ロクデナシ短編集

三文士

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アタリメ喜怒哀楽劇場

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 酒がまわってくると決まってマサさんはいつもアタリメを頬張りながら泣きだす。

「アタシはね、三十年間板場に勤めておりやした。三十年です、三十年ですよ。三十年といえばあーた。子供が産まれてりゃあ一人前になって世帯を持っててもおかしくねえ時間だ」

「そうだねえ」

 僕らは、そらいつものが来たぞと相槌を始める。

「『浪かわ』といやぁ向島じゃちょいとなの知れた料亭だ。アタシは先代の時分から尽くしてきやしたとも。それなのにあの三代目ときたら、なにかとサクゲンだサクゲンだと言いやがって、アタシを追い出したんで!」

 「そりゃ良くないねえ」

 僕らはいつだって四畳半の汚い部屋に集まってマサさんの愚痴を肴に安酒を飲む。マサさんは無職で宿無しだが、僕らはみんなマサさんが好きだ。

「あの華やかな料亭の板場で、アタシはいつだって忙しなく仕事をしておりやした。でもね、あん時ほど生きてるって実感したことぁ無かったなあ。きらきらしてた時間でした」

「でもよマサさん、アンタぁ酒で仕事をしくじったって聞いたぜ?」

 誰かがそう口を挟むと決まってマサさんは顔を真っ赤にして怒る。元々酒で赤くなった顔が更に梅干しみたくシワシワで真っ赤になる。口に咥えたアタリメが「ぽんっ」と宙に舞って畳に落ちる。

「誰でえ、んなこたあ言いやがるのは!おぅ?馬鹿言っちゃいけねえよぉ、アタシはね、酒でしくじった事なんざ、一度だってねえんだ!こんチキショウ!」

「いやさ悪かった、ほら、お詫びだ飲んで飲んで」

 そうやって茶碗に酒を注がれると途端に上機嫌になってアタリメをしゃぶり出す。

「えへへ。どうもどうも。アタシはね、女も博打もからっきしだが酒は小僧の頃から飲んでたんですよ。コイツだけが長年の連れ合いだ」

「マサさんの飲み方は年季がはいってるもんなあ」

「長い付き合いですからねえ。なあ色々な酒とアテを試してきましたが、詰まるところ酒は安い酒が良い。アテはアタリメが良い、というところに落ち着きましたねえ」

「どうして?」

 僕がそう聞くとマサさんはニッコリ笑って指で輪っかを作って見せる。歯がほとんど残っていない口で咥えたアタリメをちゅうちゅうとしゃぶりながらマサさんは言うのだ。

「高い酒は金がかかる。高い肴も酔えば味が分からなくなる。とどのつまり、アタシみたいなんは安酒とアタリメでじゅうぶんなんでさ」

 そう言ってけらけらと笑うのだ。

 そうこうしてるウチにマサさんは子どもの様な顔でコロッと寝てしまう。部屋の隅で丸くなって、しかし実に幸せそうな寝顔で寝てしまうのだ。もちろん口にはアタリメを咥えたまま。母親の乳を吸いながら寝てしまう赤ん坊の様だという人もいた。

 泣いて怒って笑って寝る。

 僕らはこれを「アタリメ喜怒哀楽劇場」と呼んでいる。

 終
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