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第5章ダイジェスト(1):2
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いつものように夕食の買い物を済ませ、和馬さんのマンションにやってきた。
普段から彼にしてもらうことばかりで、私からしてあげられることは、ほとんどなかった。だからこそ、取り柄でもある料理を和馬さんにふるまってあげたい。
そんな私に、和馬さんは毎回、仕事の後で疲れているから無理はしなくていいと言ってくる。
だから私はニコッと笑って言ってあげた。
「私が和馬さんと結婚したら、朝食もお弁当も夕飯も毎日作ることになると思うんです。そのたびに、和馬さんは申し訳ないって言って、私に料理をさせないつもりですか?」
このセリフに、和馬さんがハッと息を呑んで固まった。そして次の瞬間、和馬さんに抱き寄せられた。
まさかの展開に、私は大いに慌てる。私たちがいるのは、部屋の扉の前なのだ。
「和馬さん、ここは廊下ですって! 放してください!」
いつ、人がやってくるか分からない。腕の拘束を解こうと、私は必死にもがく。
しかし、和馬さんはまったく力を緩めてくれなかった。
それから五分ほどが経過し、ようやく私は解放された。
「もう、こんなところでなにをするんですか!」
「あまりにも嬉しいことを言ってくださるから、つい、抱き締めたくなりまして」
「人目に付くところでは、こういうことをしないでください!」
猫が毛を逆立てるがごとく息巻いていると、和馬さんがすごくいい笑顔になった。
「……では、人目に付かない場所であれば、なにをしてもいいということでしょうか?」
艶を含んだ声で、ゆっくりと告げた和馬さん。ユルリと弧を描いた切れ長の目が、私をジッと見つめてくる。
獲物を前にした肉食獣のような笑顔に、私の体は大きく震えたのだった。
その後、何事もなかったかのように和馬さんが扉の鍵を開けた。その横顔は、すっかりいつもの好青年だ。
私はリビングにバッグと上着を置き、和馬さんの部屋に置かせてもらっているエプロンを身に着ける。
「じゃ、ご飯を作っちゃいますね」
彼に一言かけてからキッチンへと向かう。
今夜のメニューはカレーライス。和馬さんのリクエストだ。
時間がないから、市販されているルーを使う。そのままじゃなくて、ちょっと手は加えるけどね。
仕上げに、ウスターソースとケチャップをほんの少し入れるだけで、市販のルーで作ったカレーが簡単にグレードアップ。
――和馬さんも、美味しいって思ってくれるといいなぁ。
野菜を洗ったり、切ったり、炒めたりしながら、彼の喜ぶ顔を想像しながら調理を進めてゆく。
そんな私を、いつもと同じくキッチンの入り口に寄りかかるようにして和馬さんが見守っていた。
まるで大事な宝物を眺めているような、優しい視線だ。
「ユウカの手料理はいつも美味しいですから、今夜のカレーも楽しみですね」
お世辞や愛想笑いではない、彼の心からの言葉と表情。綺麗な顔が、本当に嬉しそうに笑っている。
――なにか、特別いいことでもあった? そんなにカレーが食べたかったとか?
心の中で首を傾げつつ、私は料理の仕上げに取り掛かった。
和馬さんの視線攻撃に耐えつつ、カレーもサラダも上手にできた。
キッチンにあるテーブルに料理を並べ、私たちは席に着く。
「ユウカ、今夜もありがとうございます。では、いただきます」
私の正面に座る彼が、背筋をピシリと伸ばして軽く頭を下げるてからスプーンを手に取った。そのスプーンがカレーを掬い、口に運ばれてから数秒後。
「本当にユウカは料理が上手ですね。このカレー、とても美味しいです」
お世辞じゃない笑顔が返ってきた。
さっきの『作ってくれてありがとう』っていうお礼も嬉しいけど、今みたいに、感想を言ってくれるのも嬉しい。ちゃんと味わってくれているのが分かるから。
彼は何度も美味しいと繰り返し、上品な所作でどんどん食べ進めてゆく。お代りを勧めれば、断ることはしない。私としても、作った甲斐があるというものだ。
「いくらでも入りそうですよ。毎日でも食べたいです」
空いた皿を受け取った私は、やたらと照れ臭くなってしまった。
「カレーなんて簡単なメニューですから、誰でもこのくらいはできると思いますよ」
盛りつけを終えた皿を彼に差し出しながら告げれば、その皿をテーブルに置いた和馬さんが私の手をそっと握ってくる。
「家での食事が美味しいということは、円満な夫婦生活を送る上で大事な項目の一つだと思います。ですから、ユウカと私が結婚したら、必ず幸せな家庭が築けますよ」
私の髪に頬を寄せ、和馬さんが優しい声で囁く。
彼は結婚をほのめかすことを何度となく口にするけれど、それは私を急かしているのではないということは分かっている。……いや、ハンコの件があったな。
まぁ、それは置いておくとして、普段の和馬さんは、それらのセリフを自然と口にしてしまっている感じなのだ。
彼の人生の中で、私と結婚することが予定されているのだと当たり前のように考えてくれていることは、とっても嬉しい。
私は嬉しさを伝えたくて、彼の胸に体をソッと預ける。
すると、和馬さんが小さな笑みを零した。
「ユウカ。予定ではなくて、決定ですよ」
我が彼氏様の勘の良さは、毎度のことながら、その精度が恐ろしい。
二敗目のカレーも綺麗に平らげた和馬さんは、今、二人分の食器を洗っている。料理を作るのは私の担当、洗い物は和馬さんの担当だ。
それは『家事をするのに、性別は関係ありませんよ。お互いに助け合って当然なんです。恋人や夫婦とはそういうものだと、私は思っています。愛する人の助けになりたいという気持ちは、自然なものではないでしょうか』という彼の発言に基づいている。
まだどうなるか分からないけれど、結婚しても仕事は続けたいと思っている私としては、和馬さんのような人は本当にありがたい。
――あれ? 私、結婚なんてまだ早いって思ってるくせに、そういうことばかり考えているかも……
その思考に、カァッと顔が熱くなった。照れくさくなって、椅子に座ったままおでこをグリグリとテーブルに押し付ける。
「ユウカ、どうしました?」
洗い物を終えた和馬さんが、不思議そうに声をかけてきた。
「い、いえ、なんでもありません……」
モゴモゴと返せば、大きな手がポンポンと私の頭を叩いてくる。
「共稼ぎであっても、あなたが専業主婦になっても、私はどちらでもいいですよ」
だから、私の心の中を読むのはやめてください。
それから和馬さんに抱き上げられ、リビングのソファに下ろされた。いや、実際にはソファの上ではなく、彼の膝の上だった。
「カフェオレを淹れましたよ」
後ろから抱き締めてくる和馬さんが示す通り、目の前のローテーブルにはゆらりと湯気が立ち上るカフェオレがあった。
「さぁ、どうぞ」
そう言われても、このままだと落ち着けるはずもない。それに、普段とは少し違う彼の様子も気になる。ふたたび顔を伏せた私は、もごもごと口を動かした。
「気のせいかもしれませんが……、なんていうか、いつもより嬉しそうに見えます」
私の言葉に和馬さんがクスッと笑って、更に腕の拘束を強めてくる。
「今日は、ユウカから嬉しい言葉をたくさんもらいましたからね」
「え? それだけでですか?」
「ユウカ。『それだけ』だなんて、とんでもない。これまでのあなたを見ていれば、かなりの進歩だと思います。それに、結婚も意識してくださっているようですしね」
少し低くて響きの良い声で、コソッと囁いてくる。
彼のセリフに、僅かに触れてくる唇の感触に、耳がジンジンするほど熱くなった。
頬も耳も真っ赤にしていると、小さな笑みを零した和馬さんは私の頬に手を当てる。そして、ゆっくりと上向きにさせてくる。
痛くはないけれど抗えない力に、私は顔を上げざるを得なかった。
すると、幸せそうな笑みを浮かべている和馬さんと目が合う。
まっすぐ和馬さんを見つめていれば、触れるだけのキスをされた。
「ユウカ、あなたが好きです」
告白の後、もう一度キスされる。
そのキスは優しくて、穏やかで。羽根が舞い降りるように軽やかで、雪が積もるように静かで。
そしてものすごく幸せで、体の芯まで溶けてしまいそうな錯覚に陥る。
おまけに、とびっきり甘い声で「愛してます」と囁かれたら、コーヒーに落された角砂糖のように、今度こそホロホロと溶け落ちてしまった。
広い胸にもたれて甘く幸せな余韻に浸りながら、私は胸の内を正直に言葉にする。
「その……、恥ずかしいのは、いつもと同じですけど。でも、和馬さんの、キ……、キスが、ええと……、や、優しいから……。ちょっとだけ、大丈夫、です……」
このソファで与えられたキスは、彼の嬉しいという気持ちと安心感に溢れたものだったから、そこまで取り乱さすことはなかったのである。
「そうでしたか。このように穏やかに過ごすのも、また格別な幸せというものですね」
本当に嬉しそうな口調の和馬さんに、私も嬉しくなった。
しばらく微笑みあった後、和馬さんが入れてくれたカフェオレを味わう。
――それにしたって、私の言葉が嬉しかったからっていうのは……
そんなことを言われたら、嬉しくてますます和馬さんのことが好きになってしまう。
友達の多くは、だいぶ遅刻してやってきた私の恋愛ごとを、自分のことのように喜んでくれて、和馬さんのことを絶賛してくれた。
だけど、何人かの友達は別の意見だった。
『初めて付き合った付き合った人と、結婚まで考える? もう少し、周りを見てみたら? 他に良い人と出逢えるかもしれないよ。まだ、二十一なんだし』
真剣な顔で忠告してきた。
意地悪ではなく、私のことを考えてくれた上での意見だ。だからといって、和馬さん以外の男の人と付き合うつもりはないし、別の男の人を探すつもりもない。
ただ、「結婚を考えるのは早い」という話には、大いに頷ける。
結婚はしたい。出来ることなら和馬さんと。それでも、まだまだ先のこととしか考えられない。
――どうして私は結婚に踏み出せないんだろう。
その時、和馬さんが私の髪に頬擦りしてきた。
「なんだか元気がないですね。どうしました?」
「実は、友達から、結婚を考えるのは早いんじゃないかって言われて、それで……」
モゴモゴと口にすれば、和馬さんはつむじにキスを落とした。
「付き合い始めて数ヶ月の私たちが実際に結婚をするのであれば、確かに早すぎるかもしれません。ですが、考えるだけならば、何も問題ないでしょう?」
式場を探したり、新居を探したりすることは、確かに大ごとだ。
でも、「こんな風になったらいいな」と、思い描いていることを言葉にするだけなら、そんなに大変なことではない。
――ああ、そうか。私、考え過ぎていたんだ。
和馬さんが『結婚』と言葉にするたびに、真剣に考えなくちゃいけないんだって思い込んで。それで、自分でも気が付かないうちに尻込みしていたのだ。
苦笑いを返せば、和馬さんがそっと抱き締めてきた。
「ですが、それだけユウカが私とのことを真剣に考えてくれているという証拠ですからね。私としては、嬉しいですよ。ああ、そうです。そんなに不安に思うのでしたら、練習してみるのはいかがでしょうか?」
和馬さんがふいに楽しそうな声で提案してきた。
「れ、練習? なんの?」
首を傾げれば、和馬さんがサイドボートから一枚の紙を取り出した。ヒラリとガラステーブルの上に置いたのは、なんと、婚姻届けである。
「さぁ、ユウカ。試しに、ここにあなたの名前を書いてみませんか?」
「は!?」
事態が呑み込めずに呆然と目の前に置かれた紙を凝視していると、ボールペンの横になにかが置かれる。
「ちょうど、ここに『小向日葵』のハンコもありますし」
――え? なんで? 和馬さんがハンコを持ってるの!? っていうか、婚姻届けって!?
目を白黒させていれば、私の右手に彼の大きな手が重なる。
「大丈夫ですよ、ユウカ。練習ですからね、思い切ってどうぞ」
あまりに突拍子もない彼の言動に、つい噴き出してしまった。
「あははっ。いくらなんでも、それはやりすぎですって」
和馬さんは私を笑わせようとして、こんなことをしてきたのだろう。
それが証拠に、和馬さんはペンもハンコも手に取らない私を、ただ、ホッとしたような優しい顔で見つめているだけ。
「笑ったら、なんか、元気になりました」
振り返ってフニャリと表情を緩めれば、さらに強く抱きしめられた。
私が不安になると、すかさずフォローしてくれる優しい恋人。和馬さんを好きになってよかったなと、つくづく感じたのだった。
普段から彼にしてもらうことばかりで、私からしてあげられることは、ほとんどなかった。だからこそ、取り柄でもある料理を和馬さんにふるまってあげたい。
そんな私に、和馬さんは毎回、仕事の後で疲れているから無理はしなくていいと言ってくる。
だから私はニコッと笑って言ってあげた。
「私が和馬さんと結婚したら、朝食もお弁当も夕飯も毎日作ることになると思うんです。そのたびに、和馬さんは申し訳ないって言って、私に料理をさせないつもりですか?」
このセリフに、和馬さんがハッと息を呑んで固まった。そして次の瞬間、和馬さんに抱き寄せられた。
まさかの展開に、私は大いに慌てる。私たちがいるのは、部屋の扉の前なのだ。
「和馬さん、ここは廊下ですって! 放してください!」
いつ、人がやってくるか分からない。腕の拘束を解こうと、私は必死にもがく。
しかし、和馬さんはまったく力を緩めてくれなかった。
それから五分ほどが経過し、ようやく私は解放された。
「もう、こんなところでなにをするんですか!」
「あまりにも嬉しいことを言ってくださるから、つい、抱き締めたくなりまして」
「人目に付くところでは、こういうことをしないでください!」
猫が毛を逆立てるがごとく息巻いていると、和馬さんがすごくいい笑顔になった。
「……では、人目に付かない場所であれば、なにをしてもいいということでしょうか?」
艶を含んだ声で、ゆっくりと告げた和馬さん。ユルリと弧を描いた切れ長の目が、私をジッと見つめてくる。
獲物を前にした肉食獣のような笑顔に、私の体は大きく震えたのだった。
その後、何事もなかったかのように和馬さんが扉の鍵を開けた。その横顔は、すっかりいつもの好青年だ。
私はリビングにバッグと上着を置き、和馬さんの部屋に置かせてもらっているエプロンを身に着ける。
「じゃ、ご飯を作っちゃいますね」
彼に一言かけてからキッチンへと向かう。
今夜のメニューはカレーライス。和馬さんのリクエストだ。
時間がないから、市販されているルーを使う。そのままじゃなくて、ちょっと手は加えるけどね。
仕上げに、ウスターソースとケチャップをほんの少し入れるだけで、市販のルーで作ったカレーが簡単にグレードアップ。
――和馬さんも、美味しいって思ってくれるといいなぁ。
野菜を洗ったり、切ったり、炒めたりしながら、彼の喜ぶ顔を想像しながら調理を進めてゆく。
そんな私を、いつもと同じくキッチンの入り口に寄りかかるようにして和馬さんが見守っていた。
まるで大事な宝物を眺めているような、優しい視線だ。
「ユウカの手料理はいつも美味しいですから、今夜のカレーも楽しみですね」
お世辞や愛想笑いではない、彼の心からの言葉と表情。綺麗な顔が、本当に嬉しそうに笑っている。
――なにか、特別いいことでもあった? そんなにカレーが食べたかったとか?
心の中で首を傾げつつ、私は料理の仕上げに取り掛かった。
和馬さんの視線攻撃に耐えつつ、カレーもサラダも上手にできた。
キッチンにあるテーブルに料理を並べ、私たちは席に着く。
「ユウカ、今夜もありがとうございます。では、いただきます」
私の正面に座る彼が、背筋をピシリと伸ばして軽く頭を下げるてからスプーンを手に取った。そのスプーンがカレーを掬い、口に運ばれてから数秒後。
「本当にユウカは料理が上手ですね。このカレー、とても美味しいです」
お世辞じゃない笑顔が返ってきた。
さっきの『作ってくれてありがとう』っていうお礼も嬉しいけど、今みたいに、感想を言ってくれるのも嬉しい。ちゃんと味わってくれているのが分かるから。
彼は何度も美味しいと繰り返し、上品な所作でどんどん食べ進めてゆく。お代りを勧めれば、断ることはしない。私としても、作った甲斐があるというものだ。
「いくらでも入りそうですよ。毎日でも食べたいです」
空いた皿を受け取った私は、やたらと照れ臭くなってしまった。
「カレーなんて簡単なメニューですから、誰でもこのくらいはできると思いますよ」
盛りつけを終えた皿を彼に差し出しながら告げれば、その皿をテーブルに置いた和馬さんが私の手をそっと握ってくる。
「家での食事が美味しいということは、円満な夫婦生活を送る上で大事な項目の一つだと思います。ですから、ユウカと私が結婚したら、必ず幸せな家庭が築けますよ」
私の髪に頬を寄せ、和馬さんが優しい声で囁く。
彼は結婚をほのめかすことを何度となく口にするけれど、それは私を急かしているのではないということは分かっている。……いや、ハンコの件があったな。
まぁ、それは置いておくとして、普段の和馬さんは、それらのセリフを自然と口にしてしまっている感じなのだ。
彼の人生の中で、私と結婚することが予定されているのだと当たり前のように考えてくれていることは、とっても嬉しい。
私は嬉しさを伝えたくて、彼の胸に体をソッと預ける。
すると、和馬さんが小さな笑みを零した。
「ユウカ。予定ではなくて、決定ですよ」
我が彼氏様の勘の良さは、毎度のことながら、その精度が恐ろしい。
二敗目のカレーも綺麗に平らげた和馬さんは、今、二人分の食器を洗っている。料理を作るのは私の担当、洗い物は和馬さんの担当だ。
それは『家事をするのに、性別は関係ありませんよ。お互いに助け合って当然なんです。恋人や夫婦とはそういうものだと、私は思っています。愛する人の助けになりたいという気持ちは、自然なものではないでしょうか』という彼の発言に基づいている。
まだどうなるか分からないけれど、結婚しても仕事は続けたいと思っている私としては、和馬さんのような人は本当にありがたい。
――あれ? 私、結婚なんてまだ早いって思ってるくせに、そういうことばかり考えているかも……
その思考に、カァッと顔が熱くなった。照れくさくなって、椅子に座ったままおでこをグリグリとテーブルに押し付ける。
「ユウカ、どうしました?」
洗い物を終えた和馬さんが、不思議そうに声をかけてきた。
「い、いえ、なんでもありません……」
モゴモゴと返せば、大きな手がポンポンと私の頭を叩いてくる。
「共稼ぎであっても、あなたが専業主婦になっても、私はどちらでもいいですよ」
だから、私の心の中を読むのはやめてください。
それから和馬さんに抱き上げられ、リビングのソファに下ろされた。いや、実際にはソファの上ではなく、彼の膝の上だった。
「カフェオレを淹れましたよ」
後ろから抱き締めてくる和馬さんが示す通り、目の前のローテーブルにはゆらりと湯気が立ち上るカフェオレがあった。
「さぁ、どうぞ」
そう言われても、このままだと落ち着けるはずもない。それに、普段とは少し違う彼の様子も気になる。ふたたび顔を伏せた私は、もごもごと口を動かした。
「気のせいかもしれませんが……、なんていうか、いつもより嬉しそうに見えます」
私の言葉に和馬さんがクスッと笑って、更に腕の拘束を強めてくる。
「今日は、ユウカから嬉しい言葉をたくさんもらいましたからね」
「え? それだけでですか?」
「ユウカ。『それだけ』だなんて、とんでもない。これまでのあなたを見ていれば、かなりの進歩だと思います。それに、結婚も意識してくださっているようですしね」
少し低くて響きの良い声で、コソッと囁いてくる。
彼のセリフに、僅かに触れてくる唇の感触に、耳がジンジンするほど熱くなった。
頬も耳も真っ赤にしていると、小さな笑みを零した和馬さんは私の頬に手を当てる。そして、ゆっくりと上向きにさせてくる。
痛くはないけれど抗えない力に、私は顔を上げざるを得なかった。
すると、幸せそうな笑みを浮かべている和馬さんと目が合う。
まっすぐ和馬さんを見つめていれば、触れるだけのキスをされた。
「ユウカ、あなたが好きです」
告白の後、もう一度キスされる。
そのキスは優しくて、穏やかで。羽根が舞い降りるように軽やかで、雪が積もるように静かで。
そしてものすごく幸せで、体の芯まで溶けてしまいそうな錯覚に陥る。
おまけに、とびっきり甘い声で「愛してます」と囁かれたら、コーヒーに落された角砂糖のように、今度こそホロホロと溶け落ちてしまった。
広い胸にもたれて甘く幸せな余韻に浸りながら、私は胸の内を正直に言葉にする。
「その……、恥ずかしいのは、いつもと同じですけど。でも、和馬さんの、キ……、キスが、ええと……、や、優しいから……。ちょっとだけ、大丈夫、です……」
このソファで与えられたキスは、彼の嬉しいという気持ちと安心感に溢れたものだったから、そこまで取り乱さすことはなかったのである。
「そうでしたか。このように穏やかに過ごすのも、また格別な幸せというものですね」
本当に嬉しそうな口調の和馬さんに、私も嬉しくなった。
しばらく微笑みあった後、和馬さんが入れてくれたカフェオレを味わう。
――それにしたって、私の言葉が嬉しかったからっていうのは……
そんなことを言われたら、嬉しくてますます和馬さんのことが好きになってしまう。
友達の多くは、だいぶ遅刻してやってきた私の恋愛ごとを、自分のことのように喜んでくれて、和馬さんのことを絶賛してくれた。
だけど、何人かの友達は別の意見だった。
『初めて付き合った付き合った人と、結婚まで考える? もう少し、周りを見てみたら? 他に良い人と出逢えるかもしれないよ。まだ、二十一なんだし』
真剣な顔で忠告してきた。
意地悪ではなく、私のことを考えてくれた上での意見だ。だからといって、和馬さん以外の男の人と付き合うつもりはないし、別の男の人を探すつもりもない。
ただ、「結婚を考えるのは早い」という話には、大いに頷ける。
結婚はしたい。出来ることなら和馬さんと。それでも、まだまだ先のこととしか考えられない。
――どうして私は結婚に踏み出せないんだろう。
その時、和馬さんが私の髪に頬擦りしてきた。
「なんだか元気がないですね。どうしました?」
「実は、友達から、結婚を考えるのは早いんじゃないかって言われて、それで……」
モゴモゴと口にすれば、和馬さんはつむじにキスを落とした。
「付き合い始めて数ヶ月の私たちが実際に結婚をするのであれば、確かに早すぎるかもしれません。ですが、考えるだけならば、何も問題ないでしょう?」
式場を探したり、新居を探したりすることは、確かに大ごとだ。
でも、「こんな風になったらいいな」と、思い描いていることを言葉にするだけなら、そんなに大変なことではない。
――ああ、そうか。私、考え過ぎていたんだ。
和馬さんが『結婚』と言葉にするたびに、真剣に考えなくちゃいけないんだって思い込んで。それで、自分でも気が付かないうちに尻込みしていたのだ。
苦笑いを返せば、和馬さんがそっと抱き締めてきた。
「ですが、それだけユウカが私とのことを真剣に考えてくれているという証拠ですからね。私としては、嬉しいですよ。ああ、そうです。そんなに不安に思うのでしたら、練習してみるのはいかがでしょうか?」
和馬さんがふいに楽しそうな声で提案してきた。
「れ、練習? なんの?」
首を傾げれば、和馬さんがサイドボートから一枚の紙を取り出した。ヒラリとガラステーブルの上に置いたのは、なんと、婚姻届けである。
「さぁ、ユウカ。試しに、ここにあなたの名前を書いてみませんか?」
「は!?」
事態が呑み込めずに呆然と目の前に置かれた紙を凝視していると、ボールペンの横になにかが置かれる。
「ちょうど、ここに『小向日葵』のハンコもありますし」
――え? なんで? 和馬さんがハンコを持ってるの!? っていうか、婚姻届けって!?
目を白黒させていれば、私の右手に彼の大きな手が重なる。
「大丈夫ですよ、ユウカ。練習ですからね、思い切ってどうぞ」
あまりに突拍子もない彼の言動に、つい噴き出してしまった。
「あははっ。いくらなんでも、それはやりすぎですって」
和馬さんは私を笑わせようとして、こんなことをしてきたのだろう。
それが証拠に、和馬さんはペンもハンコも手に取らない私を、ただ、ホッとしたような優しい顔で見つめているだけ。
「笑ったら、なんか、元気になりました」
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