかも知れない。ボードフェンスはそう思った。
 ともあれ、適材適所。航続距離が短くペイロードも少ないマタドールは、もっぱら対空ミサイルで艦隊の直援を担当することになる。
 彼らが後ろを支えてくれているからこそ、自分たちは進撃できるのだ。
 そう思いながら、ボードフェンスは機体を目標への進路に向けた。
 周りは濃霧で、有視界飛行は絶望的だ。レーダーとオートパイロットが正常に作動していることを祈りながら、編隊は飛んでいくのだった。

 所変わってこちらは“新世界の羅針盤”の旗艦、遼寧のCIC。
 「やはり敵は出し惜しみなく戦力を投入してくるか。よし、われわれも出るぞ!フェンリル隊、出撃準備だ!」
 「おいおい、ハーマンとヘイブスキーに、水中田の部隊まで出るんだぞ?
 彼らに任せておけ。お前が出なくても」
 司令席から立ち上がり、出撃の準備をしようとするイーサン・博斗・港崎中佐に、艦長のエルダー・ヒュージ・クート中佐は異議を唱える。
 港崎は艦隊司令であると同時に、そのカリスマ性で組織をまとめる役を担っている。パイロットとしてほいほい前線に出られては士気に関わるのだ。
 「なに、少しやつらに脅しをかけるだけだ。本命はあくまでハーマンたちだよ。
 それに、敵部隊の実力も見ておきたい。未熟な連中が多そうだが、油断は禁物だ」
 港崎にそういわれては、クートに言葉はなかった。確かに、追撃に向かってきた艦隊について、彼らはあまりにもよく知らないのも事実だった。
 なお、この時点で港崎は、かつて百里基地で自分に撃墜判定を食らわせた、将来有望な若造パイロットが追撃部隊に所属しているとは知るよしもなかった。
 遼寧の飛行甲板に新設なったリニアカタパルトの調子は上々で、F-23N、Su-33、F-22Nといった艦載機が次々と打ち出されていく。スキージャンプ甲板での発艦に比べて発艦時のペイロードをはるかに多く取れるから、火力も航続距離にも不安は全くなかった。
 一方、軽空母イラストリアスからは、水中田宗次二等海尉率いるF-35BJの部隊が発艦していく。こちらはリニアカタパルトではなく、スキージャンプ甲板での発艦だから、発刊後直ちに空中給油を受けてから任務に当たる必要がある。
 すでに空中待機している給油機仕様のV-22オスプレイから給油プローブが伸びてくる。6機のF-35BJは見事な操縦で授油ブームにプローブを捕らえ、給油を受け始める。
 それほど時間はかかっていないはずだったが、水中田はやきもきしていた。

 なお、それぞれの艦隊の戦力の内訳は以下の通り。

 “菊”機動部隊

1 正規空母“ほうしょう”
(旧 ジョン・F・ケネディ)

F-15JS
F-35CJ
アドバンスドホーネット
Su-57
ラファールM
F-4EJ
RF-4EJ
V-22オスプレイ
SH-60Kシーホーク
E-2ホークアイ

など 計75機


2 ヘリコプター搭載護衛艦かつらぎ

F-35B
AV-8Bマタドール
AW-101マーリン
SH-60Jシーホーク

など 計18機(露天係留含む)


3 駆逐艦“スタレット”

4 フリゲート艦“クリストーバル・コロン”

5 護衛艦“うみぎり”

6 フリゲート艦“ルイージ・リッツォ”

7 原子力潜水艦“シーウルフ”

8 潜水艦“けんりゅう”

9 給油艦タイドレース 

10 補給艦ましゅう


 “新世界の羅針盤”艦隊

1 空母“遼寧”

F-22N
F-23N
Su-33
FA-18E
EA-18G
NH90
AW-101AEW

など 計60機

2 軽空母“イラストリアス”

F-35BJ
V-22オスプレイ
Ka-27

など 計12機(露天係留含む)

3 フリゲート艦“李舜臣”

4 巡洋艦“ヴェラ・ガルフ”

5 フリゲート艦“アドミラル・フロータ・カサトノフ” 

6 駆逐艦“プロヴァンス”

7 原子力潜水艦“アメティスト”

8 潜水艦“あらしお”
(常温核融合炉動力艦)

9 補給艦“おうみ”

10 補給艦“セザール・チャベス”


 このように、戦力的には“菊”機動部隊が有利に思えるが、パイロットやクルーたちの練度を計算に入れると、“新世界の羅針盤”に対して優位に立てるとは言えなかった。
 まして、“新世界の羅針盤”の側にはF-22NとF-23Nというとてつもない能力を誇る機体がいるのだ。数で倒せると楽観できるものではなかった。

 08
 「レーダーにコンタクト!敵戦闘機部隊と確認!数22。距離約100キロ。ステルス性能にばらつきがあるな。詳細は不明!」
 先行する偵察機兼電子戦機、RF-4EJから報告が入り、データリンクにより敵の位置と進行方向が“菊”機動部隊攻撃隊全体に知らされる。
 すでに旧式化が進み「あれじいちゃんの乗ってた機体や!(意訳)」などと言われるF-4ファントムシリーズだが、元々の設計が優秀であったことに加え、練度の高いベテランパイロットの技術が加われば、まだまだ侮りがたい存在と言えた。
 彼らが先行して状況を探ってくれなければ、攻撃隊は敵の包囲網の中に突っ込んでいたかもしれない。
 「かまうことはない!攻撃だ!全機、各個の判断で攻撃を開始せよ!
 シグルド隊、クヴァシル隊は敵機を。残りは敵艦を攻撃だ!」
 今回の作戦の指揮を任された西郷が攻撃命令を下す。といっても、空戦では大部隊が連携して戦うということはほとんどない。
 おおよそ部隊単位で連携して戦闘を行うのがせいぜいだ。戦闘機というのは複雑な兵器だ。それの集まりである部隊を指揮するのも、また複雑な作業になる。どんなに優秀な指揮官でも6機から8機程度を指揮するのが限界なのだ。
 ましてここは異世界で、いまだに衛星も高度な軍事ネットワークも存在しない。さらに、今回のように寄り合い所帯で機体の性能や特性にもばらつきがあるとなれば、部隊単位の力と結束をもって戦うしかないのである。
 「目標マーク!ファイヤー!」
 龍坂の率いるシグルド隊も、霧で何も見えない中レーダーと赤外線だけを頼りにミーティア空対空ミサイルを放つ。
 ほぼ同時に、敵機からもミサイルが放たれたのがレーダーに感知される。
 「各機散開!回避!」
 龍坂の命令が下る前に、シグルド隊の6機は散開していた。F-15JSに装備された、サイコセンサーとサイコトランスミッターにより形成されるサイコシンクロニシティと呼ばれる精神領域。
 例え100キロ先からでも敵の殺気を感知し、テレパシーさながら感覚と意識の一部を共有することで、迅速勝つ的確な回避の方法をいち早く部隊全体にダイレクトに伝えることができる。
 龍坂はサイコシンクロニシティへの適合率はもちろんのこと、パイロットとしての能力も経験も充分だったから、敵から飛んでくるミサイルはことごとく回避される。
 「やるな、シグルド隊!こちらも負けてられんぞ!対艦ミサイル攻撃始め!」
 同じようにミサイルを回避した西郷率いるオーズ隊は、報復とばかりに対艦攻撃態勢を取る。
 オーズ隊のF-35CJは、従前のF-35の欠点を改善しつつ、よりマルチロール性能を向上させた機体だった。
 外観上の最大の特徴は、機体背面に装備されたコンフォーマルウエポンベイだろう。燃料タンクと内蔵式弾薬庫、そして、サイコセンサーとサイコトランスミッターの送受信機を内蔵したモジュールを背中にしょっている。
 その姿は原型機にくらべてかなりマッシブなものとなり、正面から見ると隆起した背筋を持つ鳥のようだ。弾薬庫内部には対空ミサイルを4発搭載可能で、ステルス性能を維持しながら傾向弾数を稼ぐことができるようになった。特に対地、対艦ミッションの際に、大型の誘導爆弾や対艦ミサイルを機体本体のウエポンベイに収納しつつ、コンフォーマルウエポンベイによって対空ミサイルをなるべく多く携行し、なおかつステルス性能をほとんど損なうことがないというのは値千金といえた。
 機体そのものも、チタンやカーボンなどで重量の増加を抑えつつ剛性を向上させており、対G性能は原型機に比べてかなり向上していた。
 まあ、それやこれやのお陰で高価だった機体がさらに高価になったが。
 8機のF-35CJのウエポンベイが開き、17式空対艦誘導弾が一斉に発射される。ラムジェットエンジンで最高速度マッハ2以上を可能とするこのミサイルは、正面から見ると頂点を下にして、辺が膨らんだ正方形をしており、正方形の”辺”に当たる部分に大きな4つのエアインテークがついているのが特徴だ。この形状により、従来のミサイルよりステルス性能に優れ、発見、対処が困難となっている。
 しかし、8発のミサイルは全て艦対空ミサイルによって撃墜された。

 「艦隊は無事か。よし、今度はこちらの番だ!全機、対艦ミサイル発射!」
 対して、水中田率いる6機のF-35BJで構成されるスコル隊は、改めて対艦攻撃態勢に入る。
 F-35BJは垂直離着陸用のリフトファンを持つ関係上、機体背面のハッチが干渉してしまうため背面にコンフォーマルウエポンベイを装備することはできない。
 その代わり、アドバンスドホーネットと同じ、先端のとがった長方形のステルスウエポンベイを両翼に装備する。
 空気抵抗は当然のように大きくなり、機動性やステルス性能も低下するが、大型誘導爆弾や対艦ミサイルを最大4発、ステルス性能を維持したまま携行することができ、一長一短と言えた。
 ステルスウエポンベイのハッチが開き、Joint Strike Missile (JSM)が各機から2発ずつ発射される。
 高度な自立式AIを持ち、回避行動を行いつつ最適な機動で敵艦に突撃することを可能としたミサイルだったが、これも一発の命中弾もないまま全て撃墜された。
 「やはりこの距離では…」
 水中田は舌打ちする。ここは異世界だ。衛星もないし、早期警戒機とのデータリンクを除けば、航空機はスタンドアロンとほぼ同じ状態での戦闘を余儀なくされる。
 レーダーと赤外線のみを頼りにした、濃霧の中での100キロオーダーでのミサイルの撃ち合いは、互いに決定打を欠いていた。

 「ちっ!やはりロングレンジでは決着がつかんか」
 海面すれすれでF-22Nを飛行させながら、港崎はいらだつ。別にここで敵を殲滅する必要もないのだが、互いに全く命中弾がない状況はやきもきせずにはいられない。
 『敵の電子戦機が相当に優秀なようですね』
 「ふん!あんなポンコツにわずらわされるとはな!」
 副隊長の言葉に、港崎はタッチパネル式のディスプレイを操作して、RF-4EJのデータを呼び出す。“古強者”という言葉があるように、旧式でも侮れないやつはいるものだ。彼らがあの手この手で電子妨害を行っているために、ただでさえこの世界では心許ないミサイルの精度がさらに低下している。
 「全機、進路変更!敵電子戦機を撃墜せよ!続け!」
 港崎は、まずは取っかかりとして敵の露払いとなる電子戦機を叩くべく旋回する。4機のF-22Nに、さらに4機のアドバンスドホーネットが少し距離を置いて続く。
 『隊長!接近しすぎては危険です!敵のミサイルの射程内に入ってしまいます!』
 「2、3発お見舞いして逃げるだけだ。各機、敵に囲まれないように注意しろ!」
 副隊長の言葉を遮って、港崎はエンジンを吹かして2機のRF-4EJに向けて加速していく。 
 ゴオオオオッ
 狙い通り、RF-4EJはこちらのミサイルの有効射程に捕らえられるまでこちらに気づくことはなかった。いくらパイロットが優秀でも、装備の格差は埋められないものがある。
 ようやくRF-4EJがこちらに気づいたときには全てが後の祭りだった。射程は短いが追従性に優れるサイドワインダーが放たれ、2機の内1機が一瞬にして火の玉に変わる。
 だが、もう1機はアフターバーナーを吹かして上昇し、逃れようとする。
 ギュウウウウウンッ
 「ほう、やるじゃないか?だが、逃がしはしない!」
 港崎は相棒である4番機と機動を合わせ、アフターバーナーを吹かして追跡する。
 RF-4EJは全く諦めている様子がない。性能ではかないようのないはずのF-22Nに対して果敢に振り切ろうとするばかりか、隙あらば反撃しようとさえしてくる。
 戦闘はいよいよ前時代的なドッグファイトの様相を呈し始めた。
 ゴオオオオオオオオッ キイイイーーンッ
 港崎の下半身に対Gスーツが食い込み、肺が加速度に押しつぶされそうになる。F-22Nは水平尾翼と可変式ノズルを、コンピューターの演算結果に従い忙しく稼働させ続けるが、それでもついていくのに苦労するほどだ。
 「舐めるな!」
 あまりにしぶとい相手の動きに、ロックオンは困難と判断した港埼は、加速度に逆らって敵をセンターに捕らえ、めったに使わない20ミリガトリングガンのトリガーを引く。曳光弾を交えた銃撃がRF-4EJのエンジンを撃ち抜き、火の手をあげる。
 RF-4EJは急速に高度を下げていくが、2つのパラシュートが開くのが遠目にだが確認できた。さすがだ、と港崎は思う。
 『隊長、敵が進路を変更します!電子戦機を落とされて、距離を詰めることを断念したようです』
 「ああ、だがこちらの部隊もミサイルが残り少ない。今が好機なのだが…」
 データリンクに目を通した港崎は渋面を浮かべる。霧の中の100キロオーダーで、しかも両方とも電子戦機のバックアップ付きという戦いは、双方共に弾薬を消耗しただけで終わっていた。
 『港崎中佐、”遼寧”に連絡して予備部隊を出させますか?』
 水中田が通信に割って入る。ミサイルを使い果たした無念さが、声に出ていた。
 「いや、今回は敵の動きを見るだけに止めよう。なかなか有用なデータも得られた。引き上げだ!
 全機、用心しろ。“家に帰るまでが遠足です”を肝に命じろ!」
 港崎は全部隊に引き上げを命じる。今無理に責める必要はない。今後のこともある。港崎の言葉を合図に“新世界の羅針盤”の航空隊は撤退して行く。
 大変なのはこれからだ。霧はまだ晴れる様子はない。視界が全く効かないから、空母からの電波誘導と、電波灯台の役目を果たすヘリからの情報支援だけを頼りに着艦することになる。訓練で何度もやってきたこととはいえ、油断は禁物だった。

 「くそ!ファントムがやられただと!?
 パイロットたちは無事なのか?」
 木ノ原は艦隊の目の役目をするE-2早期警戒機を呼び出し、確認を取る。RF-4EJに乗っていた4人は全員木ノ原と同じ空自からの出向組で、空自の時代からの知り合いだった。
 『救難信号を確認。4人とも取りあえず無事なようだ。現在ヘリが救出に向かっている。航空隊は周辺を警戒せよ。ヘリが狙われる危険がある』
 E-2からの通信に取りあえずほっとしながら、木ノ原は敵の強かさと戦術眼に舌を巻いた。電子戦機であるRF-4EJの露払いがなければ、自分たちはミサイルのシャワーの中にまともに入り込んでしまうことになりかねない。
 特に視界の効かないこの霧の中では、電子戦機の露払いなしで一か八か突撃するわけにはいかなかった。
 結局、RF-4EJの4名を救出した後、“菊”機動部隊の航空隊には撤退命令が出たのだった。
 機体とパイロットは陸上基地からすぐに補充されてきたものの、”菊”機動部隊が受けた精神的なダメージは小さくなかった。
 伊藤たち艦隊の幹部たちは焦り始めた。もし、手をつかねている間に脱走したノモトー艦隊が自分たちの背後を突けば、艦隊は一方的に壊滅させられる危険があったのだ。

 09
 帰還した木ノ原は、先だってお持ち帰りした金髪美人のことが気になり、“ほうしょう”艦内の医療区画へと向かった。災害救助などを想定して、“ほうしょう”にはかなり充実した医療設備と、多数のベッドが設けられている。
 「それが、われわれも頭を抱えてる有様でして…」
 医官が情けない顔でそういう。
 彼の話では、採血はしたものの、血液型がわからない。というか、そもそも人間かどうかさえ不明。まあ、こちらは異世界だ。人間でない可能性もゼロではない。
 意識はまだはっきりせず、衰弱しているようだが、果たしてどうしたものか判断がつきかねて、ブドウ糖を少しずつ投与するに止めているとのこと。
 「じゃあ、知ってそうな人に聞いてみますか」
 「知ってそうな人?」
 医官が怪訝な顔をして、そのあと得心した顔になる。たしかに、地球の生まれの自分たちより詳しそうな人物がいる。

 「間違いない、ヴァンパイアですね。私も見るのは初めてですけど」
 医務室に案内された、ハイエルフの女性、フィアッセ・クリスタルヒルは、金髪美人を見て即座に判断したようだ。
 さすが年の功か。と木ノ原は思う。エルフは寿命が長い。フィアッセも木ノ原はもちろん、初老の医官よりもだいぶお姉さんなのだ。
 「ヴァンパイアって、あの血を吸う?」
 「ええ、ちょっと見てて下さい」
 フィアッセがポケットから手鏡を取り出し、金髪美人を映してみる。驚いたことに、そこには誰も居ないベッドが映っているだけだった。
 「まさか…?」
 木ノ原はポケットからスマホを取り出して、金髪美人を映してみる。スマホの画面にはちゃんと映るのだが、写真を再生してみると、見事に映っていない。狐につままれたような気分だったが、どうやら事実のようだった。
 「うーん…。そうだ。先生、輸血用のパックかなんかありますか?」
 ばかげた思いつきとは思ったが、木ノ原は試して見たいことがあると医官に告げた。
 「あんまり気持ちいいものじゃありませんが…」
 「衰弱してるんだし、なんなりとやってみないとでしょ」
 渋る医官を意に介さず、木ノ原は輸血パックの封を切り、金髪美人の口元に慎重にたらしてみる。雲の上の宮殿の中、自分が手を切った血を金髪美人が浴びた瞬間、死んでいたと思った彼女が目を覚ましたのを思い出したのだ。
 「ああ…?う…ううう…?」
 金髪美人の反応がはっきりとしてくる。目が開き、次第に焦点を結んでいく。
 「先生、ちょっと手伝ってくれます?身体を起こすんです」
 木ノ原は医官と協力して、金髪美人の身体を起こす。
 「これ、飲むか?血だよ、血」
 たどたどしい異世界の言葉で木ノ原は金髪美人に伝えてみる。彼女には木ノ原の言っている意味がよくわからないようだった。
 今度は、輸血パックの口の部分を金髪美人の口に含ませてみる。
 「あ、飲んでる」
 医官が驚いた声をあげる。金髪美人が輸血パックの中身をゆっくりとだが飲み始めたからだ。輸血パックの中身とは言え、血を飲んでいる姿は気持ちの良いものではないらしく顔をひきつらせている。
 割と平気な顔をして様子を見守っているフィアッセとは対照的だ
 「ふーーー…」
 輸血パックの中身を飲み干した金髪美人は、意識がやっとはっきりした様子で周りを見回す。今までどこにいたのか、自分がどうしていたのか、記憶がないかのようだ。
 だが、木ノ原の姿を認めると、突然花が開いたような笑顔を浮かべ、抱きついてくる。異世界の言葉で何事か連呼しながら。
 「あの、フィアッセさん、彼女なんて言ってるんです?」
 フィアッセが気まずそうに口を開く
 「“私の愛しい人”“わが夫”と・・・」
 「え…えええええーーーーーーーーっ!?」
 医療区画に木ノ原の絶叫が響き渡る。
 もしかしてこれって、かの伝説的な世紀末漫画にあった、目覚めたとき目の前にいた男を愛するとかってあれですか?
 木ノ原は困惑するばかりだった。
 当然のように人の口に戸は立たず、また退屈しがちな護衛艦のクルーやパイロットたちが面白い話題に飢えていることもあって、金髪美人のヴァンパイアのことは、“木ノ原ジゴロ伝説第3段”として、1日にして“ほうしょう”艦内を駆け巡ったのだった。
 
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