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6 時代巡り(その1)

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 がばと跳ね起きた静刻は周囲を見渡す。
 そこは住み慣れたワンルームのアパートだった。
 静刻は混乱している。
 なにが起こった?
 自分はどうなった?
 なぜここにいる?
 最後に見たもの――これまでにないほど凶悪な姿態に成長したファージの腹部――を思い出し、無意識に身を震わせる。
 二十八年前の山葵坂中学校で体育館から普通教室棟へ向かっている時にファージに食われて……次の瞬間にはこの部屋にいた。
 もしかして、今までのは――。
「あ……」
 自身の足元に目を留める。
 そして、つぶやく。
「……とりあえずは夢じゃない、と」
 靴を履いていた。
 ギィアから渡された靴を。
 それをいそいそと脱いで、玄関までヒザで歩く。
 その玄関にはあの日下ろしたコンビニ袋がそのまま残っていた。
 振り向いた座卓の上には、閉じたオルゴールが今も乗っている。
 パソコンデスクの正面にぶら下がっているカレンダーも、ギィアとゆきうさぎがやってきた二〇二〇年六月のままであることは言うまでもない。
 気分を落ち着かせようと、ひとまず身体全体で大きく息を吸い、そして、吐く。
 数回繰り返してようやく落ち着いてきたことを感じる。
 同時に押し寄せてきた疲労感にベッドへと身体を投げ出し、仰向けにごろんと転がって天井を見る。
 そして、思い返す。
 ファージの凝結が解かれたのは、最初にギィアが言っていた“成長を果たした”ゆえだろう。
 ファージは歴史改変の芽を摘むことが仕事。
 別の時代から現れた存在が歴史改変について成功率の高い行動や思考を選択するほどより強大に、そして、凶悪に成長する。
 体育館で静刻を襲ったファージもまた成長することで凝結を解いたのだろう。
 それはつまり、“船引和江の真意を知ろうとする静刻の行動”が、より歴史改変に近い行動だったことを裏付けている。
 言い換えれば、それが静刻とギィアが一九九二年に訪れて以来、最もネイビーブルー・カタストロフィを回避させる効果的な行動だったということなのだろう。
 だから、静刻を襲った。
 いや、“襲った”というより“元の時代へ送り返した”のだ。
 歴史を改変させないために。
 ギィアは“プロジェクトを完遂させない限り元の時代へ帰る方法はない”と言っていたが――そこまで考えた時、ふと掲げた左手の甲を見て、認識誘導膏がないことに気付く。
 おそらくファージに覆い被られた時に剥がれたのかあるいはファージによって没収されたのだろう。
 その時、不意に“ぱた、ぱた”というリズミカルな物音が聞こえた。
 一瞬、なんの音かと考えるがすぐに思い出す。
 ベッドから降り、寄った窓辺でカーテンに手を掛ける。
 軽快な“ぱた、ぱた”が窓の外を通り過ぎるのを待って、そっとカーテンを開く。
 夏の近さを窺わせる強い日差しの中を、体育の授業中らしい女子中学生のグループが“ぱた、ぱた”と足音を残して走り去るのが見えた。
 その姿はもちろんハーフパンツである。
 ネイビーブルー・カタストロフィの回避はなされなかったのだ。
 改めてその現実を見たことで心中に去来する寂寥感を覚え、窓ガラスにごつんとひたいを押し当て、半ば無意識にため息をつく。
 ――終わった。
 巻き込まれた形とはいえ、静刻が二十八年前の世界でギィアとともに奔走したプロジェクトは成果を残すことなく強制終了したのだ。
 とはいえ――静刻は考える。
 元の時代に帰り、歴史も変わってないということは、最初からなにも起きてないのも同然である。
 ならば、落胆する理由も、必要もない……。
 そんなことを自分に言い聞かせ、シャワーを浴び、髪を乾かして外へ出た。
 ずいぶん久しぶりな気がした。
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