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(26)先輩と私の距離:9

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 兄は諦めきれないのか、チラチラと何度も先輩に視線を向ける。
 そして、深々とため息を零した。
「せっかく、俺なりの精いっぱいでもてなそうとしていたのに……。真知子がつれてきたのが、男だったなんて……」
 精いっぱいのもてなしが奇天烈極まりなくて大迷惑だ。
 これなら、無駄に気合を入れないほうがよかったのではないだろうか。
 密かに思うものの、脳みそ筋肉野郎の兄にはきっと理解してもらえないだろう。
 とにかく、兄には退場してほしい。
 改めて部屋に行くように言おうとしたところで、兄が先に口を開いた。
「鮫尾君と言ったな。ところで、なにをしに来たんだ?」
 それを聞いた先輩は、ピクンと肩を震わせる。
「今日は……」
 先輩が言いかけたところで、兄が先輩に向ってバッと右の手の平を突き出した。
「皆まで言うな、分かっている」
「……は?」
 私は唖然となり、先輩も言葉を失っている。
 奇妙な沈黙が流れた後、兄がニヤリと片頬を上げた。
「俺に弟子入りしようということだな」
「…………は?」
 私と先輩が、無言で兄を見つめる。
 奇抜な衣装を纏い、油性マジックでもみあげを描いてしまう兄に弟子入りして、なにが得られるというのだろう。
 どんなことも恥と思わない、鉄の心臓を得られるとでもいうのだろうか。
 
――それはそれで、人間が終わる気がするけど。

 私はヒクヒクと頬を引きつらせる。
 固まる私をよそに、先に我に返った先輩が口を開いた。
「いえ。今日、こちらにお伺いしたのは、真知子さんとのお付き合いを……」
 そこで、私が先輩の足をダンと踏んだ。
「はは、はははっ。先輩ったら、なに、言ってるんですか。ははっ」
 笑いながら、私は目で『余計なことを言うな』と訴える 
 先輩はすぐに察したようで、「ごめん」と小さく謝ってきた。
「なにか言わなくちゃと思ったら、つい……」

――口が滑ったにも、程があるでしょ!

 とりあえず、この場をフォローしなくては。
「あのさ、先輩はものすっごく成績がいいんだよ。なにしろ、学年で一番だからね。それで、私の勉強に付き合ってもらおうと思ってさ」
 慌てて言い訳すると、兄は深く頷く。
「なるほど、そういうことか。真知子は愛想がいいものの、頭の作りがちょっと残念だからな」

――ちょっとどころか、だいぶ残念なお前に言われたくない!

 ギロリと睨み付ける私に気付かず、兄はうんうんと何度も深く頷いていた。
「とにかく、私たちは勉強するから、お兄ちゃんは部屋に行ってよ!」
 私が大きな声を出すと、兄はヒョイと肩をすくめる。
「分かった、分かった。まったく、今日の真知子は、怒りん坊だなぁ。カルシウムは足りているか?」
 その言い方にもイラっときたけれど、さっさと兄を追い出したい私はなにも言わないことにした。
 兄は中途半端に皮が剥がれたパイナップルを脇に抱えると、スッと立ち上がる。
「じゃ、お兄様は部屋で筋トレに励むことにしよう。真知子も、しっかり勉強するんだぞ」
 そう言って、兄はようやくリビングを出ていった。

 まだなんの勉強もしていないというのに、馬鹿アニキのせいでドッと疲れた。
 はぁ、と大きなため息が出てしまう。
「なんだか、すみません。バタバタしていて……」
 疲れ切った声で謝ると、先輩は私の頭を優しく撫でてくる。
「楽しい人だね」
 あの馬鹿アニキを見て、楽しいと言える先輩の懐の広さが逆に怖い。
 私は苦笑いを浮かべる。
「血が繋がっている私からしたら、あまり楽しくは思えないのですが。ほぼ毎日が、あの調子ですし……」
 兄の奇行を目にするのは家にいる時だけではなく、学校にいても馬鹿馬鹿しい動画が送られてくるため、私の気が休まらないのである。
 ふたたび大きなため息を零したら、先輩がポンと私の頭を軽く叩いた。
「お義兄さんは、チコのことが大好きなんだね」
「まぁ、嫌われてないのは分かりますが。もう少し落ち着いてほしいと言いますか、まともな人になってほしいと言いますか……」
 先輩が兄のことを『お兄さん』ではなく、『お義兄さん』といった気がするが、今の私には突っ込む気力がない。
 それより、やっと兄がいなくなったのだから、勉強を見てもらわなくては。
「先輩、さっそくお願いできますか?」
 私が先輩に向き直ると、なぜか先輩が私の肩を掴んだ。
「いいよ、どこがいい?」
「……どこが、とは?」
 勉強する場所はこのリビングだと話してあるので、選択の余地はない。
 なにを言っているのだろうかと首を傾げたら、先輩が僅かに目を細めた。
「額か頬か鼻先か、チコの好きなところに。俺としては口がいいんだけど、それはまだ早いだろうし」
「……なんの話ですか?」
 説明されてもさっぱり理解できないので、改めて問いかける。
 すると先輩がうっすらと頬を染め、小さな声で告げる。
「キスをするなら、どこがいいって話だよ」

――なんで、そんな話になってるんだ?

 まったく流れが読めない展開に、私は顔が引きつった。
「……いえ、すべてお断りです。そもそも、そういった話はしていませんけど」
 私の言葉を聞いて、先輩が残念そうに眉尻を下げる。
「だって、チコがジッと俺を見て『お願いできますか?』って言ったから。てっきり、キスをせがまれているのかと思って」

――兄と同じくらい壊滅的な思考回路を持っている人がここにもいたよ。

 私の顔がさらに引きつった。
 絶句する私に気付いた先輩は、バツが悪そうに視線を伏せる。
「勉強をしに来たのにキスをしているところを見られたら、お義兄さんの信用を失うか。結婚を反対されたら嫌だから、今日のところは我慢する」

――いえ、そんな機会は巡ってきませんが。

 魂が抜けるほど唖然となる私に、先輩ははにかんだ笑みを向けてきた。
「じゃ、勉強しようか」
「ハイ、ヨロシクオネガイシマス」
 すでに燃え尽きた私は、感情がこもらない声を発したのだった。



 少しして正気を取り戻した私は、ローテーブルに教科書とノートを広げる。
「この数式が、いまいち理解できなくて」
 授業中に躓いたポイントを伝えると、先輩は「ああ、それはね」と言って説明を始めた。
 先輩の声は静かで聞き取りやすく、また丁寧に教えてくれるので、すんなりと頭に入ってくる。
「じゃあ、これを試しに解いて」
 指示された問題に取り掛かると、自分でも驚くくらいに簡単に感じた。
「あっ、できました」
「うん、正解だね」
 私の解答を見て、先輩がソッと頷く。
 こんな調子で、理解できてないところを教えてもらう。
 一時間が経つ頃には、数学がだいぶ理解できたような気がした。
 おかげで、お小遣い減額は免れそうだ。
「先輩、ありがとうございます」
 ペコッと頭を下げたら、よしよしといった感じで頭を撫でられる。
「チコは、頑張り屋さんで偉い」
「いえ、先輩の教え方がよかったからです。本当に助かりました」
 へへッと笑い返したら、また頭を撫でられた。
「今日だけじゃなくて、これからも勉強を見ようか?」
 その申し出は大変ありがたいけれど、色々と面倒が巻き起こりそうな気がする。
「それは、その……」
 どうにか断ろうかとした瞬間、リビングの扉がバァンと勢いよく開けられた。
「真知子、勉強は終わったか? 頑張った真知子を、お兄様が労ってやろう!」
 威勢よく登場した兄の全身は、レインボーの全身タイツに覆われている。
 しかも兄の頭には、巨大なアフロのかつらが乗っていた。

――な……、なにがしたいの?
 
 それを見た瞬間、私の魂が抜けた。
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