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学園編
担任と知り合いとチラリズム
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「……ルシファー。魔界幹部第一席」
ナクロはそれくらいしか知らない。情報が少ない。……授業、受けるか。
ナクロは入学式の日から数日、図書室に篭っていた。主にギルド関連を読み漁りに。寮から出るのは登校時間を大幅に過ぎた後。帰るのは下校前。寮は三人部屋なのだがルームメイトの顔を見ていない。ナクロが見せない。そのため『101号室の幽霊生徒』と呼ばれている。冷蔵庫から食材は減らない。部屋から一歩も出ない。誰も姿を見たことがない。そこまでくれば幽霊と呼ばれても仕方がなかった。本当は図書室によく出入りするから、司書の人や図書委員会の女生徒は儚げな美男子について恋バナで盛り上がっているのだが。
図書室には世界の書物のほとんどが収められている。中には貴重な原本もあって持ち出し禁止区域、立ち入り禁止区域も存在している。ルシファーなどの魔界や魔族、そのギルドに関する資料はそのあたりに蔵書されていると思われる。それらに関わるには教師からの信用や普段の態度、成績が良くなければいけないが……。
「既にサボりすぎたな」
「まったくもってそのとおりだ、ミッシェルハイズ」
ナクロはどうやら自分はいきなり話しかけられることが多いらしいと気づいた。ピンク頭、魔族、そしてこの男。みんなして俺の意表をつきたいのか?
くるりと振り返ると、端正な顔の男、担任のディスト・グレハランがいた。額に青筋を浮かべ、本棚に背を預けて腕を組んでいる。ザ、怒っています、というような態度だ。仕方なくナクロは話しかける。
「一体全体どうしたんですかグレハラン先生」
「入学式から数日、連続無断欠席。クラスの奴らも言ってるぞ、『ひきこもりがいる』ってな。そろそろ教室に来たらどうだ」
眉間にシワを寄せ、疲労感を醸し出してグレハランは訴える。一応この学園に入ったという事は素質があるということ。裏ギルドへの戦力の流出をとどめるのも教師の役目だ。
「そうですね俺もそう考えていました。だから明日行きます」
「いいや、今からだ。ちょうど次は俺の授業。担任様直々に呼びに来てやったんだ、大人しくついてこい」
その言葉に大人しくナクロは従う。
「じゃあこの本借りてくるので」
半目だった眼を少し開けて、ナクロが持つ本に目をやる。『精霊魔法』。失われた魔法だ。今時そんなものを読むやつがいるのかと感心する。
「……熱心だな。ほら、行ってこい」
さあ皆さん騙されましたね。素直にナクロが従う訳ありません。司書の方がいるカウンターへと本棚の間の道を通り抜け、そして右へ曲がったその後脱兎のごとくナクロは駆け出した。もちろん後ろを全速力でグレハランが追う。
「ではさようなら」
「ちょ、待てやこらぁ!」
「待つと言われて待つ者がいるだろうか、いやいない」
「うるせぇ止まれ!」
「答えはNOです」
「ミッシェルハイズぅぅぅ!」
図書室の扉を開け、昼休みの生徒でごった返す廊下を走る。右に、左に曲がり、階段を上に下に移動して、迫る怒声から逃げ回る。中庭に出て、魔術科校舎から武闘科校舎へ。息が荒い。昔よりトレーニングもしてないからか。
「あ、入学式の新入生……」
どこかで見たことあるピンク頭を通り過ごして、屋上に駆け上がり、武闘科校舎から魔術を重ねて跳躍。飛び降りた先は多目棟の屋根。足裏からの衝撃を膝を曲げて緩和。周りを見渡し、生徒が少ないから昼休みが終わることを悟る。流石にここまで来れば追いかけては来ないだろう。というよりまけたはずだ。
「あの教師しつこい。そもそもまだ基礎しかやってないだろうに、出席しても意味無いだろう……」
ナクロは服が汚れるのも厭わず、早々に結論を出して寝転がった。空を見上げ、休息を味わう。太陽に手を掲げ、端で皮膚を透かす日光に目を細めた。血液が透けてオレンジに見える。生きているんだ。それがわかる。ただ、
「生きる実感は、ない」
それを得るには、やっぱりあれを味わうしかないのだが。もはや中毒なのかもしれない。いや、そうなのだろう。制限、管理しなければいくらでも手を出してしまうのだから。
ギュッと握る。力を込め、プツリと皮膚が裂けたところで手を開く。爪の形に血が滲んでいた。ああ、ダメだ、ダメだ。やっぱり無理だ。こんなに鮮やかなそれを我慢なんてできるわけがない。脳内で派手な警鐘が鳴り響く。晴天の下で赤が映えて、一滴、口を開けたナクロの舌に滴る。
また約束を破ってしまった。鉄拳が飛んでくるだろう。
「ナクロぉぉ!」
「ほら、すぐに来た」
飛び移ってきた武闘科校舎の屋上、そこで名を叫んだ女が一人。燃えるような赤髪が風になびいて、炎のように揺らめいている。対照的な青の瞳に大空に似た深さを見て、ナクロは渇望が落ち着いたのを感じた。彼女はナクロの一つ上で、昔から知る仲だ。
「あんたいい加減にしなさいよっ!いつまでもあたしが面倒みるわけにはいかないでしょ!?だいたいねぇ……!」
30メートルは離れた遠くから耳にガンガンと響く声だ。しかしこれはナクロだけで、周りの、縁に止まっている小鳥には微塵も聞こえまい。
「こっち来なさいよぉ!」
それこそ彼女の持つ能力だ。特別な魔力を持ち、指定した相手にだけ声を聞かせ、または音量を調整することが出来る。指揮官に向いた魔力と言えよう。戦場にいなくとも指示を出せる。
「なぁぁくぅぅろぉぉ!」
「……行く」
寝てた体を起こし、軽く背中と足の埃を払う。どうせ誰も見てないならいいかと、空中を歩くようにして二つの建物の間を渡り、鬼気迫る青の瞳に烈火のごとく燃え盛る赤髪の少女に近づいた。
ナクロは軽く左頬に力を入れて待ち構える。
「こんのバカッ!」
案の定骨が折れるような鈍い音を響かせて拳が炸裂した。
「痛いな……」
……無防備の右頬に。
「あったりまえじゃないの!殴られて痛くないなんかマゾよマゾ!」
「いや、違う。メリカは右利きだから左の頬を覚悟してた」
「そこまでわかって左で殴ったに決まってるでしょ!少し弱いんだから感謝して欲しいくらいよ!か、ん、しゃ!」
二人には身長差はあまりない。ナクロが男にしては低い身長で、歳に一年の差があり、女にしては背の高い少女だからだろう。まあ、つまり、何を言いたいのかというと。
「……そうだな、あまり痛くない。ありがとう」
「素直に謝られてもむかつくっ!」
目の前の姿が一瞬ぶれたかと思うと、今度は左頬にローファーの爪先がめり込んだ。
つまりは、身長差がほとんどないので回し蹴りは割とやりやすい相手ということだ。
ナクロがメリカと読んだ少女は制服の胸バッヂには武闘科のものをつけていた。ナクロの魔術科のバッヂは魔女が星を抱える図。対して武闘科はシンプルに剣と拳、槍、弓。この四つが描かれている。弓と剣で円を作り、その中で拳と槍が交差する。少女には似合わない無骨なデザインだが大抵の生徒には人気だった。
メリカは武器を持たない戦闘に長けているため、回し蹴りは得意である。
今日はやけに踏んだり蹴ったりだな。メリカも普段ならここまで酷い仕打ちはしない。……しなかった……と思うのだが。多分。
固いセメントの上を跳ねるようにワンバウンドしてナクロは仰向けに空を見上げた。こんな痛い目に遭ってるというのにさっき見上げた空と大差ない。そのことはなんだかとても自分を小さくさせる。そうだ、小さいのだから、構わない。構わないのだ。
何でもないように立ち上がり、再び制服を払ってから、特に今回は全身くまなく払ってから、ナクロはメリカに笑った。というかどうにか口角を上げた。ナクロが自然と笑うのはほとんど無いが、笑おうとする時はある。メリカのように良く知った仲の相手には努力しようとする。
「ありがとう。メリカのおかげで少しモヤが晴れた」
「……そう」
対してメリカは蹴られても尚微笑もうとするナクロに引いたような目を向けたが。
「これ以上血飲は控えなさい。あたしに連絡が来るのはわかってるんでしょ。毎度毎度止めに来るあたしの身になって考えて」
「ごめん」
「もういい。帰るわよ」
「ああ」
赤髪が揺れるのを、ナクロは炎のようだと形容する。メリカはそのことを少し嬉しく思っているのだが、同時にナクロも髪をどうにかすればいいと思っている。
先に階段を降りる藍色が、暗めの廊下と混ざって闇に溶けていきそうだ。ナクロほど長い髪の男子生徒も早々いないだろう。一つに束ねられた髪がナクロに合わせて左右に動く。
綺麗なのに。綺麗なのに、あんたはこれを嫌うよね。今でも覚えてる。あんたが『大っ嫌い』って言った、もっと深くて底のない沼のように未知の色。それに似てるから嫌い、なんて、我が儘だよね。
当時を思い出して、メリカは少し頬を緩ませた。今では姉などと呼んではくれないけれど、メリカは弟のような危うい存在を愛おしく感じていた。
「メリカ、ここまででいい」
「そう?」
着いたのは武闘科の一階。方向からしてどうやら寮に戻るようだが、メリカは関与しない。ナクロのサボリ癖は周知だ。
「ああ、忘れてた」
「何?もう五限は終わりよ。次の準備したいんだけれど」
ナクロは躊躇う。
言っていいものか。怒られるに決まっている。いや、だけど言わなくては。今後のメリカのためにも。
「……女生徒がスカートで回し蹴りするのはどうかと思う」
「は?どういうい、み……」
「それじゃあ」
ナクロは鬼が出る前にと寮へ駆け出した。その俊足さは知っているので追いかけはしない。だけど怒鳴るくらいはしても許されるだろう。
「バカーーーーっ!」
もちろんナクロにだけの大音量だ。
それに、回し蹴りなんてナクロぐらいにしかやらないんだから!どうしていらないこと言うのよっ!……注意したつもりなんだろうけど。
「はぁ……」
一つため息をついて、メリカは教室に向かった。
武闘科に限らず校舎はすべて一階が一年生、二階が二年生というふうに続いているので、先ほど降りてきた階段をもう一度上がる。ちょっと火照った頬を冷ますようにパタパタと手で扇ぎ、ナクロのことを考えた。
「……元気そうで良かった」
再会して、懐かしさと愛おしさがこみ上げて、一年離れて存外自分は弟分に依存していたことに気づいたのだった。
「メリカちゃん珍しいよねぇ、授業出なかったのぉ?」
「……レオンハルト・リオリア、あんたのどっピンクより珍しくないわよ」
階段の踊り場、そこで立ち止まったメリカに話しかけたのは二階から見下ろす同級生だった。
「えぇー。それよりクールなメリカちゃんがあんなに怒鳴るなんて天地がひっくり返ってもありえないと思ってたんだけどぉ?」
最っ悪。
そう心の中で悪態をつく。最後に叫んだ時咄嗟のことで魔術が甘かったらしい。よりによってこの色魔に聞かれたのは今後いじられるネタになることだろう。屈辱だ。こいつは授業に出ないことなんかナクロ以上に当たり前だと思ってるから、バッチリ聞かれたのだろう。
「新入生だよねぇ~。上で色々やってたみたいだけどぉ。あの子にぜんっぜん殴られた痕がついてないの、どうゆうことー?」
とん、とん、と自身の頬を指さして言うレオンハルト。その口は三日月を描き、だが目だけは探るように爛々と輝く。まるで猫、それも派手好きのチェシャ猫だ。すべて知っているように笑い、それでも自分から言わせようと甘言を囁く。
ぐっと歯を噛み締めメリカは耐えた。何も言うまいと口を閉ざした。手を出して声帯を潰せたらそれが一番、個人的にスッキリする殺り方だが、レオンハルトの方が強いのでどうにもできない。
なんでこんなむかつく野郎があたしより成績いいのよっ!?
「ま、いいよぉ」
降ってきたセリフに、メリカは思わず耳を疑った。
「だって……秘密は暴くのが一番イイでしょぉ?」
「クソ快楽主義者」
「あはは、またね~」
今出来る精一杯の反抗もどうやら褒め言葉のようで、軽くいなしてレオンハルトは去っていった。
しばらく警戒していたが他の生徒が出てきて、メリカはレオンハルトのことを無理やり忘れた。覚えていたくない。……そういえば、回し蹴りから起き上がった時には既にナクロは顔の腫れをなくしていた。今までより随分治療速度が速くなっているようだ。
あいつも頑張っている。あたしも、あんなピンク追い越さないと。
闘志を胸にメリカは次の授業へと向かった。
ナクロはそれくらいしか知らない。情報が少ない。……授業、受けるか。
ナクロは入学式の日から数日、図書室に篭っていた。主にギルド関連を読み漁りに。寮から出るのは登校時間を大幅に過ぎた後。帰るのは下校前。寮は三人部屋なのだがルームメイトの顔を見ていない。ナクロが見せない。そのため『101号室の幽霊生徒』と呼ばれている。冷蔵庫から食材は減らない。部屋から一歩も出ない。誰も姿を見たことがない。そこまでくれば幽霊と呼ばれても仕方がなかった。本当は図書室によく出入りするから、司書の人や図書委員会の女生徒は儚げな美男子について恋バナで盛り上がっているのだが。
図書室には世界の書物のほとんどが収められている。中には貴重な原本もあって持ち出し禁止区域、立ち入り禁止区域も存在している。ルシファーなどの魔界や魔族、そのギルドに関する資料はそのあたりに蔵書されていると思われる。それらに関わるには教師からの信用や普段の態度、成績が良くなければいけないが……。
「既にサボりすぎたな」
「まったくもってそのとおりだ、ミッシェルハイズ」
ナクロはどうやら自分はいきなり話しかけられることが多いらしいと気づいた。ピンク頭、魔族、そしてこの男。みんなして俺の意表をつきたいのか?
くるりと振り返ると、端正な顔の男、担任のディスト・グレハランがいた。額に青筋を浮かべ、本棚に背を預けて腕を組んでいる。ザ、怒っています、というような態度だ。仕方なくナクロは話しかける。
「一体全体どうしたんですかグレハラン先生」
「入学式から数日、連続無断欠席。クラスの奴らも言ってるぞ、『ひきこもりがいる』ってな。そろそろ教室に来たらどうだ」
眉間にシワを寄せ、疲労感を醸し出してグレハランは訴える。一応この学園に入ったという事は素質があるということ。裏ギルドへの戦力の流出をとどめるのも教師の役目だ。
「そうですね俺もそう考えていました。だから明日行きます」
「いいや、今からだ。ちょうど次は俺の授業。担任様直々に呼びに来てやったんだ、大人しくついてこい」
その言葉に大人しくナクロは従う。
「じゃあこの本借りてくるので」
半目だった眼を少し開けて、ナクロが持つ本に目をやる。『精霊魔法』。失われた魔法だ。今時そんなものを読むやつがいるのかと感心する。
「……熱心だな。ほら、行ってこい」
さあ皆さん騙されましたね。素直にナクロが従う訳ありません。司書の方がいるカウンターへと本棚の間の道を通り抜け、そして右へ曲がったその後脱兎のごとくナクロは駆け出した。もちろん後ろを全速力でグレハランが追う。
「ではさようなら」
「ちょ、待てやこらぁ!」
「待つと言われて待つ者がいるだろうか、いやいない」
「うるせぇ止まれ!」
「答えはNOです」
「ミッシェルハイズぅぅぅ!」
図書室の扉を開け、昼休みの生徒でごった返す廊下を走る。右に、左に曲がり、階段を上に下に移動して、迫る怒声から逃げ回る。中庭に出て、魔術科校舎から武闘科校舎へ。息が荒い。昔よりトレーニングもしてないからか。
「あ、入学式の新入生……」
どこかで見たことあるピンク頭を通り過ごして、屋上に駆け上がり、武闘科校舎から魔術を重ねて跳躍。飛び降りた先は多目棟の屋根。足裏からの衝撃を膝を曲げて緩和。周りを見渡し、生徒が少ないから昼休みが終わることを悟る。流石にここまで来れば追いかけては来ないだろう。というよりまけたはずだ。
「あの教師しつこい。そもそもまだ基礎しかやってないだろうに、出席しても意味無いだろう……」
ナクロは服が汚れるのも厭わず、早々に結論を出して寝転がった。空を見上げ、休息を味わう。太陽に手を掲げ、端で皮膚を透かす日光に目を細めた。血液が透けてオレンジに見える。生きているんだ。それがわかる。ただ、
「生きる実感は、ない」
それを得るには、やっぱりあれを味わうしかないのだが。もはや中毒なのかもしれない。いや、そうなのだろう。制限、管理しなければいくらでも手を出してしまうのだから。
ギュッと握る。力を込め、プツリと皮膚が裂けたところで手を開く。爪の形に血が滲んでいた。ああ、ダメだ、ダメだ。やっぱり無理だ。こんなに鮮やかなそれを我慢なんてできるわけがない。脳内で派手な警鐘が鳴り響く。晴天の下で赤が映えて、一滴、口を開けたナクロの舌に滴る。
また約束を破ってしまった。鉄拳が飛んでくるだろう。
「ナクロぉぉ!」
「ほら、すぐに来た」
飛び移ってきた武闘科校舎の屋上、そこで名を叫んだ女が一人。燃えるような赤髪が風になびいて、炎のように揺らめいている。対照的な青の瞳に大空に似た深さを見て、ナクロは渇望が落ち着いたのを感じた。彼女はナクロの一つ上で、昔から知る仲だ。
「あんたいい加減にしなさいよっ!いつまでもあたしが面倒みるわけにはいかないでしょ!?だいたいねぇ……!」
30メートルは離れた遠くから耳にガンガンと響く声だ。しかしこれはナクロだけで、周りの、縁に止まっている小鳥には微塵も聞こえまい。
「こっち来なさいよぉ!」
それこそ彼女の持つ能力だ。特別な魔力を持ち、指定した相手にだけ声を聞かせ、または音量を調整することが出来る。指揮官に向いた魔力と言えよう。戦場にいなくとも指示を出せる。
「なぁぁくぅぅろぉぉ!」
「……行く」
寝てた体を起こし、軽く背中と足の埃を払う。どうせ誰も見てないならいいかと、空中を歩くようにして二つの建物の間を渡り、鬼気迫る青の瞳に烈火のごとく燃え盛る赤髪の少女に近づいた。
ナクロは軽く左頬に力を入れて待ち構える。
「こんのバカッ!」
案の定骨が折れるような鈍い音を響かせて拳が炸裂した。
「痛いな……」
……無防備の右頬に。
「あったりまえじゃないの!殴られて痛くないなんかマゾよマゾ!」
「いや、違う。メリカは右利きだから左の頬を覚悟してた」
「そこまでわかって左で殴ったに決まってるでしょ!少し弱いんだから感謝して欲しいくらいよ!か、ん、しゃ!」
二人には身長差はあまりない。ナクロが男にしては低い身長で、歳に一年の差があり、女にしては背の高い少女だからだろう。まあ、つまり、何を言いたいのかというと。
「……そうだな、あまり痛くない。ありがとう」
「素直に謝られてもむかつくっ!」
目の前の姿が一瞬ぶれたかと思うと、今度は左頬にローファーの爪先がめり込んだ。
つまりは、身長差がほとんどないので回し蹴りは割とやりやすい相手ということだ。
ナクロがメリカと読んだ少女は制服の胸バッヂには武闘科のものをつけていた。ナクロの魔術科のバッヂは魔女が星を抱える図。対して武闘科はシンプルに剣と拳、槍、弓。この四つが描かれている。弓と剣で円を作り、その中で拳と槍が交差する。少女には似合わない無骨なデザインだが大抵の生徒には人気だった。
メリカは武器を持たない戦闘に長けているため、回し蹴りは得意である。
今日はやけに踏んだり蹴ったりだな。メリカも普段ならここまで酷い仕打ちはしない。……しなかった……と思うのだが。多分。
固いセメントの上を跳ねるようにワンバウンドしてナクロは仰向けに空を見上げた。こんな痛い目に遭ってるというのにさっき見上げた空と大差ない。そのことはなんだかとても自分を小さくさせる。そうだ、小さいのだから、構わない。構わないのだ。
何でもないように立ち上がり、再び制服を払ってから、特に今回は全身くまなく払ってから、ナクロはメリカに笑った。というかどうにか口角を上げた。ナクロが自然と笑うのはほとんど無いが、笑おうとする時はある。メリカのように良く知った仲の相手には努力しようとする。
「ありがとう。メリカのおかげで少しモヤが晴れた」
「……そう」
対してメリカは蹴られても尚微笑もうとするナクロに引いたような目を向けたが。
「これ以上血飲は控えなさい。あたしに連絡が来るのはわかってるんでしょ。毎度毎度止めに来るあたしの身になって考えて」
「ごめん」
「もういい。帰るわよ」
「ああ」
赤髪が揺れるのを、ナクロは炎のようだと形容する。メリカはそのことを少し嬉しく思っているのだが、同時にナクロも髪をどうにかすればいいと思っている。
先に階段を降りる藍色が、暗めの廊下と混ざって闇に溶けていきそうだ。ナクロほど長い髪の男子生徒も早々いないだろう。一つに束ねられた髪がナクロに合わせて左右に動く。
綺麗なのに。綺麗なのに、あんたはこれを嫌うよね。今でも覚えてる。あんたが『大っ嫌い』って言った、もっと深くて底のない沼のように未知の色。それに似てるから嫌い、なんて、我が儘だよね。
当時を思い出して、メリカは少し頬を緩ませた。今では姉などと呼んではくれないけれど、メリカは弟のような危うい存在を愛おしく感じていた。
「メリカ、ここまででいい」
「そう?」
着いたのは武闘科の一階。方向からしてどうやら寮に戻るようだが、メリカは関与しない。ナクロのサボリ癖は周知だ。
「ああ、忘れてた」
「何?もう五限は終わりよ。次の準備したいんだけれど」
ナクロは躊躇う。
言っていいものか。怒られるに決まっている。いや、だけど言わなくては。今後のメリカのためにも。
「……女生徒がスカートで回し蹴りするのはどうかと思う」
「は?どういうい、み……」
「それじゃあ」
ナクロは鬼が出る前にと寮へ駆け出した。その俊足さは知っているので追いかけはしない。だけど怒鳴るくらいはしても許されるだろう。
「バカーーーーっ!」
もちろんナクロにだけの大音量だ。
それに、回し蹴りなんてナクロぐらいにしかやらないんだから!どうしていらないこと言うのよっ!……注意したつもりなんだろうけど。
「はぁ……」
一つため息をついて、メリカは教室に向かった。
武闘科に限らず校舎はすべて一階が一年生、二階が二年生というふうに続いているので、先ほど降りてきた階段をもう一度上がる。ちょっと火照った頬を冷ますようにパタパタと手で扇ぎ、ナクロのことを考えた。
「……元気そうで良かった」
再会して、懐かしさと愛おしさがこみ上げて、一年離れて存外自分は弟分に依存していたことに気づいたのだった。
「メリカちゃん珍しいよねぇ、授業出なかったのぉ?」
「……レオンハルト・リオリア、あんたのどっピンクより珍しくないわよ」
階段の踊り場、そこで立ち止まったメリカに話しかけたのは二階から見下ろす同級生だった。
「えぇー。それよりクールなメリカちゃんがあんなに怒鳴るなんて天地がひっくり返ってもありえないと思ってたんだけどぉ?」
最っ悪。
そう心の中で悪態をつく。最後に叫んだ時咄嗟のことで魔術が甘かったらしい。よりによってこの色魔に聞かれたのは今後いじられるネタになることだろう。屈辱だ。こいつは授業に出ないことなんかナクロ以上に当たり前だと思ってるから、バッチリ聞かれたのだろう。
「新入生だよねぇ~。上で色々やってたみたいだけどぉ。あの子にぜんっぜん殴られた痕がついてないの、どうゆうことー?」
とん、とん、と自身の頬を指さして言うレオンハルト。その口は三日月を描き、だが目だけは探るように爛々と輝く。まるで猫、それも派手好きのチェシャ猫だ。すべて知っているように笑い、それでも自分から言わせようと甘言を囁く。
ぐっと歯を噛み締めメリカは耐えた。何も言うまいと口を閉ざした。手を出して声帯を潰せたらそれが一番、個人的にスッキリする殺り方だが、レオンハルトの方が強いのでどうにもできない。
なんでこんなむかつく野郎があたしより成績いいのよっ!?
「ま、いいよぉ」
降ってきたセリフに、メリカは思わず耳を疑った。
「だって……秘密は暴くのが一番イイでしょぉ?」
「クソ快楽主義者」
「あはは、またね~」
今出来る精一杯の反抗もどうやら褒め言葉のようで、軽くいなしてレオンハルトは去っていった。
しばらく警戒していたが他の生徒が出てきて、メリカはレオンハルトのことを無理やり忘れた。覚えていたくない。……そういえば、回し蹴りから起き上がった時には既にナクロは顔の腫れをなくしていた。今までより随分治療速度が速くなっているようだ。
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