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第六話
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ハオランが街を飛び出して降り立ったのは、可憐な花が咲き乱れる花畑の中央だった。
遠くに宮殿の頭が僅かに見え、街からそう遠くない場所だと分かった。
「ハオラン、ここは?」
「ここは私の、源泉だ」
源泉。
あの、ハオランとものすごいことをした夜に聞いた気がする。
記憶を辿って、恥ずかしい行為の部分を掻き分けながら思い出し、ルォシーは「あぁ、」と呟いた。
「たしか、えっと、『暖かな春の花畑』ってやつ?」
「そうだ」
「どうしてここに?」
ふと問うてから、そんなものは火を見るより明らかだとルォシーは気づいた。
ハオランは、あの日の夜に半分だけ復活したとはいえ、まだまだ魔力の回復が間に合っていない。もう本当に限界なのだろう。
ルォシーの前では決して疲れた顔は見せないが、空を飛ぶのも本当は辛かったのではなかろうか。
「少し、休もう。ルォシー」
そう呟くハオランは、やっぱり疲労が溜まっているようだ。
「うん。……ここ、本当に『暖かな春の花畑』なのか? ちょっと寒い気がするけど……」
街で感じる体感気温は冷ややかだったから、今が春ではないと思っていたのだが、ここが「源泉」というのであれば、今はどうやら「暖かな春」だったらしい。
ハオランの背から降りたルォシーは、そっとしゃがんで足元の可憐な花に手を添えた。
その横に、ハオランは大きな身体を横たえる。
「今って、春?だったんだ?」
「今は春ではない」
「そうなのか? じゃあ、ここは何?」
「今は秋だ。もうすぐ冬になりそうな」
頭が混乱してきた。
この世界に季節というものがあるのは、ルォシーだって知っている。
季節は春夏秋冬の四つがあって、そのうちの春は夏に比べて冷たく、冬よりは暖かな日が続く時で、過ごしやすいものだというのも知っている。
大通りに住んでいる人たちが「今日は"せいめいせつ"ね」「もうすぐ"ちゅうしゅうせつ"だ」なんて言っているのを聞いたことがある。
店先に何やら文字がいっぱい書かれた紙が貼ってあるのを見ながら、店主が「明日からの"しゅんせつ"は忙しくなる」なんて言っていた。
季節とやらは、その紙によって決められているらしい。
春は好きだ。
暖かくて、寝る時にギリギリ風邪を引かない。
だからきっとハオランの言う『暖かな春の花畑』は暖かくて、過ごしやすいところなのだと思っていた。
だが、今はどうだろう。
今日は、ハオラン曰く冬に入りかけの秋らしく、どうも話が入ってこない。
目を白黒させているルォシーを見て、大きな獣の姿のままハオランはクツクツ笑った。
「ここは、私の魔力の根源。源泉とも言う。ここの地から湧き出る魔力のおかげで、ここはいつでも春の陽気に包まれている。ここに生える花は、全て春に咲く花だ」
「そ、そうなのか……」
「あぁ。ルォシーの魔力に似て、とても心地良い」
そう言うハオランは、本当に心地良さそうに目を細め、前足に頭を預けた。
「こちらにおいで、ルォシー。お前も休んだ方がいい」
「う、うん」
ハオランの首元に座り背を彼に預けて、ルォシーは目を閉じてみた。
尻に当たる地面は、普段感じるような冷たさはなく、一度だけ触れたふわふわの布団のように温かく、足先から徐々に身体がぽかぽかと温まってきたように感じた。
あの日から欠けたルォシーの魔力が、徐々に満たされていく。
これが、魔力の源。
源泉。
街中で微妙に感じるような回復力なんて、本当に微々たるものだったのだと分かる。
「ここ、とっても気持ちいいな」
ルォシーがぼんやりと呟くと、背中が揺れた。ハオランが喉奥で笑ったのだ。
「あぁ。ルォシーの魔力と似ている」
「絶対そんなわけない!」
こんな温かく、じわじわと身体に力がみなぎるような魔力なんて持っていない。
慌てて起き上がってハオランを見たが、ハオランは目を閉じて感じ入っているようで、ルォシーは仕方なくまたハオランに背を預けた。
見上げた先の空は、とても広い。
黒い空に、ぽつぽつと点が飛び散っていて、まるでキラキラと輝いているように見えた。
あれは星。
星も不思議だ。
さっき空を走っていた時に触れられるかと思ったのに、今と同じ、遠いままだった。
「ルォシー」
「なんだよ」
「私は、お前に話さなければいけない」
パチリ、とハオランが目を開いた。
犬に似た鼻づらをルォシーの頬に寄せて、ぺろりと頬を舐められる。
突然のことに驚いたルォシーだったが、ハオランはキョトンと首を傾げた。
「この姿では、お前に口づけもできないな」
「……しなくていい」
「どうして?」
どうしてもなにも。
キスは慣れこそすれ、恥ずかしさは拭えていないのだ。
こんな開けた場所で、誰もいないとは分かっているが、やっぱり恥ずかしい。
「そ、そんなことより! 話、って?」
「あぁ、そうだな。……私が、どうして追われていたのか、話さなければいけない」
こくり、と、ルォシーは知らず知らずのうちに唾を飲み込んでいた。
「ルォシーは、私のこの姿を見て、どう思った? 何を知っている?」
「え?」
突然の問いに、ルォシーは改めて今のハオランを見て、それから「えっと……」と口どもりながらも考えた。
人間でないことは分かる。
ハオランのこの物言いから考えて、きっとたぶんこの獣の姿には名前がついているのだろう。
だが、学のないルォシーには、その名前が何なのか分からなかった。
正直にそう伝えると、ハオランは「そうか」と呟いた。
「で、でも、前も言ったけど、怖くないから! ハオランだから、全然怖くない」
「ありがとう、ルォシー」
クツクツと笑われてしまい、ハオランの求めている答えはこれではないとルォシーは理解した。カッと頬が熱くなった。
そんなルォシーの姿を見たハオランに頬を舐められて、ルォシーはますます恥ずかしくなった。
「ルォシー」
「なんだよ」
「お前は私の姿を見て、怖くないと言うが……これを見ても、怖くないか?」
そう言うが早いか、ハオランが一つ息を吐いて、目を開いた。
そう、目を開いたのだ。
ただし、無数の目を。
「っ……!」
ハオランの身体中から、彼と同じ色の瞳がギョロギョロとこちらを見た。
これは、なんだ。
ふわふわの体毛の間から目が、目が、目が。
身体が固まってしまったルォシーを見て、ハオランは悲しそうに無数の目を細め、そしてそっと顔にある二つの目以外を閉じた。
「すまない、ルォシー。怖がらせるつもりはなかった」
ハオランの言葉にハッと笑に帰ると、ルォシーは慌てて首を横に振った。
「怖くない!」
「だが……」
「怖くない! だって、ハオランだから!」
それは本当だ。
確かに、突然のことで驚いたが、ハオランだと分かれば恐怖は消えた。
「怖くないよ。本当だ」
「ありがとう、ルォシー」
世辞を言われたと思ったのだろう。
あまりルォシーの本心が伝わった気がしない。
ややあって、ハオランがまた口を開いた。
「……私は、人間ではない。人間たちからは『白澤』と呼ばれる神獣だ」
「し、しんじゅう?」
白澤、という名前は聞いたことがある。
遠い昔、近所に住んでいた物知り爺さんから聞いた。
なんでも、白澤は宮殿に住んでいる「何か」で、人間たちの繁栄と平和を願っているらしい。
そんな凄そうな存在が、今目の前にいる、らしい。
実感が湧かない。
「この世界には、私以外にも何匹か神獣が存在する。人間たちにとって、私たちのような存在は、そこにいるだけで彼らに幸福をもたらすことができるらしい」
「へぇ……なんだか、よくわからないけど、ハオランはやっぱりすごいな」
「あの宮殿に住む帝たちは長年私と縁を結び、とても良くしてくれた。その気持ちに私も応え、帝が変わるごとに縁を結び、彼らの民を想う心に報いたのだが……あの男は、違った」
低く、そして哀しそうに、ハオランは呟いた。
目を細め、そっと空を見上げる。
「縁とは、絆とも言う。この縁を私と結んだ人間は、死ぬまで私と共に在る。この縁のおかげで、帝は私の魔力を用いることができ、そうして、この世界がいつまでも平和であれと願うことができた」
平和とやらがルォシーにはピンとこなかったが、それは帝やハオランにとってはとても大事なもののようだ。
「帝が病に臥せたのを見たあの男は、宮殿に支える者たちを先導し、帝を瞬く間に玉座から引き摺り下ろすと、私と彼を無理矢理引き離した。新たな帝に成り変わり、私を宮殿の奥底の牢に閉じ込めたのだ」
「そんな……」
「なんとか牢から逃げることはできたが……私は縁のせいで街から遠く離れることができない。せいぜいこの源泉までだ。街中を逃げている途中で、ルォシーと出会ったんだ」
「そうだったんだ……」
すぐさま追っ手を放ったことを考えても、その縁とやらは非常に厄介なものなのだろう。
言葉を紡ぐたびに、ハオランは苦しそうに目を瞬かせた。
「その縁は、切れないのか?」
「あぁ。私から切ることはできない」
「そうなんだ……今、その縁はどうなっているの?」
新たな帝に、と言うのだから、ハオランとその男は縁を結んだのだろう。嫌がるハオランに、そのようなことができるのだろうか。
ルォシーの疑問は、どうやら顔に出ていたらしい。それを察して、ハオランは話を続けてくれる。
「……あの男は、私と帝の縁を無理矢理切った。そして、無理矢理、あの男と縁を結び直したのだ」
「え?」
「そのせいで私は、今もあの男に魔力を吸い取られ続けている」
それはつまり。
あの家での生活は、本当に辛かったのではないか。
思わずハオランの首に抱きつくと、ハオランが鼻でルォシーの頭を撫でてくれた。
「ごめん、ハオラン」
「どうしてルォシーが謝ることがある?」
「ハオランを助けられていなかった」
「そんなことはない。ルォシー」
「でも、おれ、」
目頭が熱くなってくる。
あぁ、なんて女々しいことだろう。
自分の力不足と、ハオランとはまったく異なる身分に、嫌気がさす。
「ルォシーと共に過ごした日々は、とても幸せだった」
ふわり、と風がひとつ吹いたかと思うと、ハオランが獣の姿から人間の姿へ変わっていた。
首元に抱きついていたルォシーを優しく抱きしめ、背を撫でてくれる。
「この源泉のように、暖かく私を迎えてくれた。ルォシー。私の源。お前に会えたことは、私にとって幸福だった」
「だった、なんて……」
なぜ、ここまで来て突き放すようなことを言うのだろう。ハオランの腕の中から見上げると、ハオランはにこりと微笑んでルォシーの額にキスをしてきた。
キスをされたところがじわりと熱を持ち、ハオランの柔らかな魔力がルォシーの中に溶け込んでいくのを感じた。
「私は、宮殿に戻らなければいけない」
「どうして……?」
「帝が、私を待っている」
「ハオランの魔力を奪っているやつ?」
「違う。病に臥せる帝だ。彼を助けないといけない」
話を聞く限り、きっとこの帝が鎧男たちの言う「次男坊」なのだろう。
ハオランの「ご執心」を受けた「次男坊」。彼の代わりが自分なのだと、鎧男たちは言っていた。
「で、でも、今宮殿に帰ったら、そいつはハオランに酷いことをするかもしれないぞ」
「私に何をしようと構わない。帝に手を出しさえしなければ良い。それと、これ以上私の魔力で私服を肥やすのは見ていられない」
「でも……」
もしここで、ハオランが宮殿に帰ってしまったら。ルォシーはどうなってしまうのだろう。
あの路地にはもう帰れない。
家はないし、近所の人たちはもう信用できない。
花籠も、もうない。
ルォシーを形成する何もかもが、もう無いのだ。
「ハオランは酷い」
「……あぁ。すまない」
「おれも行く」
「え?」
「おれも、宮殿に行く」
「それはできない。ルォシーを酷く傷つけることになる」
ハオランは優しい言葉をくれる。
それが今はとても苦しい。
「ハオランひとりじゃ、心配だ。確かにおれは魔法も上手く使えないし、足を引っ張るかもしれないけど……でも、ハオランだけで行かせられないよ」
こうして源泉で魔力を補充しているとはいえ、その男に魔力を吸い続けられている現状は変わらない。
このままでは、たとえハオランであっても死んでしまうかもしれないのだ。
そんなことは、嫌だ。
「ハオラン、その人を助けに行こう。大切な人なんだろ?」
「だが……」
「大丈夫だって! おれ、逃げ足だけは速いんだ!」
正直言うと、怖い。
何が待ち受けているのか分からないし、運良く捕まった帝に会えたとしてそこからどうすればいいのか分からない。
それでも、ハオランを一人にすることはできない。
ルォシーが元気に見えるようポーズを取って見せると、ハオランはきょとんと目を丸くした後、クスクスと笑った。
「明日の朝には魔力が戻っているだろう。もう休もう、ルォシー」
「うん」
こんな場所で寝られるだろうか、と一抹の不安はあったが、ハオランが優しく抱きしめてくれてふわりと魔法で掛布を出してくれた。
ハオランがまた人差し指を立てて「隠して」と呟いた。光の粒子が人差し指から飛び出したかと思えば、ちょうど人間二人が横になっても十分な広さまで広がって消えた
何をしたのか、とハオランを見上げると、ハオランはくすりと笑った。
「一応、私たちの姿が周囲に見えないようにしたんだ。ここには誰も来ないが、念のためだ」
「そっか。ありがとう、ハオラン」
これで安心して眠れる。
と、ころりとハオランの手によってその場に寝かせられた。
寒くて固い地面かと思ったが、寝転んだそこは一度だけ味わったふわふわの温かな布団のようにルォシーを包み込んでくれた。深呼吸を一つすると、甘い花の香りが肺を満たす。
寝やすい場所を探してコロコロと寝返りを打っていると、ゆっくりと、ハオランの顔が近づいてきた。
あ、キスされる。
そう思ってぎゅうと目を閉じたが、思った柔らかさが来ない。
そっと目を開くと、確かにハオランはキスできるほど近くにいたものの、キスをしてくる様子はない。
「ハオラン?」
「寝よう。ルォシー」
「う、うん」
まるで期待していたかのようではないか。
恥ずかしい。
首まで真っ赤になりながら、ルォシーは掛布を口元まで被った。
「な、なぁ、ハオラン」
「ん? なんだ?」
「キス、しないのか?」
あぁ、これではますます期待しているかのようだ。表に出てしまった言葉は取り返せない。キョトンと目を瞬かせるハオランの顔を見られなくなり、ルォシーは彼に背を向けた。
「ルォシー」
「うぅ……な、なんでもない! 気にしないで」
「ルォシー、こちらを向いて。気づいてやれなくてすまない」
「ち、違う! 違うから! おれ、そんなつもりで言ったんじゃ……!」
「ルォシー」
そっと頬を撫でられて、ビタリとルォシーは身体を固まらせた。
ハオランが嬉しそうに微笑んで、またゆっくりと顔を近づけてくる。
キスしてしまう。
自分から誘ったかのような空気は解せないが、ルォシーは努めて平常心を保ちながらまた目を閉じた。
ちゅ、と軽い音を立てて、キスが落ちる。
まるで子供にするようなそれに満足できる日は、この前過ぎ去った。
不満げに目を開けると、ハオランが苦笑気味に眉を下げた。
「……」
「そのような顔をするな。我慢できなくなる」
そうして、そっとルォシーから離れようとするハオランの服を、ルォシーは慌てて掴んだ。
「し、しなくていい!」
「だが……」
「も、もっと、キス、してほしい……」
恥ずかしくて、どんどんどんどん尻すぼみになる声に、ハオランは目を丸くした。
ハオランの顔を見られなくて、そっと視線を逸らす。
そんなルォシーの頬に、またハオランの指が添わされた。
「ルォシー。こちらを見てくれ」
「う、うぅ……恥ずかしい……! やっぱ、無し。今の無し!」
「そんなことを言わないで、ルォシー。口付けをしよう」
「うぅ……」
乞われるまま、恐る恐るハオランを見上げると、ルォシーの額、頬、目尻にハオランの唇が当てられた。
微量ながら、キスをされた場所にハオランの魔力が宿ったような気がして、心がぽかぽかと温まる。
「ハオラン、もっと」
「これ以上はいけない」
「なんで?」
「これ以上したら、私の我慢が効かなくなる」
我慢。
確かに、明日は大事な日だ。
だが、ここ何日も何日も唇にキスをしてきたくせに、今日だけそれがないのは、なんだか物足りない。
ん、と顔を上げて目を閉じるが、ハオランは少し厳しい口調で「ルォシー」と言った。
「じゃあ、帝を助けたら、してくれよな」
「あぁ、必ず。約束する」
「……ん」
返事をしてから、ふと、自分が我儘を言っているかのような格好になっていることに気づいて、ルォシーは慌てて掛布を頭まで被った。だがしかし、ハオランの手によって掛布は正しい位置に戻されてしまったが。
「さぁ、寝よう。明日は早い」
額にまた、ハオランのキスが落ちた。
無理矢理目を閉じるとすぐに夢の扉が開いてきたので、ルォシーは素直に眠ることにした。
遠くに宮殿の頭が僅かに見え、街からそう遠くない場所だと分かった。
「ハオラン、ここは?」
「ここは私の、源泉だ」
源泉。
あの、ハオランとものすごいことをした夜に聞いた気がする。
記憶を辿って、恥ずかしい行為の部分を掻き分けながら思い出し、ルォシーは「あぁ、」と呟いた。
「たしか、えっと、『暖かな春の花畑』ってやつ?」
「そうだ」
「どうしてここに?」
ふと問うてから、そんなものは火を見るより明らかだとルォシーは気づいた。
ハオランは、あの日の夜に半分だけ復活したとはいえ、まだまだ魔力の回復が間に合っていない。もう本当に限界なのだろう。
ルォシーの前では決して疲れた顔は見せないが、空を飛ぶのも本当は辛かったのではなかろうか。
「少し、休もう。ルォシー」
そう呟くハオランは、やっぱり疲労が溜まっているようだ。
「うん。……ここ、本当に『暖かな春の花畑』なのか? ちょっと寒い気がするけど……」
街で感じる体感気温は冷ややかだったから、今が春ではないと思っていたのだが、ここが「源泉」というのであれば、今はどうやら「暖かな春」だったらしい。
ハオランの背から降りたルォシーは、そっとしゃがんで足元の可憐な花に手を添えた。
その横に、ハオランは大きな身体を横たえる。
「今って、春?だったんだ?」
「今は春ではない」
「そうなのか? じゃあ、ここは何?」
「今は秋だ。もうすぐ冬になりそうな」
頭が混乱してきた。
この世界に季節というものがあるのは、ルォシーだって知っている。
季節は春夏秋冬の四つがあって、そのうちの春は夏に比べて冷たく、冬よりは暖かな日が続く時で、過ごしやすいものだというのも知っている。
大通りに住んでいる人たちが「今日は"せいめいせつ"ね」「もうすぐ"ちゅうしゅうせつ"だ」なんて言っているのを聞いたことがある。
店先に何やら文字がいっぱい書かれた紙が貼ってあるのを見ながら、店主が「明日からの"しゅんせつ"は忙しくなる」なんて言っていた。
季節とやらは、その紙によって決められているらしい。
春は好きだ。
暖かくて、寝る時にギリギリ風邪を引かない。
だからきっとハオランの言う『暖かな春の花畑』は暖かくて、過ごしやすいところなのだと思っていた。
だが、今はどうだろう。
今日は、ハオラン曰く冬に入りかけの秋らしく、どうも話が入ってこない。
目を白黒させているルォシーを見て、大きな獣の姿のままハオランはクツクツ笑った。
「ここは、私の魔力の根源。源泉とも言う。ここの地から湧き出る魔力のおかげで、ここはいつでも春の陽気に包まれている。ここに生える花は、全て春に咲く花だ」
「そ、そうなのか……」
「あぁ。ルォシーの魔力に似て、とても心地良い」
そう言うハオランは、本当に心地良さそうに目を細め、前足に頭を預けた。
「こちらにおいで、ルォシー。お前も休んだ方がいい」
「う、うん」
ハオランの首元に座り背を彼に預けて、ルォシーは目を閉じてみた。
尻に当たる地面は、普段感じるような冷たさはなく、一度だけ触れたふわふわの布団のように温かく、足先から徐々に身体がぽかぽかと温まってきたように感じた。
あの日から欠けたルォシーの魔力が、徐々に満たされていく。
これが、魔力の源。
源泉。
街中で微妙に感じるような回復力なんて、本当に微々たるものだったのだと分かる。
「ここ、とっても気持ちいいな」
ルォシーがぼんやりと呟くと、背中が揺れた。ハオランが喉奥で笑ったのだ。
「あぁ。ルォシーの魔力と似ている」
「絶対そんなわけない!」
こんな温かく、じわじわと身体に力がみなぎるような魔力なんて持っていない。
慌てて起き上がってハオランを見たが、ハオランは目を閉じて感じ入っているようで、ルォシーは仕方なくまたハオランに背を預けた。
見上げた先の空は、とても広い。
黒い空に、ぽつぽつと点が飛び散っていて、まるでキラキラと輝いているように見えた。
あれは星。
星も不思議だ。
さっき空を走っていた時に触れられるかと思ったのに、今と同じ、遠いままだった。
「ルォシー」
「なんだよ」
「私は、お前に話さなければいけない」
パチリ、とハオランが目を開いた。
犬に似た鼻づらをルォシーの頬に寄せて、ぺろりと頬を舐められる。
突然のことに驚いたルォシーだったが、ハオランはキョトンと首を傾げた。
「この姿では、お前に口づけもできないな」
「……しなくていい」
「どうして?」
どうしてもなにも。
キスは慣れこそすれ、恥ずかしさは拭えていないのだ。
こんな開けた場所で、誰もいないとは分かっているが、やっぱり恥ずかしい。
「そ、そんなことより! 話、って?」
「あぁ、そうだな。……私が、どうして追われていたのか、話さなければいけない」
こくり、と、ルォシーは知らず知らずのうちに唾を飲み込んでいた。
「ルォシーは、私のこの姿を見て、どう思った? 何を知っている?」
「え?」
突然の問いに、ルォシーは改めて今のハオランを見て、それから「えっと……」と口どもりながらも考えた。
人間でないことは分かる。
ハオランのこの物言いから考えて、きっとたぶんこの獣の姿には名前がついているのだろう。
だが、学のないルォシーには、その名前が何なのか分からなかった。
正直にそう伝えると、ハオランは「そうか」と呟いた。
「で、でも、前も言ったけど、怖くないから! ハオランだから、全然怖くない」
「ありがとう、ルォシー」
クツクツと笑われてしまい、ハオランの求めている答えはこれではないとルォシーは理解した。カッと頬が熱くなった。
そんなルォシーの姿を見たハオランに頬を舐められて、ルォシーはますます恥ずかしくなった。
「ルォシー」
「なんだよ」
「お前は私の姿を見て、怖くないと言うが……これを見ても、怖くないか?」
そう言うが早いか、ハオランが一つ息を吐いて、目を開いた。
そう、目を開いたのだ。
ただし、無数の目を。
「っ……!」
ハオランの身体中から、彼と同じ色の瞳がギョロギョロとこちらを見た。
これは、なんだ。
ふわふわの体毛の間から目が、目が、目が。
身体が固まってしまったルォシーを見て、ハオランは悲しそうに無数の目を細め、そしてそっと顔にある二つの目以外を閉じた。
「すまない、ルォシー。怖がらせるつもりはなかった」
ハオランの言葉にハッと笑に帰ると、ルォシーは慌てて首を横に振った。
「怖くない!」
「だが……」
「怖くない! だって、ハオランだから!」
それは本当だ。
確かに、突然のことで驚いたが、ハオランだと分かれば恐怖は消えた。
「怖くないよ。本当だ」
「ありがとう、ルォシー」
世辞を言われたと思ったのだろう。
あまりルォシーの本心が伝わった気がしない。
ややあって、ハオランがまた口を開いた。
「……私は、人間ではない。人間たちからは『白澤』と呼ばれる神獣だ」
「し、しんじゅう?」
白澤、という名前は聞いたことがある。
遠い昔、近所に住んでいた物知り爺さんから聞いた。
なんでも、白澤は宮殿に住んでいる「何か」で、人間たちの繁栄と平和を願っているらしい。
そんな凄そうな存在が、今目の前にいる、らしい。
実感が湧かない。
「この世界には、私以外にも何匹か神獣が存在する。人間たちにとって、私たちのような存在は、そこにいるだけで彼らに幸福をもたらすことができるらしい」
「へぇ……なんだか、よくわからないけど、ハオランはやっぱりすごいな」
「あの宮殿に住む帝たちは長年私と縁を結び、とても良くしてくれた。その気持ちに私も応え、帝が変わるごとに縁を結び、彼らの民を想う心に報いたのだが……あの男は、違った」
低く、そして哀しそうに、ハオランは呟いた。
目を細め、そっと空を見上げる。
「縁とは、絆とも言う。この縁を私と結んだ人間は、死ぬまで私と共に在る。この縁のおかげで、帝は私の魔力を用いることができ、そうして、この世界がいつまでも平和であれと願うことができた」
平和とやらがルォシーにはピンとこなかったが、それは帝やハオランにとってはとても大事なもののようだ。
「帝が病に臥せたのを見たあの男は、宮殿に支える者たちを先導し、帝を瞬く間に玉座から引き摺り下ろすと、私と彼を無理矢理引き離した。新たな帝に成り変わり、私を宮殿の奥底の牢に閉じ込めたのだ」
「そんな……」
「なんとか牢から逃げることはできたが……私は縁のせいで街から遠く離れることができない。せいぜいこの源泉までだ。街中を逃げている途中で、ルォシーと出会ったんだ」
「そうだったんだ……」
すぐさま追っ手を放ったことを考えても、その縁とやらは非常に厄介なものなのだろう。
言葉を紡ぐたびに、ハオランは苦しそうに目を瞬かせた。
「その縁は、切れないのか?」
「あぁ。私から切ることはできない」
「そうなんだ……今、その縁はどうなっているの?」
新たな帝に、と言うのだから、ハオランとその男は縁を結んだのだろう。嫌がるハオランに、そのようなことができるのだろうか。
ルォシーの疑問は、どうやら顔に出ていたらしい。それを察して、ハオランは話を続けてくれる。
「……あの男は、私と帝の縁を無理矢理切った。そして、無理矢理、あの男と縁を結び直したのだ」
「え?」
「そのせいで私は、今もあの男に魔力を吸い取られ続けている」
それはつまり。
あの家での生活は、本当に辛かったのではないか。
思わずハオランの首に抱きつくと、ハオランが鼻でルォシーの頭を撫でてくれた。
「ごめん、ハオラン」
「どうしてルォシーが謝ることがある?」
「ハオランを助けられていなかった」
「そんなことはない。ルォシー」
「でも、おれ、」
目頭が熱くなってくる。
あぁ、なんて女々しいことだろう。
自分の力不足と、ハオランとはまったく異なる身分に、嫌気がさす。
「ルォシーと共に過ごした日々は、とても幸せだった」
ふわり、と風がひとつ吹いたかと思うと、ハオランが獣の姿から人間の姿へ変わっていた。
首元に抱きついていたルォシーを優しく抱きしめ、背を撫でてくれる。
「この源泉のように、暖かく私を迎えてくれた。ルォシー。私の源。お前に会えたことは、私にとって幸福だった」
「だった、なんて……」
なぜ、ここまで来て突き放すようなことを言うのだろう。ハオランの腕の中から見上げると、ハオランはにこりと微笑んでルォシーの額にキスをしてきた。
キスをされたところがじわりと熱を持ち、ハオランの柔らかな魔力がルォシーの中に溶け込んでいくのを感じた。
「私は、宮殿に戻らなければいけない」
「どうして……?」
「帝が、私を待っている」
「ハオランの魔力を奪っているやつ?」
「違う。病に臥せる帝だ。彼を助けないといけない」
話を聞く限り、きっとこの帝が鎧男たちの言う「次男坊」なのだろう。
ハオランの「ご執心」を受けた「次男坊」。彼の代わりが自分なのだと、鎧男たちは言っていた。
「で、でも、今宮殿に帰ったら、そいつはハオランに酷いことをするかもしれないぞ」
「私に何をしようと構わない。帝に手を出しさえしなければ良い。それと、これ以上私の魔力で私服を肥やすのは見ていられない」
「でも……」
もしここで、ハオランが宮殿に帰ってしまったら。ルォシーはどうなってしまうのだろう。
あの路地にはもう帰れない。
家はないし、近所の人たちはもう信用できない。
花籠も、もうない。
ルォシーを形成する何もかもが、もう無いのだ。
「ハオランは酷い」
「……あぁ。すまない」
「おれも行く」
「え?」
「おれも、宮殿に行く」
「それはできない。ルォシーを酷く傷つけることになる」
ハオランは優しい言葉をくれる。
それが今はとても苦しい。
「ハオランひとりじゃ、心配だ。確かにおれは魔法も上手く使えないし、足を引っ張るかもしれないけど……でも、ハオランだけで行かせられないよ」
こうして源泉で魔力を補充しているとはいえ、その男に魔力を吸い続けられている現状は変わらない。
このままでは、たとえハオランであっても死んでしまうかもしれないのだ。
そんなことは、嫌だ。
「ハオラン、その人を助けに行こう。大切な人なんだろ?」
「だが……」
「大丈夫だって! おれ、逃げ足だけは速いんだ!」
正直言うと、怖い。
何が待ち受けているのか分からないし、運良く捕まった帝に会えたとしてそこからどうすればいいのか分からない。
それでも、ハオランを一人にすることはできない。
ルォシーが元気に見えるようポーズを取って見せると、ハオランはきょとんと目を丸くした後、クスクスと笑った。
「明日の朝には魔力が戻っているだろう。もう休もう、ルォシー」
「うん」
こんな場所で寝られるだろうか、と一抹の不安はあったが、ハオランが優しく抱きしめてくれてふわりと魔法で掛布を出してくれた。
ハオランがまた人差し指を立てて「隠して」と呟いた。光の粒子が人差し指から飛び出したかと思えば、ちょうど人間二人が横になっても十分な広さまで広がって消えた
何をしたのか、とハオランを見上げると、ハオランはくすりと笑った。
「一応、私たちの姿が周囲に見えないようにしたんだ。ここには誰も来ないが、念のためだ」
「そっか。ありがとう、ハオラン」
これで安心して眠れる。
と、ころりとハオランの手によってその場に寝かせられた。
寒くて固い地面かと思ったが、寝転んだそこは一度だけ味わったふわふわの温かな布団のようにルォシーを包み込んでくれた。深呼吸を一つすると、甘い花の香りが肺を満たす。
寝やすい場所を探してコロコロと寝返りを打っていると、ゆっくりと、ハオランの顔が近づいてきた。
あ、キスされる。
そう思ってぎゅうと目を閉じたが、思った柔らかさが来ない。
そっと目を開くと、確かにハオランはキスできるほど近くにいたものの、キスをしてくる様子はない。
「ハオラン?」
「寝よう。ルォシー」
「う、うん」
まるで期待していたかのようではないか。
恥ずかしい。
首まで真っ赤になりながら、ルォシーは掛布を口元まで被った。
「な、なぁ、ハオラン」
「ん? なんだ?」
「キス、しないのか?」
あぁ、これではますます期待しているかのようだ。表に出てしまった言葉は取り返せない。キョトンと目を瞬かせるハオランの顔を見られなくなり、ルォシーは彼に背を向けた。
「ルォシー」
「うぅ……な、なんでもない! 気にしないで」
「ルォシー、こちらを向いて。気づいてやれなくてすまない」
「ち、違う! 違うから! おれ、そんなつもりで言ったんじゃ……!」
「ルォシー」
そっと頬を撫でられて、ビタリとルォシーは身体を固まらせた。
ハオランが嬉しそうに微笑んで、またゆっくりと顔を近づけてくる。
キスしてしまう。
自分から誘ったかのような空気は解せないが、ルォシーは努めて平常心を保ちながらまた目を閉じた。
ちゅ、と軽い音を立てて、キスが落ちる。
まるで子供にするようなそれに満足できる日は、この前過ぎ去った。
不満げに目を開けると、ハオランが苦笑気味に眉を下げた。
「……」
「そのような顔をするな。我慢できなくなる」
そうして、そっとルォシーから離れようとするハオランの服を、ルォシーは慌てて掴んだ。
「し、しなくていい!」
「だが……」
「も、もっと、キス、してほしい……」
恥ずかしくて、どんどんどんどん尻すぼみになる声に、ハオランは目を丸くした。
ハオランの顔を見られなくて、そっと視線を逸らす。
そんなルォシーの頬に、またハオランの指が添わされた。
「ルォシー。こちらを見てくれ」
「う、うぅ……恥ずかしい……! やっぱ、無し。今の無し!」
「そんなことを言わないで、ルォシー。口付けをしよう」
「うぅ……」
乞われるまま、恐る恐るハオランを見上げると、ルォシーの額、頬、目尻にハオランの唇が当てられた。
微量ながら、キスをされた場所にハオランの魔力が宿ったような気がして、心がぽかぽかと温まる。
「ハオラン、もっと」
「これ以上はいけない」
「なんで?」
「これ以上したら、私の我慢が効かなくなる」
我慢。
確かに、明日は大事な日だ。
だが、ここ何日も何日も唇にキスをしてきたくせに、今日だけそれがないのは、なんだか物足りない。
ん、と顔を上げて目を閉じるが、ハオランは少し厳しい口調で「ルォシー」と言った。
「じゃあ、帝を助けたら、してくれよな」
「あぁ、必ず。約束する」
「……ん」
返事をしてから、ふと、自分が我儘を言っているかのような格好になっていることに気づいて、ルォシーは慌てて掛布を頭まで被った。だがしかし、ハオランの手によって掛布は正しい位置に戻されてしまったが。
「さぁ、寝よう。明日は早い」
額にまた、ハオランのキスが落ちた。
無理矢理目を閉じるとすぐに夢の扉が開いてきたので、ルォシーは素直に眠ることにした。
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