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第3章
第一話
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乾いた風がキャンパスの銀杏並木を鳴らし、季節は秋の色合いが濃くなった。
後期の講義が本格的に回り始めた頃、真帆が蛍を誘った。
「スポーツサークルの見学に行かない?」
「スポーツサークル?」
「うん。ちょっと気になる人がいて」
蛍は運動が得意ではない。けれど、真帆に頼まれると弱い。
「見学だけなら」
「ありがとう! 一人だと心細いから」
「で、どんな人なの?」
「背が高くてかっこいい」
「ざっくりしてるね」
指定の体育館はワックスの匂いが濃く、床に秋の斜光が長方形に落ちていた。
十数人の学生が集まり、ボールの弾む音とシューズのきしみが響く。
「どの人?」
蛍が小声で尋ねると、真帆が顎で示す。
「ほら、あの人。今こっち見た」
視線の先の男子学生が、こちらに歩み寄ってきた。
「見学ですか?」
涼しい声。すらりとした長身に、競技で鍛えた線の細い筋肉。
色素の薄い、澄んだ瞳が印象的だ。
「はい」
真帆の声がほんの少し上ずる。
「まだ、部長が来てなくて……」
彼はそう言いながら、ちらりと蛍を見る。まっすぐだが、押しつけがましくない目線。
「そうなんですね。今日、運動できる服とか靴とか持ってきてないんですけれど……」
「あ、そうなんですか。じゃあ、見学だけして行きます?」
「はい、お願いします。その、お名前うかがってもいいですか?」
「桜庭です。スポーツ科学部の一年です」
「私は相沢真帆です。経済学部の一年生です」
「白石蛍です。真帆と同じ経済学部の一年です」
簡単に自己紹介を済ませると、桜庭は活動内容や雰囲気を手際よく説明した。
語尾は柔らかいのに、要点だけを伝える話し方。
どこか淡々としていて、熱を持ち込みすぎない距離感がある。
そこへ別の男子生徒が駆け寄ってくる。
「ごめんごめん、桜庭、ちょっと講義が長引いて。見学の子?」
「はい。経済学部の相沢さんと白石くん」
そう伝えると、桜庭は「じゃあ、俺は行くんで」と軽く会釈して離れた。
引き留める視線にも過剰に応じない――人との線引きの仕方を、自然に心得ている。
「はじめまして。このサークルの代表をしている佐藤です。スポーツ科学部の二年です」
「よろしくお願いします」
「桜庭から説明は聞きましたか?」
「はい」
「今日はコーフボールという競技をやります。バスケに似てますが、初心者でも楽しめます。よかったら見ててください」
蛍と真帆は案内された体育館の隅に腰を下ろした。
コートでは桜庭がボールを受け、流れるようにパスを回す。
身振りは最小限で、味方の立ち位置を自然に整えていく。
試合が始まる。男女混合のチームで、桜庭は声を荒げることなく全体をまとめ、確実にシュートを沈めた。
「桜庭くん、上手だね」
「そうだね」
蛍もプレーを追いながら、胸の奥で小さな警戒が芽生える。
(アルファなのかな)
抑制剤を飲むようになってから、蛍はフェロモンをほとんど感じることができない。
そのため、確信まではもてない。
真帆の視線の先にいるのが、自分の「不得手な相手」かもしれないと思うと、無意識に肩が強ばった。
「あの人、きっとアルファよね」
真帆がささやく。
「どうしてそう思うの?」
「だって、イケメンだし、背も高いし」
「でも見た目だけじゃ分からないよ」
「そうかもしれないけど。……蛍は分かる?」
少しだけ聞きにくそうな仕草を見せながら、真帆が尋ねる。
「ごめん、俺、薬の影響で分かんないんだ」
「そっか」
練習が一段落すると、桜庭が歩いてくる。
「どうでした? 見学」
「楽しそうでした」
真帆の目が輝く。
「良かったら、次回は実際に体験してみませんか? 運動着とシューズがあれば参加できるんで」
「ぜひお願いします!」
即答する真帆の肩の熱が、こちらにも伝わる。
「白石くんはどうですか?」
近くで見ると、整った顔立ちと薄い色の瞳が涼しく、どこか中性的な印象を添える。
「え、俺は……」
「運動、苦手?」
「そういうわけじゃないんですが」
「なら、一緒にやってみません? 初心者でも大丈夫なんで」
誘いは自然で、押しがない。けれど、蛍は一歩引いた。
真帆の気持ちを思えば、距離は保ちたい。
「真帆がやりたがってるので、付き添いで来ただけなんです」
「なるほど」
そこへ代表の佐藤が戻ってくる。
「桜庭、お疲れ。新入生の子たち、どうだって?」
「相沢さんは体験してみたいらしいです」
「おお、それは良かった。白石くんは?」
「見学だけで」
「そっか。まあ、気が向いたらいつでも来てくださいね」
見学を終えて外へ出ると、夕方の風が汗を冷ました。
「桜庭くん、やっぱり素敵だった!」
「そうだね」
「今度絶対体験しに行く。蛍も一緒に来てよ」
「でも俺、運動得意じゃないし……」
「大丈夫だよ。桜庭くんが優しく教えてくれそうだし」
真帆の頬がうっすら赤い。完全に恋の入り口で足を止めている。
「ねえ、桜庭くんって彼女いるのかな?」
「さあ……どうだろう」
「今度、さりげなく聞いてみようかな。他の狙ってる女の子絶対いそうだし」
確かに、桜庭は目を引く。
ルックスも運動も、性格もそつがない。
だが、蛍は微かな違和感を覚えてもいた。誰かの期待に、最初から応じないような雰囲気。
「まずは友達になることから始めたら?」
「そうだね。サークルに入れば、自然と仲良くなれるかも」
真帆の恋は、いま動き出そうとしている。
蛍は応援したいと思いながら、胸の奥では別の名が浮かんだ。
――健吾。
噂の「恋人」の真偽は分からないまま。
「ねえ、蛍」
真帆が振り向く。
「芦原さんとは最近どう?」
「特に変わりはないよ。たまに研究室に行って、たまにメッセージしてる」
「もったいないなあ。一緒に出掛けたりすればいいのに」
「でも向こうには恋人がいるかもしれないし」
「まだ確証はないでしょ?」
正論だ。
だが、踏み出せない理由は他にもある。高校から続く記憶の重さ、立場、そして自分の第二性。
「まあ、お互い頑張ろうよ」
真帆が明るく笑う。
「恋愛って、待ってても始まらないものね」
その夜、蛍のスマホが震えた。健吾からだ。
画面の文字を見つめながら、真帆の昼間の言葉がよみがえっていた。
後期の講義が本格的に回り始めた頃、真帆が蛍を誘った。
「スポーツサークルの見学に行かない?」
「スポーツサークル?」
「うん。ちょっと気になる人がいて」
蛍は運動が得意ではない。けれど、真帆に頼まれると弱い。
「見学だけなら」
「ありがとう! 一人だと心細いから」
「で、どんな人なの?」
「背が高くてかっこいい」
「ざっくりしてるね」
指定の体育館はワックスの匂いが濃く、床に秋の斜光が長方形に落ちていた。
十数人の学生が集まり、ボールの弾む音とシューズのきしみが響く。
「どの人?」
蛍が小声で尋ねると、真帆が顎で示す。
「ほら、あの人。今こっち見た」
視線の先の男子学生が、こちらに歩み寄ってきた。
「見学ですか?」
涼しい声。すらりとした長身に、競技で鍛えた線の細い筋肉。
色素の薄い、澄んだ瞳が印象的だ。
「はい」
真帆の声がほんの少し上ずる。
「まだ、部長が来てなくて……」
彼はそう言いながら、ちらりと蛍を見る。まっすぐだが、押しつけがましくない目線。
「そうなんですね。今日、運動できる服とか靴とか持ってきてないんですけれど……」
「あ、そうなんですか。じゃあ、見学だけして行きます?」
「はい、お願いします。その、お名前うかがってもいいですか?」
「桜庭です。スポーツ科学部の一年です」
「私は相沢真帆です。経済学部の一年生です」
「白石蛍です。真帆と同じ経済学部の一年です」
簡単に自己紹介を済ませると、桜庭は活動内容や雰囲気を手際よく説明した。
語尾は柔らかいのに、要点だけを伝える話し方。
どこか淡々としていて、熱を持ち込みすぎない距離感がある。
そこへ別の男子生徒が駆け寄ってくる。
「ごめんごめん、桜庭、ちょっと講義が長引いて。見学の子?」
「はい。経済学部の相沢さんと白石くん」
そう伝えると、桜庭は「じゃあ、俺は行くんで」と軽く会釈して離れた。
引き留める視線にも過剰に応じない――人との線引きの仕方を、自然に心得ている。
「はじめまして。このサークルの代表をしている佐藤です。スポーツ科学部の二年です」
「よろしくお願いします」
「桜庭から説明は聞きましたか?」
「はい」
「今日はコーフボールという競技をやります。バスケに似てますが、初心者でも楽しめます。よかったら見ててください」
蛍と真帆は案内された体育館の隅に腰を下ろした。
コートでは桜庭がボールを受け、流れるようにパスを回す。
身振りは最小限で、味方の立ち位置を自然に整えていく。
試合が始まる。男女混合のチームで、桜庭は声を荒げることなく全体をまとめ、確実にシュートを沈めた。
「桜庭くん、上手だね」
「そうだね」
蛍もプレーを追いながら、胸の奥で小さな警戒が芽生える。
(アルファなのかな)
抑制剤を飲むようになってから、蛍はフェロモンをほとんど感じることができない。
そのため、確信まではもてない。
真帆の視線の先にいるのが、自分の「不得手な相手」かもしれないと思うと、無意識に肩が強ばった。
「あの人、きっとアルファよね」
真帆がささやく。
「どうしてそう思うの?」
「だって、イケメンだし、背も高いし」
「でも見た目だけじゃ分からないよ」
「そうかもしれないけど。……蛍は分かる?」
少しだけ聞きにくそうな仕草を見せながら、真帆が尋ねる。
「ごめん、俺、薬の影響で分かんないんだ」
「そっか」
練習が一段落すると、桜庭が歩いてくる。
「どうでした? 見学」
「楽しそうでした」
真帆の目が輝く。
「良かったら、次回は実際に体験してみませんか? 運動着とシューズがあれば参加できるんで」
「ぜひお願いします!」
即答する真帆の肩の熱が、こちらにも伝わる。
「白石くんはどうですか?」
近くで見ると、整った顔立ちと薄い色の瞳が涼しく、どこか中性的な印象を添える。
「え、俺は……」
「運動、苦手?」
「そういうわけじゃないんですが」
「なら、一緒にやってみません? 初心者でも大丈夫なんで」
誘いは自然で、押しがない。けれど、蛍は一歩引いた。
真帆の気持ちを思えば、距離は保ちたい。
「真帆がやりたがってるので、付き添いで来ただけなんです」
「なるほど」
そこへ代表の佐藤が戻ってくる。
「桜庭、お疲れ。新入生の子たち、どうだって?」
「相沢さんは体験してみたいらしいです」
「おお、それは良かった。白石くんは?」
「見学だけで」
「そっか。まあ、気が向いたらいつでも来てくださいね」
見学を終えて外へ出ると、夕方の風が汗を冷ました。
「桜庭くん、やっぱり素敵だった!」
「そうだね」
「今度絶対体験しに行く。蛍も一緒に来てよ」
「でも俺、運動得意じゃないし……」
「大丈夫だよ。桜庭くんが優しく教えてくれそうだし」
真帆の頬がうっすら赤い。完全に恋の入り口で足を止めている。
「ねえ、桜庭くんって彼女いるのかな?」
「さあ……どうだろう」
「今度、さりげなく聞いてみようかな。他の狙ってる女の子絶対いそうだし」
確かに、桜庭は目を引く。
ルックスも運動も、性格もそつがない。
だが、蛍は微かな違和感を覚えてもいた。誰かの期待に、最初から応じないような雰囲気。
「まずは友達になることから始めたら?」
「そうだね。サークルに入れば、自然と仲良くなれるかも」
真帆の恋は、いま動き出そうとしている。
蛍は応援したいと思いながら、胸の奥では別の名が浮かんだ。
――健吾。
噂の「恋人」の真偽は分からないまま。
「ねえ、蛍」
真帆が振り向く。
「芦原さんとは最近どう?」
「特に変わりはないよ。たまに研究室に行って、たまにメッセージしてる」
「もったいないなあ。一緒に出掛けたりすればいいのに」
「でも向こうには恋人がいるかもしれないし」
「まだ確証はないでしょ?」
正論だ。
だが、踏み出せない理由は他にもある。高校から続く記憶の重さ、立場、そして自分の第二性。
「まあ、お互い頑張ろうよ」
真帆が明るく笑う。
「恋愛って、待ってても始まらないものね」
その夜、蛍のスマホが震えた。健吾からだ。
画面の文字を見つめながら、真帆の昼間の言葉がよみがえっていた。
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