その香り。その瞳。

京 みやこ

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(110)SIDE:奏太

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 僕にしては、かなり思い切った言葉だ。
 オメガがアルファにうなじを噛まれることの意味は、、僕がオメガだと判明した時、一葉先生から聞かされていた。
 そして、斗輝からも、丁寧に説明された。
 一葉先生から聞かされた時はピンとこなかったけれど、斗輝から聞かされた時は、ちょっと怖かった。
 いくら発情期中はまともな意識を保っていないとしても、麻酔などをしていない状態で直接噛まれるのだ。
 しかも、単に歯形を付けるだけではなく、痕を残すため、血が出るくらいにきつく噛むという。
 斗輝のことは本当に大好きで、その想いに嘘はない。
 それでも、不安と迷いが僕の胸の奥でくすぶっていた。

 だけど、僕にはやっぱり斗輝しかいないと、今日、つくづく感じたのだ。
 斗輝がいない人生は、どうしても考えられない。
 それと、僕に向ける斗輝の想いの深さを、改めて感じた。
 こんなにも安藤奏太という人間を愛してくれる人は、澤泉斗輝しかいない。
 彼とデートをしているうちに、うなじを噛まれることに対する不安と迷いが徐々に薄れていった。

 番の証をアルファ自らがオメガのうなじに刻むことで、僕の番は斗輝に固定される。
 発情期を迎えた僕を抑えられるのは――抑制剤以外という意味で――、今後、斗輝しかいないということだ。
 現代の医療では番を解消する方法がないらしいが、それでもかまわないと思った。
 この先、一生、斗輝と歩むことに後悔はない。
 自分にできる限りのことをして、彼を支えてあげたいと真剣に思ったのである。
 それに、万が一、彼に捨てられても、恨むことができないほど、僕は心の底から斗輝が好きだ。
 もし、そんな事態になったとしても、捨てられたことを嘆くより、出逢えた奇跡に感謝するだろう。
 そして、死ぬまで斗輝を想って、一人で静かに過ごすだろう。



 寝室内には沈黙が流れている。
 僕は斗輝の瞳を見つめ、大人しく彼の反応を窺っていた。
 どのくらい時間が経ったのだろうか。
 やがて、斗輝が静かに息を吐いた。
 彼が反応を示すまで、短かった気もするし、ものすごく長かった気もする。
 それは、僕が緊張していたからだろう。耳の奥で、自分の心臓の音がやけに大きく響いていた。
 僕はドキドキしながら、彼の言葉を待つ。
 斗輝はゆっくりと瞬きしたあと、おもむろに口を開いた。
「いいのか?」
 彼の表情は、驚きと喜びが混ざったような、なんとも言えない複雑なものだった。

――大喜びしてくれるかと思ったのになぁ。

 予想していたのと違う反応を示す彼に、僕は不安になる。
 僕は今日のデートで斗輝にうなじを噛んでもらう決心がついたけれど、斗輝はその逆なのではないだろうか。
 僕に向ける彼の愛情は変わらず感じるけれど、斗輝としては、僕のうなじを噛んで番にするほどではないと考えたのではないだろうか。
 
――確かに、僕って面倒くさい人間だよね。

 すぐに不安になるし、悪い方向にばかり考えるし、斗輝を支えるどころか、こっちが彼に『おんぶにだっこ状態』になるかもしれない。
 斗輝の愛情を信じたいのに、彼の番に相応しくないと考える自分もいる。
 こういう時になにを言ったらいいのか分からないから、僕はただ黙って、彼の言葉の続きを待った。
 僕の心臓が沈黙に押し潰されそうになってきた頃、もう一度瞬きをした斗輝は、その名前のように輝く笑顔をふいに浮かべた。
「ああ! こんなにも嬉しいことがあるとは!」
 そう叫んだ彼は、痛いくらいにきつく僕を抱き締める。
「奏太に出逢ってから幸せなことばかりだったが、今は一段と幸せだ」
 ギュウギュウと僕を抱き締めている様子は本気で喜んでいるらしく、僕はホッと安堵の息を零した。
 だけど、彼がさっき見せた驚きの表情は、どういう意味だろうか。
 ひとしきり僕を抱き締めた斗輝が、顔を上げて嬉しそうに僕を見つめている。
 その彼に、僕は問いかける。
「どうして、さっきは驚いていたんですか? 斗輝は前から僕とこの先もずっと一緒にいたいって言ってくれていたのに、僕からうなじを噛んでほしいってお願いするのは、そんなに驚くことですか?」
 すると、彼はフッと苦笑を浮かべる。
「奏太から言われたことに驚いたのではなく、こんなにも早い段階で言ってもらえたことに驚いたんだよ」
「え?」
 キョトンとする僕の鼻先に、彼がチュッと小さなキスを落とした。
「俺の唯一の番は奏太以外にあり得ないし、いつか、うなじを噛ませてもらうつもりだった。施設で写真を見た瞬間から、そう決めていた」
 次いで、彼は僕の額にキスを落とす。
「だが奏太は、オメガとアルファについて、ほんのつい最近になって理解するようになってきたばかりだ。番の証が残るくらいうなじを強く噛まれることに怯えていたのも、ずっとそばにいた俺は知っている。だから、今日、奏太から言ってもらえたことに驚いていたんだよ。いつかは言ってくれるだろうと思っていたが、それはまだまだ先だと考えていた。それこそ、俺たちが籍を入れてからでもおかしくないと」
 ユルリと目を細めた斗輝は、僕の唇に優しく自身の唇を重ねた。
 静かにキスを解いた彼が、ジッと僕の瞳を覗き込む。
「本当に、次の発情期で噛んでもいいんだな?」
 問いかけながら、彼は右手を僕の首裏に滑り込ませ、ソッと僕のうなじを撫でる。
 僕は彼の目を見つめ返し、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「はい。やっぱり、僕には斗輝しかいないなって思ったんです」
 体も心も、僕の体を作る細胞の一つ一つが、斗輝を求めているのだ。
 僕はまだ十八年しか生きていないし、これまで会ってきた人より、これから出会う人のほうが多いかもしれない。
 それでも、安藤奏太のすべてが、『澤泉斗輝しかいない!』と声高に叫んでいる。
 僕は軽く顔を浮かせ、彼の唇に自分の唇を重ねた。
 触れるだけの短いキスをした僕は、話を続ける。
「正直に言うと、まだ怖いですよ。でも、斗輝と本当の番になりたいという気持がすごく強くなったんです。それに、痕が残っても、痛みがずっと続く訳ではないでしょうし」
 僕の話を聞いていた斗輝は、困ったような笑みを浮かべた。
「うなじを噛ませてもらえるのはすごく嬉しいんだが、大切な奏太に痛みを与えてしまうのは、やはり心苦しいな」
 そう呟く彼に、僕は首を横に振ってみせる。
「発情期中の僕はまともに考えられない状態ですから、痛みを感じないと、後になって思い出せません。だから、痛くてもいいんです。僕が望んだことですから、斗輝は気にしないで、目いっぱい僕のうなじを噛んでくださいね」
 僕が彼の背中に腕を回してギュッと抱き付いたら、彼の体からフッと力が抜ける。
「この前、奏太に番の証を残さなくてよかった」
 しみじみとした口調の斗輝は、形のいい目を細める。
「俺が医務室に奏太を迎えに行った時、すっかり発情期に入っていただろ。この部屋に来てからは、さらに奏太の意識が朦朧としていた。あの状況では、奏太の意思を聞き出すのは、おそらく不可能だったはずだ。だからといって、勢いのままに奏太のうなじを噛んでいたら、俺は今頃、後悔していたかもしれない」
 ここでいったん言葉を区切った彼は、優しい表情のまま、だけど眼差しだけは真剣なものに変える。
「自分の想いを押し付けるのではなく、俺は、奏太に望まれて番になりたかったんだ」
 きっぱりと告げる彼の顔は、ものすごくかっこよかった。
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