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(20)先輩と私の距離:3

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 右手で二人分の鞄を持つ先輩と歩き始めたのだが、当然のように繋がれている私の右手と先輩の左手のせいで、やたらとくすぐったい。
 いや、くすぐったいのは、繋がれている手ではない。
 私も先輩も、手の平が剛毛で覆われているという特殊な人種ではないのだ。
 そして、重ねた手の平の中に虫がいるというおぞましい状況でもない。
 胸の奥がくすぐったいなんて、私はこれまでに経験したことがなかった。
 初恋は、一応済ませてある。
 幼稚園の頃、赴任してきたばかりの『けんじせんせい』が好きだった。
 姿を見たら飛びついて、『おとなになったら、せんせいとけっこんするの!』と、毎日宣言していたものだ。
 今にして思えば、あまりに幼くて恋心と言えないかもしれないが、卒園したらもう会えないと分かって大泣きしたのだから、ちびっこなりに本気だったのだろう。
 それ以来、『けんじせんせい、だいすき!』といったように、心弾む感情のまま想いを告げたことはなかった。
 私は身長や顔立ちが幼いのと同様に、精神的にも幼いのかもしれない。
 だから、周囲の人たちが『彼氏ができた』、『これから、恋人とデート』とはしゃいでいても、楽しそうだなぁとボンヤリ思う程度。
 そんな私が、今、こうして、胸の奥でくすぐったさを感じているのだ。
 まさかとは思うが、私が、先輩に……恋!?

――いやいやいや、それはない! ありえない!

 私はブンブンと首を横に振る。
 確かに先輩はかっこいい。
 顔は文句のつけようがないほど整っているし、ちょっと、私の好みだし。
 頭もいいし、騒がしくもないし、高身長だし、足は長いし。
 口数が少なくて無表情という点を差し引いても、超絶ハイスペックな人物だ。
 しかし、彼の言動が謎すぎて、純粋に『好きだ』という感情が湧いてこない。
 そこで私は気付いた。

――こ、これが、ストックホルム症候群というものか!?

 監禁や誘拐に巻き込まれた被害者が、犯人と長い時間を共有することにより、犯人に対して連帯感や好意的感情を抱く現象だと聞いている。
 理屈では説明できない心理現象とされているけれど、無意識の自己防衛として、『自分はあなたの敵ではありません』と犯人に示すためのものだという一説もある。
 先輩と出逢ってから、訳の分からない状況が続き。
 なにを言っても、なにをしても、私の意思は伝わることなく。
 いつだって、先輩のペースに巻き込まれて。
 監禁や誘拐ではないとしても、暗殺者みたいな目をする先輩と一緒に過ごすうちに、私はストックホルム症候群に陥っている可能性がある。
 よって、胸の奥にあるなんとも言えない感情は、けして「恋心」ではないと、全私(ぜんわたし)によって結論付けられた。

――そっか、そっか。そうだよね。それしか、考えられないよね。

 今度はブンブンと首を縦に振る。
 その時、クスッと小さな笑い声が聞えた。
 ハッと我に返った私は、すぐ隣に先輩がいることを思い出した。
「あ……」
 短く呟いた私は、自分の顔がカァッと熱を持つのを感じる。
 さっき先輩に話したように、私はけっこう集中力が高い。
 だからといって、ここで発揮しなくてもいいではないか。
 恥ずかしさと情けなさで「あぅあぅ」と意味不明な言葉を発していると、先輩は切れ長の目を僅かに細めた。
「表情がコロコロ変わって、すごく可愛い」
 そう言われて、さらに顔が熱くなる。
 いっそのこと、『変顔ばっかりしてるなよ』とか、『マヌケ面を晒していたぞ』と言われたほうが、まだ私の心臓的にはダメージが少ない。
 私は大きく俯き、オドオドと視線を彷徨わせる。
「いえ、その……、みっともないところを見せて、すみません……」
 小さな声でボソボソと謝ったら、繋がれている手がキュッと握り締められた。
「表情豊かで、憧れる」
「……は?」

――今、憧れるって言った?

 表情筋が仕事を放棄している先輩に比べたら、私の顔は福笑いのごとく、様々な表情を見せているだろう。
 とはいえ、憧れるものだろうか。

――刷り込みみたいなものかな?

 私と先輩が初めて出逢ったあの日。
 全開のアホ顔でクルクルと動き回っていた私を見て、先輩は初めて見る奇怪な人間に度肝を抜かれたのだろう。
 その衝撃があまりに大きかったせいで嫌悪や恐怖心を超越し、『憧れ』という摩訶不思議ワールドに足を突っ込んだとしか思えない。

――うわぁ。それはそれで、厄介だなぁ。

 刷り込みは意識下にまで影響しているので、それを解くとなったら、専門的な知識が必要だ。
 そういったことに無知な私では、対処のしようがない。

――待てよ。私以上に、顔面崩壊率が高い人が近くにいる!

 身内の恥を晒しまくることになるが、私の兄なら、先輩の期待に応えてくれるはず。
 それに、先輩と兄が仲良くなってくれたら、私がいい訳として散々口にしている『先輩と馬鹿アニキは友達説』が実際に成り立つことになる。
 よって、先輩はとりあえず私から離れてくれるだろう。
 凡人女子をその気にさせるという罰ゲーム的ななにかはともかくとして、先輩が私に対しての興味を薄れさせる可能性は大いにある。
 そう考えると、先輩を家に招待するのは正解だったと言えるだろう。
 先輩は私と婚約をしているとか、兄のことを『お義兄さん』と呼ぶつもりだとか、それはすべて罰ゲームを成功させるための布石に違いない。
 だけど、はじめから罰ゲームだと分かっているから、私へのダメージはほぼゼロに等しいと言っていい。
 先輩が私から兄へ興味を移し、同時に罰ゲーム終了を早めることになったら、平穏な学生生活が戻ってくるのだ。

――ここは、なにがなんでも馬鹿アニキに張り切ってもらわないと!

「あの、先輩。ちょっと、兄に連絡を入れてもいいですか? 遊び歩いていないで、早く帰るように言っておきたいので」
 家にいるように馬鹿アニキへお願いするつもりで提案すると、先輩がほんの少しはにかんだように表情を緩めた。
「やっぱり、チコは俺との結婚を、考えてくれているんだ」
「は?」
「正式に、お兄さんを俺に紹介してくれるんだよね?」
「……は?」
「ほぼ、婚約成立だ」
「…………は?」

――デジャブ?

 ポカンと呆ける私の手を放し、先輩は「ほら、電話して」と促してくる。
 自分で立てた作戦に不安を感じたものの、私は馬鹿アニキに電話をかけた。
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