雨音と素肌の記憶

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第三章「揺れる感情 — 選べなかった過去と向き合う」

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 その後、雨が降るたびに雫はふらりと姿を消したり、また戻ってきたりを繰り返すようになった。どこへ行っているのかは話してくれない。傘を差すこともなくずぶ濡れで現れる彼女を見ては、律は少し苛立ちと心配を覚える。しかし、その姿を見るたび、律の胸は抑えきれないほど高鳴るのだ。

 彼女の存在が、どうしようもなく気になる。あの指先が触れ合うたび、自分の過去の恋の断片が目の前をよぎる。胸の奥で静かに燃えかすのようにくすぶっていた思い出が、雫の力によって鮮明に呼び起こされる。そのせいで律はときに寝付けなくなるほど苦しむのだが、同時に望んでもいる。甘美な痛みが、自分がまだ“誰かを愛せる”ことを証明してくれているようで。

 そんなある夜、いつものように雨が窓を叩いていた。時計は深夜を回っている。律は待ちきれずに玄関を開け、雫が来るかもしれないとマンションの入り口をうろつく。先日あたりから、雨の日が待ち遠しくなっている自分に気づき苦笑いする。冷たい雨滴をかすめながら外へ出ると、ちょうど雫が歩道からこちらに向かってくるのが見えた。黒髪が濡れ、Tシャツの裾から水が滴っている。

 「帰ろう」律は当たり前のように言う。
 雫はほんの少し驚いたような表情を見せ、でもやがて穏やかな笑みを浮かべる。二人は無言のままエレベーターに乗り込んだ。小さな箱の中で、滴る水音とお互いの呼吸だけが響く。

 部屋に入ると、律は雫をバスルームへ促した。「身体、冷えちゃうから先にシャワーを浴びてきて。タオルはいつものところに置いてある」
 雫は少し戸惑ったようにしながらも、律のシャツを借りて浴室へ消えていく。律はその間に部屋の暖房を入れ、温かい飲み物でも淹れようとキッチンに向かった。

 シャワーの音が止んだ頃、雫は着替えを済ませて再びソファに戻ってきた。律は淹れたてのハーブティーを差し出し、向かいの椅子に腰掛ける。蛍光灯の明かりの下、静かな時間が流れた。

 「俺さ…昔、酷い失恋をしてる。どうしても忘れられなくて、雨の夜になると思い出しちゃうんだよ」
 律は突拍子もなく切り出した。今さら人に話すようなことではないのだが、雫の瞳を見ているとつい言葉がこぼれ落ちる。雫が柔らかな表情で耳を傾けるのを見て、続ける。
 「まあ…ありきたりな話なんだけどね。俺が仕事ばかりで相手を顧みなくなって…結局すれ違いが起きてさ。最後は喧嘩別れみたいな形だった。それで…」

 なぜこんな話をしているのか、自分でもわからない。でも、雫に対しては不思議と抵抗感がない。まるで最初から知っているかのように、彼女は静かに聞いてくれる。雫が律の手にそっと触れると、やはり鮮明な映像が蘇ってくる。キスの感触、相手の髪の匂い、別れ際の冷たい言葉…。

 「あ…」思わず呻くような声が漏れた。頭が痛むほどのリアルな記憶が流れ込む。雫は申し訳なさそうに手を離す。
 「ごめんなさい。でも、あなたの心がどれほど傷ついているのか、少しだけわかった気がする」
 そう言って、しっとりとした瞳で見つめる。律はその瞳に、何か底知れぬ悲しみの影を見た気がした。雫自身もまた、人の記憶を呼び起こすたびに、自分も苦しんでいるのではないか—そんな予感に胸がざわめく。

 「あの…雫は、どうしてそんな力を持ってるんだ?」
 彼女は小さくかぶりを振る。「私にもわからない。ただ、雨の日にしか現れなくなったこと、それに人の記憶を呼び起こしてしまうこと…きっと私の過去のある出来事と関係していると思う。でも、思い出せないの」

 その言葉に、律はますます惹き込まれていく。彼女には解明されていない過去がある。自分だけが傷ついているわけではない。そう感じると、共有できる痛みがあるように思われ、彼女を支えたいという衝動が強くなるのだった。
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