ネイビーブルー・カタストロフィ――誰が○○○を×したか――

古間降丸

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2 うみうし、ぬるぬる(その1)

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 静刻は教室ほどの広さの部屋にいた。
 部屋の一角に無人のカウンターがあり、室内にはいくつかのテーブルとイスがあり、壁は窓が並ぶ一面を除いて床から天井までをぎっしりと本の詰まった書棚が埋めている。
「ここは――」
 静刻は感じたままを口にする。
「――図書室?」
 人の気配を感じて目を向ける。
 窓際に、外を見ているセーラー服の後ろ姿があった。
 静刻の部屋に現れた“童女”である。
 ふたりだけの図書室で“童女”は背後の静刻に気付くことなく、なにかぶつぶつとつぶやいている。
「ようやくたどりついた一九九二年。ここであたしが歴史を変える。そう、あの忌まわしきネイビーブルー・カタストロフィを回避させるのよ。……できるかしら――」
 一旦うつむき、すぐに顔を上げる。
「――いや、やってみせる」
 自問自答し、両手を広げる。
 まるで舞台女優のような振る舞いだが静刻の目には“自分に酔っているだけ”にしか見えない。
 そんな半ば呆れた視線が背後から向けられていることなど知る由もなく、“童女”が声を張り上げる。
「そのためにあたしはここまでやってきたのだからっ。どんな困難があろうともっ。それがあたしの使命なのだからっ」
 静刻はその後ろ姿を見ながら声を掛けるタイミングを探る。
 “童女”は気付かず、“一人芝居”を続ける。
「あたしはそのために作られたっ。いいえ。そのため“だけ”に作られたのだから。歴史という強大無比な絶対真理の牙城に爪痕を刻む“美しき時の戦士”。それがこのあたしなのだから――」
 そして、ターン。
「あ……」
 静刻と目があった。
 瞬時に頬を紅潮させるその様子から、やはり自分に酔っていただけらしい。
「どどどどどーして、ここにいるんですっ?」
「オレが訊きたいわっ。どこだ、ここは」
 すかさず返す静刻の背後から、またしても女の声が割って入る。
「ここは一九九二年の山葵坂中学校だぴょん」
 振り向くと自分の部屋で見たバニーガールが閲覧机に腰掛けて長い足を組んでいた。
 網タイツで締め付けられて形を整えられた脚線美に静刻は目線が行きがちになるが、その背後に違和感を覚えて目を凝らす。
 最初はぼんやりと、やがて次第にはっきりと姿を現したそれは体長一五〇センチほどの軟体動物だった。
 ぬらぬらと体液をまとわせた体表は全体的に淡いグレーで所々に毛細血管を網目模様に浮き出させている。
 その質感はナメクジを思わせるが、ずんぐりとしたシルエットはナメクジというよりウミウシに近い。
 そんな巨大ウミウシが身体を持ち上げ、腹を見せている。
 “童女”がそれを指差し、叫ぶ。
「ファージっ」
 バニーガールが笑う。
「同じ手に二度もひっかかるとでも……」
 次の瞬間、ウミウシがバニーガールに覆い被さった。
 静けさの戻った図書室で、ぽかんと見ている静刻の視線を受けながら、腹這いになったウミウシは獲物を咀嚼しているかのように全身をもぐもぐと収縮させている。
「く、食われた、のかっ」
 恐怖に固まった声帯からなんとか声を絞り出す静刻の前に“童女”が出る。
 そして、スカートのファスナーを下ろし手を突っ込むと、ごそごそとまさぐりながらつぶやく。
「ファージ凝結ガス、クラス一・〇〇」
 引き抜かれたその手には明らかにファスナーの開口径より大きな一本の消火器がぶら下げられていた。
 戸惑う静刻に構わず“童女”は消火器のノズルをウミウシに向け、レバーを握る。
 白煙が噴き出しウミウシを包む。
 黙って見ている“童女”と戸惑って見ている静刻の前でやがて白煙が晴れると、そこには巨大な結晶に取り込まれて動かないウミウシの姿があった。
「これで大丈夫なのです。もう動くことはできないのです」
 口の中でよっとつぶやき、持ち上げた消火器をスカートのファスナーに押し込む。
 消火器はまるで伸縮自在の材質でできているかのように収縮し、ファスナーの奥へと消えていく。
 “巨大ウミウシ”と“食われたバニーガール”と“セーラー服のスカートから出てきた消火器”と“結晶化したウミウシ”という一連の“謎出来事”に、解釈が追いつかず見ているだけしかできない静刻をよそに、“童女”が――
「ナビゲーター・アロー」
 ――とつぶやいて、同じファスナーから取り出したのは一本のマーカーと“矢印”。
 そのマーカーで“矢印”にいくつかの文字らしい記号を書き込んでささやく。
「よろしく、なのです」
 “矢印”はまるで生き物かアニメーションのようにひらりと“童女”の手から離れ、床から一メートルほどの高さを滑るように扉へと向かう。
 その後を追って“童女”が歩き出す。
 取り残された静刻はセーラー服の後ろ姿と、となりで固まっているウミウシを見比べるが、すぐに“この場合の選択はひとつしかない”と気付いて、セーラー服を追って声を掛ける。
結晶あれ、ほっといていいのか」
「大丈夫なのです。動くことはないのです。そして、この時代の人間には見ることも触れることも発する音を聞くことも臭いを嗅ぐこともできないのです」
 からりと扉を開き、部屋を出る。
 続いて出た静刻の前にはまっすぐな廊下が伸びていた。
 片側には十メートル間隔ほどでいくつかの扉があり、反対側にはずっと青空の覗く窓が並んでいる。
 “ゆきうさぎ”とかいうバニーガールの言葉を思い出すまでもなく、そこは確かに校舎だった。
 前を歩く“童女”について無人の廊下を歩く。
 遠くから号令や教科書を読み上げる声が聞こえることから今は授業中らしい。
 通り過ぎる扉には“理科室”や“家庭科室”といった今の静刻にはちょっと懐かしい言葉が掲示されている。
 遠くから流れてくる声を除けば人の気配がまったくないことから、ここは特別教室だけを集めた校舎なのだろう。
 並ぶ扉とは反対側の窓から外を窺う。
 窓ガラス越しの強い日差しとかすかに聞こえるセミの声、そして、学校の敷地のすぐそばから遠くの山まで続く一面の田畑では黄金色に色づき始めた稲が風に揺れている。
 その視点の高さから今いる所が二階であることが窺えた。
「今は何月だっけ」
 静刻は誰に訊くともなくひとりごちる。
 ついさっきまでいたのは二〇二〇年の六月だったはずである。
 日差しの強さこそ差異はわからないものの、まだセミは鳴いておらず稲の色も青かった。
 しかし、今、目の前に見えている光景と授業中らしい校内の様子はまるで九月を思わせる。
 ということは本当に時間を移動したのだろうか――そんなことを考え、もう一度、バニーガールの言葉を思い出す。
 “ここは一九九二年の山葵坂中学校”
 その言葉通りなら現時点ここは静刻の住んでいた時代から二十八年前になる。
 それを確かめるべく、改めて窓から外を眺める。
 しかし、確かめることはできなかった。
 山葵坂中学校が母校ではない静刻はこの視点で町を見たことがないうえ、そもそも、見えるものが田畑や山の稜線といった町の発展や再開発の影響を受けにくいものばかりだったのである。
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